逃げる猫が着いてきた、珍しい猫だ

2016年08月27日 08時49分02秒 | 医科・歯科・介護
ここ数日は、午前3時40分ころに散歩に出ていた。
三日月が出ていて、星座もくっきり見えた。
今日は5時10分ころ家を出た。
友人の渡会さん(仮名)が車のエンジンをかけ車の後ろでタバコを吸っていた。
また、小森さん(仮名)が庭に立っていた。
「バンダイのママさんが入院したそうですね」
「誰に聞いたの?」
「先日、取手駅前でカラオケ大会があって、バンダイのお客さんたちが来ていて聞きました」
「そうなの、入院前にママさんが家まで来て、1か月くらい入院するっていっていた」
「そうですか。バンダイが閉店中は寂しいですね」
「天王台駅前のカラオケへ行く。バンダイに来ているお客も来ているから、酒飲まないから車で行っている」
「白山のハーモニーには行かないのですか」
「ハーモニーか、3回くらい行ってことがるけどね」
「日曜日に、12時30分からハーモニーの2階へ行くので予約しました。八重洲の人たち8人くらいで行く予定です」
「そうなの、八重洲の人たちとね」
金子さん(仮名)に会う。
「買い物ですか?」
「ネコちゃんの牛乳を買いに、「ふるさと牛乳しか飲まないので」
「ぜいたくですね」
「そうなの、他の牛乳は飲まなくて、ふるさと牛乳はビッグAにしか置いてないので」
「そうなんですね」
知人の掘さん(仮名)の隣の奥さんが「また、サボテンの花さいたよ」と言う。
先日、咲いて1日で散った。
「せめて、3日くらい咲いていたらね。朝咲いて、夜は終わり」
カメラを忘れたのでサボテンの花が撮れない。
猫が背後から近付いてきた。
逃げる猫が着いてきた、珍しい猫だ。
猫を3匹見かけた。
クロネコは、ブロック塀の上に寝ていた。
コンクリートの駐車場で横になっている茶系の毛並みの猫も居た。
明るくなって散歩すれば猫も見かけるし、人にも会える。
午前3時40分ころ散歩へいくべきではないと想った。

取手駅西口の「ソニックガーデン2016」

2016年08月27日 07時14分53秒 | 日記・断片
昨日は、取手駅西口の「ソニックガーデン2016」へ行く。
巨大屋外ビアガーデン。
地元の人気飲食店がテント出店。
昔、ここにキャバレー「桃山」があり、現在は駐車場。
行ったのは午後5時で、加宮佑唏(演歌)が終わり、ものまね芸人LIVEが始まるとことであった。
つくば市のバンドー太郎が松山千春の歌を歌う。
ほかに歌心りえ、藤本匠、くまだまさふみが出演。
日本酒、生ビール(500円)を飲みながら、家人が来るのを待つ。
キャーノンのパートの仕事を終えて、会場に家人が姿を見せたのは7時20分ころ。
浦島のうな重(1000円)、お好み焼き、歌舞伎あられ池田屋のあられ煎餅などを買ってきた。
チアダンスが始まると子どもたちが舞台周辺に集まってきた。
だがフラダンスになると誰も見向きもしない。
同じ世代の子どもたちが踊っていても興味を示さない。
チアダンスには多くの子どもたちは感動するようであった。
ジャズバンドを聞いてから帰宅。
明日は舞鼓(太鼓)、ダンスコンテスト(取手聖徳女子、高流通経済大学など11チーム)、本陣太鼓などが予定されている。
また、とりで灯ろう流し(常磐線鉄橋下 船乗り場)、星あかり(ろうそく点火)、ジャズバンド、フラダンス、花火が行われる。
なお、茨城県唯一のプロバスケットチームサイバーダイツ「茨城ロボッツ」の一色選手が来場し、広報活動をしていた。
































創作欄 芳子の青春 10

2016年08月26日 16時02分32秒 | 創作欄
2012年5 月25日 (金曜日)

