2012年6 月23日 (土曜日)
「アメリカの原爆投下は、人体実験だったんです」
芳子は芳野教授の言葉に唖然とした。
戦後18年目の終戦記念日の日であった。
天皇陛下の「終戦詔勅」に以下の昭和天皇の公式見解がある。
「敵は残虐なる爆弾を使って無辜の国民を大量に殺した。このままでは日本国民だけでなく、人類の滅亡に向かう。だから日本は降伏する」
アメリカはウラン型とプルトニウム型の原爆を日本国土に投下したが、その隠された理由は人体実験であった。
芳野教授は故郷の実家でる広島市内に妻と4歳の娘を疎開させていた。
そして父母とともに4人を原爆で失っていた。
戦後の東京は完全に廃墟と化していた。
その渦中で芳野は深い喪失感と絶望から生き地獄に突き落とされ、呆然自若となった。
それまでの全ての価値観が顛倒してしまった。
言い知れぬ絶望から立ち上がれたのは、信仰に導かれたからであった。
「芳子さんも信仰を持つべきです」
芳野教授は、書棚から聖書を取り出すと芳子に渡した。
大学は休みであったが、日本機械学会が開かれるため芳野教授は講演抄録をまとめていた。
芳子は教授秘書として事務面での補佐をしていた。
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<参考>
アメリカ軍の人体実験だった広島・長崎の原爆投下
「後悔に1分たりとも時間を費やすな」は米大統領だったトルーマンの言葉だ。
実際、戦後何百回もたずねられた「原爆投下」について少しも後悔の念を見せなかった。
難しい決断だったかと聞かれ「とんでもない、こんな調子で決めた」と指をパチンと
鳴らした。
第33代米国大統領、ハリー・S.トルーマンの逸話である。
2012年6 月23日 (土曜日)
創作欄 芳子の青春 20
5月の陽射しが明るく差し込むガラス窓を背にして、芳子は新聞を読んでいた。
「今 何時なの?」
布団の中から里美が声をかけた。
里美は布団を被って寝ていることが多い。
「もう直ぐ、午後1時になるわ」
「今日は何曜日?」
「日曜日よ」
里美は布団を出るとハンドバックからタバコを取り出した。
里美の部屋を出る日が迫っていた。
芳子は芳野教授が探してくれた中野のアパートへ住むことになっていた。
「里美さん、今の仕事を辞めて、何か他の仕事を探した方がいいと思うの」
「芳子は大学へ勤めているんだよね。それは綺麗ごとだよ。でもね私は私の道を行く。
何時か金づるの男を見つけるさ」
片膝を立てながら里美は投げやりに言うと天井に向けてタバコの煙を吹かした。
パジャマのボタンが二つも外れていて豊かな乳房が露になっていた。
クリスチャンの芳野教授は「あなたには善き友が必要です」と言っていた。
「善智識に導かれることです」とも諭す。
里美が世話してくれた酒場は、単なる水商売ではなく売春を伴う違法な店であった。
「この部屋を出ても、ずっと里美さんには恩義を感じているわ。よいお友だちでいましょうね」
芳子は率直な気持ちを吐露した。
だが、里美は斜め目線で冷笑を浮かべた。
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<参考>
善知識(ぜんちしき、サンスクリット:कल्याणमित्र kalyaaNa-mitra)は、「善き友」「真の友人」、仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人を指していう。
「善友」とも漢訳される。原語の kalyaaNa は、「美しい」「善い」の意味の形容詞、中性名詞として「善」「徳」の意味。mitraは「友人」。
2012年6 月23日 (土曜日)
創作 芳子の青春 19
人は間違える。
失敗もする。
「冤罪の問題点は、真犯人を捕り逃していることだ」
芳野教授は芳子が部屋を出たあと、思いを巡らせた。
若い頃の芳野は江戸川乱歩の小説の愛読者であった。
尋常小学校、旧制の中学校の頃、推理小説を構想し、色々なトリックを夢想していた。
自白を重視する警察は、ある意味で科学的とは言えない。
予断の余地も含めば、真実は見えてこない。
証拠よりも自白を重視する警察の犯罪捜査の在り方が改めて問われる。
同時に、ずさんな捜査をチェックする立場である検察官や裁判官が、本来行うべき検証作業を怠っていたことも事実であろう。
戦時中に秘密兵器の製造に携わってきた芳野は、戦後の大きな事件の中では特に15年前に起きた「帝銀事件」に着目していた。
そして芳野は、作家の松本清張や衆議院議員の小宮山重四郎などとともに支援者として釈放運動を行ってきた。
だが、1962年(昭和37年)に「仙台送り」と言われる宮城刑務所に移送された。
その後も支援者らの説得で平沢は恩赦を求めたが棄却された。
「何という理不尽さであろうか」
芳野は芳子の無念さを、犯人にされてしまった平沢貞通の無念さに重ねた。
一方、芳子も帝銀事件に着目し、新聞を読んできた。
芳子が栃木刑務所に収容された年に、平沢は仙台の宮城刑務所に移送されていた。
「死刑にできない平沢は、宮城刑務所で病死すればいい」と国家権力は願っていたようだった。
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<参考>1
帝銀事件とは、1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区の帝国銀行(後の三井銀行。現在の三井住友銀行)椎名町支店で発生した毒物殺人事件。
戦後の混乱期、GHQの占領下で起きた事件であり、未だに多くの謎が解明されていない。