芳子は警察の取調室で小学校5年生の出来事を突然、脳裏に浮かべた。
芳子は女子生徒の中ではトップの成績であった。
男子生徒の成績トップは片岡勝雄君であり、運動会ではリレーの選手のアンカーを務めて運動会の花型。
貴公子然とした顔立ちで、芳子は密かに憧れを抱いていた。
その片岡の財布がランドセルの中から盗まれたので、教室は騒ぎとなった。
昼休みの時間帯、多くの生徒は校庭で遊んでいて、教室に残っていたのは数人だった。
片岡君は芳子と視線を合わせた瞬間、何を想ったのか芳子の座席の前に足早にやってきた。
「芳子、鞄の中を見させてもらうよ」
芳子はその強引な態度に唖然として言葉を失った。
そして、片岡君に対する憧れの気持ちがいっぺんに萎えていくのを覚えた。
「ひぇー!ぼろっちい、鞄!」
鞄は近所の人から芳子の母親が貰い受けた古い鞄であり、内側にはかなりの綻びがあった。
「片岡君は、こんな男の子だったんだ」
芳子は屈辱に堪えた。
「オイ! 芳子、何を考えているんだ!」
刑事は机を平手でバシッと叩いた。
脇に立っている若い警官は、冷笑を浮かべていた。
「15万円は、お前が盗んだんだろう」
「いいえ、私のお金です」
「 オイ、コラ、ふざけるな素直に白状しろよ。煩わすな!」
芳子は刑事から机越しに足の脛を蹴られた。
「お前、いい女だな」若い警官は、脇から芳子の顔を覗き込むようにして繁々と見た。
「余計なこと言うな!」
年配の刑事は若い警官を叱りつけた。
警察署では、「何でもありかもしれない」芳子は警察不信に陥った。
昭和36年、まだ戦前の警察権力の残滓が残っているように思われた。
2012年5 月24日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 9
人生の途上、何が起こるか分からない。
考え方によっては、それは定めかもしれない。
自分の命は今日、一日かもしれない。
幸運もあれば、悲運もあるのが人生。
芳子は眠れぬ夜、自分は何処へ向かうのかを想った。
東京教育大学の教授である大野源太郎家でのお手伝いの仕事は単調に流れていた。
隣の部屋では、源太郎の娘の江梨子が眠っていた。
江梨子は高校の受験勉強をしている。
時々、廊下を隔てて、襖の向かい側から寝ごとが聞こえてきた。
楽しい夢でも見ているのだろう、クスクスと笑い声も聞こえてきた。
自分も同じように寝ごとを言うのだろうか?
寝ごとなど他人には聞かれたくないと芳子は思いながら、布団を引き寄せ顔を覆った。
芳子が渋谷の料理教室に通った日、大野源太郎家に空き巣が入った。
盗られたのは、源太郎の妻伸江の部屋の桐の箪笥に仕舞われていた15万円だった。
昭和36年の15万円は、現在の10倍くらいの価値がある。
警察官が4人来て、他に盗まれたものはないかを綿密に確認した。
不思議と盗まれたものは、現金15万円のみであった。
念のためにと、芳子の部屋も捜索された。
芳子は自分に嫌疑がかけられるはずはないと思いながら、捜索に立ち会った。
そして、芳子の部屋から15万円が出てきたのだ。
その現金は、芳子が中学を卒業してから群馬県の沼田の郵便局で働いて貯めた金だった。
だが、芳子の主張は受け入れられず、その場で窃盗容疑により逮捕されてしまったのだ。
「裏切られた」と病院の小児医師である伸江は怒りを露わにした。
弁解がまるで通用しない状態に陥った。
芳子は手錠をかけられ、白と黒のパトロールカーで警察署に連行された。
警察までの間、道行く人たちが、警官に挟まれて後部座席に座る芳子に好奇の視線を注いだ。
信号でパトカーが停車すると、路上から車内を覗き込む人もいた。
その屈辱に芳子は、地獄に突き落とされる思いがした。
2012年4 月27日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 8
江梨子の部屋から、「川は流れる」が聞こえてきた。
歌っているのは沖縄出身の歌手・仲宗根美樹である。
その歌を聞きながら芳子は沼田の利根川の流れを想った。
病葉(わくらば)という表現がとても斬新に聞こえた。
病葉は病気や虫のために変色した葉。
特に、夏の青葉の中にまじって、赤や黄色に色づいている葉である。
わくら葉のしんぼうづよくはなかりけり  小林一茶
病葉や大地に何の病ある 高浜虚子

「川は流れる」
病葉を 今日も浮かべて
街の谷 川は流れる
ささやかな 望み破れて
哀しみに 染まる瞳に
たそがれの 水のまぶしさ

江梨子は繰り返し聞いていた。
錆ついた 夢の数々
ある人は 心冷たく
ある人は 好きで別れて
人の世の 塵にまみれて
なお生きる 水をみつめて
嘆くまい 明日は明るく

芳子の耳に歌詞は浸み込むようであった。
「芳子さん 『川は流れる』はいい歌でしょ。この間、お友だちと新宿のライブハウスのアシベで聞いたの。そしたら突然、お店が停電になってマイクが使えなくなったのに、仲宗根美樹がそのまま歌ったの。
ロウソクの灯りが燈されてね。素敵だったな」
芳子の部屋へやってきた江梨子は瞳をうっとりさせた。
思春期の少女の心情を揺り動かす調べであった。
「江梨子さんは、恋をしているの?」
「恋? あれは恋といえたのかな」
江梨子は肩をすくめた。
そして性の体験を躊躇うことなく話した。
「あれは、痛いだけで、ちっともよくなかった」
14歳の江梨子は、まさに都会の少女であった。
当時の世相としては、青少年愚連隊が横行し、犯罪を重ねていた。
また、東京の浅草、上野など、東京下町をうろつく少年少女の間に、睡眠薬を飲んで酔っぱらう遊びが流行した。
昭和35年の夏あたりからはやりだしたもので、睡眠薬を飲むとファッとした気分になり、少年少女たちを虜にしていた。
なかには薬の量を競争し、たくさん飲んだのを自慢しあったりもした。
浅草では倒れ、2日間も意識不明だった少女(15)は、自殺をはかったと思われていたが実は、睡眠薬遊びで薬を飲みすぎたものとわかった。
 ふつうコーヒーで2錠ほど飲むと、酒に酔ったのとまったく同じ気分になった。
10錠、20錠と飲むと目がドロンとして、ろれつが回らなくなり、フラフラする。
この状態を「らりっている」と呼ぶ新語まで生れた。
裕福な家庭の少年、少女までが放任主義から不良行為に走っていた。
芳子は21歳であり、世代間の大きな落差を感じていた。
2012年4 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 7
今日、女性が働きながら子育てをすることが一般的になってきたが、昭和36年のころはまだ少数派であった。
芳子は、小児科医として病院で働いている大野夫人の伸江のような女性の生き方を目指したいと思いはじめていた。
また、東京教育大学の教授である大野源太郎の教養の幅広さに感嘆していた。
書斎の掃除をしながら、洋書を含めて多くの蔵書に目を奪われた。
旧制の高等学校の学生たちは戦前社会のエリート層である。
旧制高等学校は、社会のエリート揺籃の場として機能したとされる。
教養主義的な伝統のなかで、道徳、倫理学、歴史学、地理学、哲学、心理学、論理学、哲学概論、経済学、法制学、数学、自然科学、などを学んできた。
また、語学は国語漢文、英語、独語も学んだ。
文学的教養も身につけており、議論好きなエリート集団であった。
なお、大野源太郎の父親は、帝国大学医学部を出た医師で宮内庁病院に勤めていたが、昭和19年に亡くなっている。
大野夫人の部屋には、大野源太郎の父が遺した医学専門書があった。
大野家の息子は二人で、24歳の長男の信一は大学の経済学部を卒業し、東京・大手町の銀行に勤務していた。
また、次男の隆司は大学法学部の3年生で司法試験を目指し勉強をしていた。
芳子は息子たちとはほとんど会話を交わしたことがなかった。
息子たちの部屋の掃除をしていると、常に息子たちは黙って部屋を出て行った。
そして、娘の江利子は芳子の隣の部屋に居たので、自分の方から部屋へ入ってきた。
「芳子さん、部屋に入っていい?」
廊下か襖越し声をかける。
「どうぞ」と芳子は向かえ入れた。
「芳子さんは学校の勉強ができたそうね。お父さんから聞いたわ」
江利子は畳の上の座布団にきちんと座って、「勉強教えてください」と言う。
「私がですか? 私にはお嬢さんを教えるほどの学力がありません」
芳子は正直な気持ちを吐露した。
「だめなのね? 残念だな」
江利子は無理強いしないので、あっさりした性格のようであった。
江利子はしばらくうつ向いていたが、何を思ったのか真剣な顔で言った。
「芳子さん、性生活の知恵 読んだ?」
1960年(昭和35年)に「性生活の知恵」は発刊されると本の題名も影響したのだろう大ベストセラーになった。
だが、男から強姦されことがある芳子には、見向きもしたくない本である。
性生活についての話題が開放的ではなかった時代、この「性生活の知恵」という本は核家族になりがちだった都会の夫婦にとって性生活について指南してくれるありがたい指南書の役割を果たしていたようだ。
内容は、著者が医師であったこともあり、いたってまじめなものであった。

2012年4 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 6
<徹の手紙>
芳子さんの先日の手紙を読み、図書館で東條英機について調べてみました。
東條英機は、天皇陛下の信任がとれも篤かった人物のようでした。
天皇陛下はアメリカとの戦争を何とか回避しようとしていたので、東條英機もその意に沿うように考えていたのですが、その流れを止められなかった。
僕も芳子さんも父親を戦争で亡くして、戦争を遂行した人たちには、良い感情を抱いていませんね。
でも、戦争責任は、軍隊の偉い人たちや政治家たちだけの責任なのかどうか、よくわからない。
新聞社や文化人とされた人たちや小説家だって戦争に協力していますよね。
歌人の斎藤茂吉だってその1人ですよね。
芳子さんが偶然、東條英機の奥さんを見かけたことを手紙に書いたので驚きました。
僕にとってそれが大きな刺激となり、図書館で色々調べてみました。
東京へ行くことがあったら、東條山へ是非行ってみたいです。
それから、芳子さんが住んでいる用賀から多摩川方面へ行くと、岡本太郎のお母さんの岡本かな子の生家があるようです。
追伸
芳子さんは、東京・渋谷の料理学校へ通っているそうですね。
ですが、芳子さん沼田一番の美人ですから、「誘惑」されないかと心配です。

<芳子の手紙>
徹さん、私は美人ですか?
母は「女は美しいことが器量じゃないよ。女は心が大切だよ」と言ってました。
先日、用賀から桜丘方面へ、犬の散歩へ行っていた時に、テレビ映画の撮影をしていました。
私はテレビ局の人に呼びとめられ、「エキストラになってほしい」と突然言われたのです。
私は断ったのですが、名刺を渡されて「局に是非訪ねて来てほしい」と言われました。
それから、料理学校の校長がフランスから戻ってきたのですが、テレビの料理番組を依頼されていて、私をアシスタント使いたいと言っています。
断っているのですが、断れ切れない感じもしています。
徹さん私はどうしたらいいの?
芳子
2012年4 月19日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 5
岩戸景気は、1958年(昭和33年)7月~1961年(昭和36年)12月まで42か月間続いた高度経済成長時代の好景気である。
岩戸景気では、三種の神器は洗濯機・冷蔵庫・掃除機であった。
戦後の食糧難は続くものの、ようやく復興の兆しが見え始めていた。
昭和33年(1958)に、厚生省による国民栄養調査で4人に1人は栄養欠陥であると発表、昭和30年代の課題は「日本人の体位向上」とも言われた。
この年には栄養士と調理師の資格が制定された。
また、テレビに料理番組が登場し、色々なレシピ、材料、調味料をそろえたセットの数々が大評判となった。
欧米の料理も紹介され、テレビを見る日本の主婦たちの、ちょっとした「夢」であり、「あこがれ」を反映した番組となった。
「こんな料理をつくってみたい」「こんなめずらしい食材があるのか」「聞いたことのない料理だわ」。
主婦たちはそんなことを思いながら番組やテキストをじっと見ていたのである。