旧陸軍細菌部隊(731部隊)関係者を中心に捜査されていた。
陸軍第9研究所(通称9研)に所属していた伴繁雄から有力情報を入手して、事件発生から半年後の6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示が出て、陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞るも、突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられてしまう。
テンペラ画家の平沢貞通の供述は、拷問に近い平塚八兵衛の取り調べと、狂犬病予防接種の副作用によるコルサコフ症候群の後遺症としての精神疾患(虚言症)によるものとされる。
平沢の取調べはかなり厳しいものであったと言われ、平沢は逮捕された4日後の8月25日に自殺を図っている。
またその後も2回自殺を図ったとの事である。
代々の法務大臣も死刑執行命令にサインしないまま、1987年(昭和62年)5月10日、平沢は肺炎を患い八王子医療刑務所で病死した。享年95。
平沢貞通の獄死直後の5月25日、捜査本部の刑事に協力した伴繁雄がテレビ出演して、真犯人は平沢でなく、元陸軍関係者と強調していた。
捜査に携わっていた成智英雄は後の手記で「帝銀事件は平沢のように毒物に関する知識が何も持たない人物には不可能 と述べた。
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<参考>2
江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、正字体:江戸川 亂步、男性、1894年(明治27年)10月21日~1965年(昭和40年)7月28日)は、大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家である。
また、戦後は推理小説専門の評論家としても健筆を揮った。
実際、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた。
本名は平井 太郎(ひらい たろう)。
筆名はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったものである
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<参考>3
科学警察研究所は、日本の官公庁のひとつ。
警察庁の附属機関である。
警察庁の附属機関の一つとして設置された組織。科学捜査・犯罪防止・交通警察に関する研究・実験を行うとともに、警察内外の関係機関から依頼された証拠物等の科学的鑑識・検査を行うことを主な任務とする。警察庁長官の命を受け、科学警察研究所長が所務を掌理する。科学捜査研究所と混同されがちだが、科捜研が各都道府県警察本部の附属機関であるのに対して、本所は警察庁の附属機関である。大学との研究連携も活発である。
1948年5月:国家地方警察本部刑事部鑑識課に科学捜査研究所を創設。(所在地 東京都千代田区霞が関二丁目1番)
1949年8月:東京都千代田区三番町六番地に移転。
1952年9月:国家地方警察本部刑事部の附属機関となる。
1954年7月:警察庁の附属機関となる。
1959年4月:科学警察研究所と改称。業務内容に防犯少年及び交通警察関係の研究、実験を加え、内部組織を部、課、室制度に改める。
2012年6 月22日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 18
芳野教授は宗教の意義や役割について述べた。
「私が著書を読み影響を受けた英国の社会学者のブライアン・ウィルソンは、『日常生活のなかで、信仰の実践をし、よりよい人間社会を建設していく努力が、本来の宗教の使命なのです』と指摘をしているんです」
芳子は「本来の宗教の使命」という言葉を心に留めた。
「どのような苦難に直面しても、人は蘇生できるのですね」
芳野教授の力強い言葉に、芳子の気持ちは引き寄せられた。
「人は蘇生できる」
芳子は翼を得て未来へ羽ばたいて行くような心持となった。
「明日から、ここへ来られますか?」
芳野教授は親しみを込めて芳子に微笑みかけた。
「私がここへ来ていいのですか?」
芳野教授は大きく頷いていた。
芳子は「私は、救う神に出会ったのね」と内心で呟いた。
教授室を出ると足取りも軽くなて、スキップでもしたい衝動にかられた。
空は澄み渡り、小高い丘の上に立つとどこまでも見渡せた。
心が弾む思いで戸山公園の桜を見上げた。
東は現在の穴八幡(高田八幡)の南あたりから、西は大久保界隈まで、そして南は新宿の歌舞伎町一帯を含む広大な原野が、戦前までは戸山ヶ原と呼ばれていた。
作家の夏目漱石が好んで歩いた散歩エリアだ。
戦前は雑木林が点在する広大な原っぱであり、陸軍の軍用地だった。
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<参考>
ブライアン・R・ウィルソン(Bryan Ronald Wilson, 1926年6月25日~ 2004年10月9日)は英国の社会学者。
専門は宗教社会学。
英国オックスフォードシャー・ミドルトンストーニーの生まれ。
オックスフォード大学の社会学の名誉教授。
国際宗教社会学会(the International Society for the Sociology of Religion)の会長を務めた(1971年-75年)。