幸い35年はお米が空前の大豊作で、戦後、ようやく"腹いっぱい"お米が食べられるようになる。
それまでは、白米に麦が混ざっていた。
あるいはご飯に雑穀類を混ぜて炊きそれを食べていた。
すでに自動電気炊飯器が発売されていて、米の豊作を機に段々と普及していく。
「芳子さん、料理学校へ行きなさい。お金の心配はいりませんから」
ある夜、台所で芳子が米をといでいる時、大野夫人の伸江から言われた。
「私は病院の小児医師としてこれまで歩んできて、3人の子育てもしてきたのよ。毎日が診療に追うわれるばかりの生活のなかで、お料理を学ぶ機会がなかったのよ。ですから芳子さんお願いね」
伸江は両手を合わせるような仕草をした。
「奥様分かりました。私でよければ料理学校へ行かせていただきます」
料理を習わしていただけるのだから、ありがたいことだった。
芳子は率直な気持ちで伸江の申し出に応じた。
結局、芳子は用賀から渋谷の料理学校へ通学することとなった。
1週間に1回6か月の家庭コースであった。
芳子は基礎から学ぶことができた。
ごはんの炊き方、汁だしの取り方。
味噌汁、とろろ昆布汁、野菜の切り方、魚のおろし方。
魚の照り焼き、鯵フライ、かれいの唐揚げ、いわしの香煮。
じゃがいもコロッケ、サラダ、 肉じゃが、豚汁、オムレツ、天丼、かつ丼、春キャベツの香り漬け、いり豆腐、れんこんつみれ汁、筑前煮、 ドーナッツなど。
それらが、大野邸の食卓に並び、家族たちを喜ばせた。
2012年4 月18日 (水曜日)
創作欄 芳子の青春 4
芳子は、就職先を世話してくれた恩師の辻村玲子にも手紙を書いた。
<芳子の手紙>
辻村玲子先生、新学期を迎え如何お過ごしでしょうか?
就職先をお世話いただき、先生には感謝しても感謝しきれません。
上京し早くも10日間が経過しましたが、沼田もそろそろ桜が咲く季節になりましたね。
高校1年の時に先生と夜桜を見に行ったことが思い出されます。
先生は大学を卒業したばかりで、母校に先生として赴任されて来られたのですが、先生というより私たち学生たちには優しいお姉さんのように想われました。
先生は、生徒たちに「視野を広げなさい」と言っていましたね。
母は、「沼田市内で職を見つけなさい」と言っていたのですが、私はいずれは沼田に戻ることがあったとしても、1度は外の世界を見てからと思っていたのです。
ですから、先生からお手伝いさんのお仕事を紹介された時は、「このチャンスを絶対に逃すまい」と思ったのです。
母は、「お前にとって花嫁修業になるかしら? お手伝いの仕事もいわね」と背中を押してくれました。
先生は、「お手伝いの仕事に留まらず、自分がやりたいことを見つけなさい。自立した女性の生き方が必要な時代になります」と言われました。
私はあの時の先生の助言を肝に銘じて励みに頑張りたいと思っています。
何卒 今後ともご教示ください。
小金井芳子

芳子は手紙をポストに投函してから、犬の散歩へ行く。
神学院の木立に隣接して、西側に通称「東條山」があった。
芳子は高校の受験勉強をしているお嬢さんの江梨子から、「東條山は、戦犯の東條英機の屋敷があるところなの」と教えられた。
芳子の父は戦死している。
戦争を遂行した責任者の一人が東條英機であることから、敵愾心も湧いてきた。
芳子はメスの柴犬のハナコを連れ、東條山へ足を踏み入れた。
その日は、日曜日で大野源太郎教授宅は午前8時であったが、みんながまだ寝ていた。
普段は午前5時起きの芳子も午前7時まで寝ていた。
東條山に足を踏み入れながら、芳子は人の気配を感じていた。
木立の間を見回す。
すると大きな欅の木を背に、ロングスカートの女性が立ち、神父服を着た長身の男性が女性を抱き寄せていた。
それはまるで映画の中の光景のように映じた。
女性は上目遣いになり、身を寄せながら自ら激しく男性の唇を求めていた。
芳子は見ていけないことを見た感情となり、山を駆け下りた。
犬のハナコは思わぬ方向転換に、戸惑いながら首輪を振って抵抗するように立ちあがった。
それから3日後、芳子はハナコの散歩で再び東條山へ行った。
東條英機は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で死刑判決を受け、同年12月23日午前零時1分、東京都豊島区にあった巣鴨プリズンで絞首刑となった。
享年65歳。
昭和36年、もし東條英機が生きていれば78歳である。
芳子は好奇心から東條英機の屋敷の様子を窺った。
東條邸は何時もひっそりしていたがその日は、洗濯物を庭先で干している和服姿の人がいた。
東條英機夫人のかつ子さんであったかもしれない。
芳子は何か切ない感情が込み上げてきた。
浄土真宗の信仰が深かったとされる東條英機の未亡人かつ子さんのことを芳子は後年知った。








2012年4 月16日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 3
渋谷駅で降りた芳子は、玉電(東急玉川電車)に乗り換えた。
緑色の2両編成の小さな車体は路面をガタゴトと音を立て走っていた。
電車が坂を上り、そして下って行く光景を見て、芳子は東京の街が起伏の多い土地柄だ思った。
玉電の窓から見える光景は、意外と緑の木立も多かった。
用賀停留所に降り立った時、芳子はようやく辿りついたのだと胸をなでおろした.
東京・世田谷区用賀町は、まだ畑が多く残っており、丘の斜面では土地の造成が進んでいた。
用賀は江戸時代以前は、大山街道の宿場町であり、眞福寺の門前町であった。
畑の間には小川が流れており長閑な感じがした。
芳子が働く、大学の教授宅は緑の木立に囲まれた神学院の南側にあった。
神学院の北側は桜丘であり、武蔵野台地の南端部に位置する
用賀地内には複数の湧水があり、旧品川用水の吸水の跡を源に、中町を経由し水は等々力渓谷を流れていた。
この渓谷には多量の湧水がみられ、世田谷区野毛付近で丸子川(六郷用水)と交差し、世田谷区堤で多摩川に合流する。
この日は休みであったので、大野源太郎教授宅には家族全員が居た。
大野は芳子の高校の教師であった辻村玲子の恩師である。
大野は居間に和服姿でくつろいでいて、新聞を卓に置きパイプをふかしていた。
大野は白髪頭であるが、まだ52歳であった。
「君のことは、辻村君から聞いているよ、君は数学ができるそうだね」
芳子は数学がそれほど得意でなかったので戸惑った。
お茶を運んで来た大野夫人の伸江は48歳で、病院に勤務する小児科医であった。
和服姿で割烹着を着ていた。
「あなたは、料理はどうなの」
伸江は手伝いの芳子に期待をしていたので確認をした。
芳子はお手伝いとして働くので、母には料理を習ってきたが所詮は群馬県の田舎料理である。
「何とかできると思います」
芳子は控えめに答えたが、次の日に伸江から早速、「あなたの料理はダメ、味付けが塩辛いわ」と指摘さてしまった。
芳子は前途多難だと心細くなった。
そして、その夜に徹に手紙を書いた。
<芳子の手紙>
今、東京の世田谷区用賀の仕事先の部屋でこの手紙を書いています。
私の仕事は詳しくは話さなかったけれど、お手伝いの仕事です。
旦那様は大学の先生で、奥様は病院の小児科のお医者さんです。
家族は旦那様のお母さん、息子さん2人、そして娘さん1人の家族構成です。
大きな母屋があり、私は庭の外れの離れの部屋に住んでいます。
隣の部屋には高校の受験を控えている娘さんが居ます。
私の部屋は4畳半でこじんまりしていて、気持ちが落ち着ける部屋です。
部屋の小さな机に置かれたスタンドの下でこの手紙を書いています。
庭には大きな桜の木が5本もあり、今が満開でとても綺麗です。
沼田公園の御殿桜を徹さんと観たことが、昨日のように思い出されます。
朝は日課の犬の散歩があります。
柴犬でハナコと呼ばれたメスの犬です。
朝は5時起きなの、近況は次の手紙に書きます。
徹さんのお手紙を心待ちにしています。
芳子
2012年4 月13日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 2
芳子は故郷の山々を脳裏に焼き付けるように車窓のガラスに額を当てて眺めていた。
群馬県の最北端側から見てきた山波が裏側とすれば、汽車が走行するにつれて山波は表側の姿を表していく。
子持山、十二ケ岳、小野子山、赤城山、榛名山、妙義山などであり、渋川駅を過ぎると徐々に山並みは遠去かっていった。
そして汽車が高崎駅を過ぎると関東平野が広がっていった。
岩本駅を午前7時過ぎに乗った汽車が上野駅に着いた時には、12時を回っていた。
「うえ~の~ うえ~の~ うえ~の~」
駅のホームのスピーカーから流れる独特の抑揚のついた場内放送を聞きながら、芳子は東京にやってきたことを実感した。
人波に押し流されるようにホームを歩きながら、メモ用紙を手にして乗り換えるホームを探した。
昭和30年代、上野駅周辺には家出少女を目敏く探し出し、口車に乗せて騙して何処かへ連れていく男たちがたむろしていた。
実際、そんな男たちの一人に芳子は声をかけられた。
「ねいちゃん、行くところあるのかい?」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると相手は親しみを込めて微笑んでいる。
30代か40代の年齢と思われ、黒い長シャツの胸を肌けており、細いズボンを穿き得体のしれない雰囲気を醸している。
「人と待ち合わせをしています」
芳子は毅然とした態度で言う。
「そうかい。どこから来たの」
相手はまとわり着こうとしている様子だ。
芳子は黙って足早に歩き出した。
だが、初めて来た上野駅であり、男から見抜かれていた。
「何処で、待ち合わせているんだい。案内してやるよ」
男は芳子の脇に並んで着いてくる。
「重そうなボストンバックだね。持ってやろうか」
「結構です。急ぎますから、失礼!」
芳子は走り出した。
背後で男が舌打ちをしていた。
「東京は昼間なのに油断がならない」
芳子は階段を駈け上がった。
芳子の様子見ている女性が居て、階段の中ごろで声をかけられた。
「ああいう、男たちには関わらない方がいいわ。ボストンバックを奪う男もいるんだから」
相手を見ると芳子の母親と同世代の女性であった。
芳子はホット胸をなでおろした。
「東京、初めてなのね?」
ボストンバックを下げ、地味な濃紺のスーツ姿の芳子は、如何にも都会慣れしていない様相であった。
「東京の世田谷区用賀へ行くのですが、渋谷駅は何番線でしょうか?」
芳子はメモを見ながら相手にたずねた。
「私は目黒まで行くので、方角が同じね」
女性は芳子に微笑みかけると先に立ってキビキビとした足取りで歩き出した。
芳子は高校の数学の教師の辻村玲子から就職先を世話された。
辻村玲子の大学の恩師である大学教授宅のお手伝いとして雇われたのだ。
メモ用紙には、用賀駅からの地図も記されていた。
芳子はお手伝いをしながら、看護婦(当時)を目指すことにしていた。
ところで、昭和36年当時、国鉄の初乗りは10円、私鉄は15円であった。

2012年4 月12日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 1
小金井芳子が上京する日、母と妹たちが上越線の岩本駅まで見送りに来た。
夫を戦争で亡くした母は戦後、苦労をして5人の子どもたちを育ててきた。
芳子の2人の兄は中学を出ると家を出た。
1人の兄は、戦死した父親の弟に呼ばれて神奈川県の横須賀に働きに出た。
叔父の魚屋で働いて、「将来は自分の店を持ちたい」と手紙に書いて寄こした。
もう一人の兄は、埼玉県の桶川にある精密機械の工場で働いていた。
岩本駅舎は小さく、何の変哲のない寂しい感じのする駅の佇まいだった。
この駅は昭和61年から無人駅となっている。
利根川が東側に流れており、西側は東京電力の水力発電所になっている。
沼田市岩本町は子持山の麓の町であり、山と川に挟まれ細長く南北に広がって土地である。
南東方面は赤城山の麓につながっている。
徹とは前日、沼田城址公園で会って別れを告げていた。
徹は別れ際に、「後で読んでください」と白い封筒を芳子に手渡した。
「体に気をつけるんだよ。何か困ったことがあったら手紙に書いて送ってきてね」
母はそれだけ言うとハンカチで目頭を押さえた。
妹たちは2人は「東京に遊びに行ってもいい」と目を輝かせていた。
別れの悲しさを感じていないようであり、芳子は2人の妹を胸に抱き寄せ頭を優しく撫でた。
母は戦後、再婚したが夫は昭和27年、出稼ぎ先の群馬県高崎の建設工事現場の事故で亡くなってしまった。
母と義父の間に生まれた妹は、12歳と13歳になっていた。
蒸気汽車は故郷の駅に余韻を残すように汽笛を鳴らした。
妹たちがホームを駆けながら追ってきた。
母はホームの中ほどに立ち止まって、白いハンカチを振っていた。
ゆっくりと汽車がホームを走行していく。
芳子は汽車のデッキに佇み3人の姿が見えるまで見送った。
涙がとめどなく頬を伝わってきた。
客車内の4人がけ席は空いていたので、脇にボストンバックを置く。
そして芳子は徹に昨日渡された封筒をボストンバックから取り出した。
<徹の手紙>
芳子さんの旅立ちに同行できなく、とても残念です。
逢える日が、なるべく早く訪れることを念じています。
「東京へ出て受験勉強をしたい」と父に相談したら、「沼田で勉強しろ」と義父に反対されて上京できなくなったことは、先日、芳子さんに告げましたが、自分にも義父を説得できるだけの具体的な計画がありませんでした。
まずは、大学に合格することです。
頑張ります。
落ち着いたら手紙をください。
手紙を心待ちにしています。
お元気で! 
何卒ご自愛ください。




2012年5 月25日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 10
芳子は警察の取調室で小学校5年生の出来事を突然、脳裏に浮かべた。
芳子は女子生徒の中ではトップの成績であった。
男子生徒の成績トップは片岡勝雄君であり、運動会ではリレーの選手のアンカーを務めて運動会の花型。
貴公子然とした顔立ちで、芳子は密かに憧れを抱いていた。
その片岡の財布がランドセルの中から盗まれたので、教室は騒ぎとなった。
昼休みの時間帯、多くの生徒は校庭で遊んでいて、教室に残っていたのは数人だった。
片岡君は芳子と視線を合わせた瞬間、何を想ったのか芳子の座席の前に足早にやってきた。
「芳子、鞄の中を見させてもらうよ」
芳子はその強引な態度に唖然として言葉を失った。
そして、片岡君に対する憧れの気持ちがいっぺんに萎えていくのを覚えた。
「ひぇー!ぼろっちい、鞄!」
鞄は近所の人から芳子の母親が貰い受けた古い鞄であり、内側にはかなりの綻びがあった。
「片岡君は、こんな男の子だったんだ」
芳子は屈辱に堪えた。
「オイ! 芳子、何を考えているんだ!」
刑事は机を平手でバシッと叩いた。
脇に立っている若い警官は、冷笑を浮かべていた。
「15万円は、お前が盗んだんだろう」
「いいえ、私のお金です」
「 オイ、コラ、ふざけるな素直に白状しろよ。煩わすな!」
芳子は刑事から机越しに足の脛を蹴られた。
「お前、いい女だな」若い警官は、脇から芳子の顔を覗き込むようにして繁々と見た。
「余計なこと言うな!」
年配の刑事は若い警官を叱りつけた。
警察署では、「何でもありかもしれない」芳子は警察不信に陥った。
昭和36年、まだ戦前の警察権力の残滓が残っているように思われた。
2012年5 月24日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 9
人生の途上、何が起こるか分からない。
考え方によっては、それは定めかもしれない。
自分の命は今日、一日かもしれない。
幸運もあれば、悲運もあるのが人生。
芳子は眠れぬ夜、自分は何処へ向かうのかを想った。
東京教育大学の教授である大野源太郎家でのお手伝いの仕事は単調に流れていた。
隣の部屋では、源太郎の娘の江梨子が眠っていた。
江梨子は高校の受験勉強をしている。
時々、廊下を隔てて、襖の向かい側から寝ごとが聞こえてきた。
楽しい夢でも見ているのだろう、クスクスと笑い声も聞こえてきた。
自分も同じように寝ごとを言うのだろうか?
寝ごとなど他人には聞かれたくないと芳子は思いながら、布団を引き寄せ顔を覆った。
芳子が渋谷の料理教室に通った日、大野源太郎家に空き巣が入った。
盗られたのは、源太郎の妻伸江の部屋の桐の箪笥に仕舞われていた15万円だった。
昭和36年の15万円は、現在の10倍くらいの価値がある。
警察官が4人来て、他に盗まれたものはないかを綿密に確認した。
不思議と盗まれたものは、現金15万円のみであった。
念のためにと、芳子の部屋も捜索された。
芳子は自分に嫌疑がかけられるはずはないと思いながら、捜索に立ち会った。
そして、芳子の部屋から15万円が出てきたのだ。
その現金は、芳子が中学を卒業してから群馬県の沼田の郵便局で働いて貯めた金だった。
だが、芳子の主張は受け入れられず、その場で窃盗容疑により逮捕されてしまったのだ。
「裏切られた」と病院の小児医師である伸江は怒りを露わにした。
弁解がまるで通用しない状態に陥った。
芳子は手錠をかけられ、白と黒のパトロールカーで警察署に連行された。
警察までの間、道行く人たちが、警官に挟まれて後部座席に座る芳子に好奇の視線を注いだ。
信号でパトカーが停車すると、路上から車内を覗き込む人もいた。
その屈辱に芳子は、地獄に突き落とされる思いがした。
2012年4 月27日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 8
江梨子の部屋から、「川は流れる」が聞こえてきた。
歌っているのは沖縄出身の歌手・仲宗根美樹である。
その歌を聞きながら芳子は沼田の利根川の流れを想った。
病葉(わくらば)という表現がとても斬新に聞こえた。
病葉は病気や虫のために変色した葉。
特に、夏の青葉の中にまじって、赤や黄色に色づいている葉である。
わくら葉のしんぼうづよくはなかりけり  小林一茶
病葉や大地に何の病ある 高浜虚子

「川は流れる」
病葉を 今日も浮かべて
街の谷 川は流れる
ささやかな 望み破れて
哀しみに 染まる瞳に
たそがれの 水のまぶしさ

江梨子は繰り返し聞いていた。
錆ついた 夢の数々
ある人は 心冷たく
ある人は 好きで別れて
人の世の 塵にまみれて
なお生きる 水をみつめて
嘆くまい 明日は明るく

芳子の耳に歌詞は浸み込むようであった。
「芳子さん 『川は流れる』はいい歌でしょ。この間、お友だちと新宿のライブハウスのアシベで聞いたの。そしたら突然、お店が停電になってマイクが使えなくなったのに、仲宗根美樹がそのまま歌ったの。
ロウソクの灯りが燈されてね。素敵だったな」
芳子の部屋へやってきた江梨子は瞳をうっとりさせた。
思春期の少女の心情を揺り動かす調べであった。
「江梨子さんは、恋をしているの?」
「恋? あれは恋といえたのかな」
江梨子は肩をすくめた。
そして性の体験を躊躇うことなく話した。
「あれは、痛いだけで、ちっともよくなかった」
14歳の江梨子は、まさに都会の少女であった。
当時の世相としては、青少年愚連隊が横行し、犯罪を重ねていた。
また、東京の浅草、上野など、東京下町をうろつく少年少女の間に、睡眠薬を飲んで酔っぱらう遊びが流行した。
昭和35年の夏あたりからはやりだしたもので、睡眠薬を飲むとファッとした気分になり、少年少女たちを虜にしていた。
なかには薬の量を競争し、たくさん飲んだのを自慢しあったりもした。
浅草では倒れ、2日間も意識不明だった少女(15)は、自殺をはかったと思われていたが実は、睡眠薬遊びで薬を飲みすぎたものとわかった。
 ふつうコーヒーで2錠ほど飲むと、酒に酔ったのとまったく同じ気分になった。
10錠、20錠と飲むと目がドロンとして、ろれつが回らなくなり、フラフラする。
この状態を「らりっている」と呼ぶ新語まで生れた。
裕福な家庭の少年、少女までが放任主義から不良行為に走っていた。
芳子は21歳であり、世代間の大きな落差を感じていた。
2012年4 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 7
今日、女性が働きながら子育てをすることが一般的になってきたが、昭和36年のころはまだ少数派であった。
芳子は、小児科医として病院で働いている大野夫人の伸江のような女性の生き方を目指したいと思いはじめていた。
また、東京教育大学の教授である大野源太郎の教養の幅広さに感嘆していた。
書斎の掃除をしながら、洋書を含めて多くの蔵書に目を奪われた。
旧制の高等学校の学生たちは戦前社会のエリート層である。
旧制高等学校は、社会のエリート揺籃の場として機能したとされる。
教養主義的な伝統のなかで、道徳、倫理学、歴史学、地理学、哲学、心理学、論理学、哲学概論、経済学、法制学、数学、自然科学、などを学んできた。
また、語学は国語漢文、英語、独語も学んだ。
文学的教養も身につけており、議論好きなエリート集団であった。
なお、大野源太郎の父親は、帝国大学医学部を出た医師で宮内庁病院に勤めていたが、昭和19年に亡くなっている。
大野夫人の部屋には、大野源太郎の父が遺した医学専門書があった。
大野家の息子は二人で、24歳の長男の信一は大学の経済学部を卒業し、東京・大手町の銀行に勤務していた。
また、次男の隆司は大学法学部の3年生で司法試験を目指し勉強をしていた。
芳子は息子たちとはほとんど会話を交わしたことがなかった。
息子たちの部屋の掃除をしていると、常に息子たちは黙って部屋を出て行った。
そして、娘の江利子は芳子の隣の部屋に居たので、自分の方から部屋へ入ってきた。
「芳子さん、部屋に入っていい?」
廊下か襖越し声をかける。
「どうぞ」と芳子は向かえ入れた。
「芳子さんは学校の勉強ができたそうね。お父さんから聞いたわ」
江利子は畳の上の座布団にきちんと座って、「勉強教えてください」と言う。
「私がですか? 私にはお嬢さんを教えるほどの学力がありません」
芳子は正直な気持ちを吐露した。
「だめなのね? 残念だな」
江利子は無理強いしないので、あっさりした性格のようであった。
江利子はしばらくうつ向いていたが、何を思ったのか真剣な顔で言った。
「芳子さん、性生活の知恵 読んだ?」
1960年(昭和35年)に「性生活の知恵」は発刊されると本の題名も影響したのだろう大ベストセラーになった。
だが、男から強姦されことがある芳子には、見向きもしたくない本である。
性生活についての話題が開放的ではなかった時代、この「性生活の知恵」という本は核家族になりがちだった都会の夫婦にとって性生活について指南してくれるありがたい指南書の役割を果たしていたようだ。
内容は、著者が医師であったこともあり、いたってまじめなものであった。

2012年4 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 6
<徹の手紙>
芳子さんの先日の手紙を読み、図書館で東條英機について調べてみました。
東條英機は、天皇陛下の信任がとれも篤かった人物のようでした。
天皇陛下はアメリカとの戦争を何とか回避しようとしていたので、東條英機もその意に沿うように考えていたのですが、その流れを止められなかった。
僕も芳子さんも父親を戦争で亡くして、戦争を遂行した人たちには、良い感情を抱いていませんね。
でも、戦争責任は、軍隊の偉い人たちや政治家たちだけの責任なのかどうか、よくわからない。
新聞社や文化人とされた人たちや小説家だって戦争に協力していますよね。
歌人の斎藤茂吉だってその1人ですよね。
芳子さんが偶然、東條英機の奥さんを見かけたことを手紙に書いたので驚きました。
僕にとってそれが大きな刺激となり、図書館で色々調べてみました。
東京へ行くことがあったら、東條山へ是非行ってみたいです。
それから、芳子さんが住んでいる用賀から多摩川方面へ行くと、岡本太郎のお母さんの岡本かな子の生家があるようです。
追伸
芳子さんは、東京・渋谷の料理学校へ通っているそうですね。
ですが、芳子さん沼田一番の美人ですから、「誘惑」されないかと心配です。

<芳子の手紙>
徹さん、私は美人ですか?
母は「女は美しいことが器量じゃないよ。女は心が大切だよ」と言ってました。
先日、用賀から桜丘方面へ、犬の散歩へ行っていた時に、テレビ映画の撮影をしていました。
私はテレビ局の人に呼びとめられ、「エキストラになってほしい」と突然言われたのです。
私は断ったのですが、名刺を渡されて「局に是非訪ねて来てほしい」と言われました。
それから、料理学校の校長がフランスから戻ってきたのですが、テレビの料理番組を依頼されていて、私をアシスタント使いたいと言っています。
断っているのですが、断れ切れない感じもしています。
徹さん私はどうしたらいいの?
芳子
2012年4 月19日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 5
岩戸景気は、1958年(昭和33年)7月~1961年(昭和36年)12月まで42か月間続いた高度経済成長時代の好景気である。
岩戸景気では、三種の神器は洗濯機・冷蔵庫・掃除機であった。
戦後の食糧難は続くものの、ようやく復興の兆しが見え始めていた。
昭和33年(1958)に、厚生省による国民栄養調査で4人に1人は栄養欠陥であると発表、昭和30年代の課題は「日本人の体位向上」とも言われた。
この年には栄養士と調理師の資格が制定された。
また、テレビに料理番組が登場し、色々なレシピ、材料、調味料をそろえたセットの数々が大評判となった。
欧米の料理も紹介され、テレビを見る日本の主婦たちの、ちょっとした「夢」であり、「あこがれ」を反映した番組となった。
「こんな料理をつくってみたい」「こんなめずらしい食材があるのか」「聞いたことのない料理だわ」。
主婦たちはそんなことを思いながら番組やテキストをじっと見ていたのである。

幸い35年はお米が空前の大豊作で、戦後、ようやく"腹いっぱい"お米が食べられるようになる。
それまでは、白米に麦が混ざっていた。
あるいはご飯に雑穀類を混ぜて炊きそれを食べていた。
すでに自動電気炊飯器が発売されていて、米の豊作を機に段々と普及していく。
「芳子さん、料理学校へ行きなさい。お金の心配はいりませんから」
ある夜、台所で芳子が米をといでいる時、大野夫人の伸江から言われた。
「私は病院の小児医師としてこれまで歩んできて、3人の子育てもしてきたのよ。毎日が診療に追うわれるばかりの生活のなかで、お料理を学ぶ機会がなかったのよ。ですから芳子さんお願いね」
伸江は両手を合わせるような仕草をした。
「奥様分かりました。私でよければ料理学校へ行かせていただきます」
料理を習わしていただけるのだから、ありがたいことだった。
芳子は率直な気持ちで伸江の申し出に応じた。
結局、芳子は用賀から渋谷の料理学校へ通学することとなった。
1週間に1回6か月の家庭コースであった。
芳子は基礎から学ぶことができた。
ごはんの炊き方、汁だしの取り方。
味噌汁、とろろ昆布汁、野菜の切り方、魚のおろし方。
魚の照り焼き、鯵フライ、かれいの唐揚げ、いわしの香煮。
じゃがいもコロッケ、サラダ、 肉じゃが、豚汁、オムレツ、天丼、かつ丼、春キャベツの香り漬け、いり豆腐、れんこんつみれ汁、筑前煮、 ドーナッツなど。
それらが、大野邸の食卓に並び、家族たちを喜ばせた。
2012年4 月18日 (水曜日)
創作欄 芳子の青春 4
芳子は、就職先を世話してくれた恩師の辻村玲子にも手紙を書いた。
<芳子の手紙>
辻村玲子先生、新学期を迎え如何お過ごしでしょうか?
就職先をお世話いただき、先生には感謝しても感謝しきれません。
上京し早くも10日間が経過しましたが、沼田もそろそろ桜が咲く季節になりましたね。
高校1年の時に先生と夜桜を見に行ったことが思い出されます。
先生は大学を卒業したばかりで、母校に先生として赴任されて来られたのですが、先生というより私たち学生たちには優しいお姉さんのように想われました。
先生は、生徒たちに「視野を広げなさい」と言っていましたね。
母は、「沼田市内で職を見つけなさい」と言っていたのですが、私はいずれは沼田に戻ることがあったとしても、1度は外の世界を見てからと思っていたのです。
ですから、先生からお手伝いさんのお仕事を紹介された時は、「このチャンスを絶対に逃すまい」と思ったのです。
母は、「お前にとって花嫁修業になるかしら? お手伝いの仕事もいわね」と背中を押してくれました。
先生は、「お手伝いの仕事に留まらず、自分がやりたいことを見つけなさい。自立した女性の生き方が必要な時代になります」と言われました。
私はあの時の先生の助言を肝に銘じて励みに頑張りたいと思っています。
何卒 今後ともご教示ください。
小金井芳子

芳子は手紙をポストに投函してから、犬の散歩へ行く。
神学院の木立に隣接して、西側に通称「東條山」があった。
芳子は高校の受験勉強をしているお嬢さんの江梨子から、「東條山は、戦犯の東條英機の屋敷があるところなの」と教えられた。
芳子の父は戦死している。
戦争を遂行した責任者の一人が東條英機であることから、敵愾心も湧いてきた。
芳子はメスの柴犬のハナコを連れ、東條山へ足を踏み入れた。
その日は、日曜日で大野源太郎教授宅は午前8時であったが、みんながまだ寝ていた。
普段は午前5時起きの芳子も午前7時まで寝ていた。
東條山に足を踏み入れながら、芳子は人の気配を感じていた。
木立の間を見回す。
すると大きな欅の木を背に、ロングスカートの女性が立ち、神父服を着た長身の男性が女性を抱き寄せていた。
それはまるで映画の中の光景のように映じた。
女性は上目遣いになり、身を寄せながら自ら激しく男性の唇を求めていた。
芳子は見ていけないことを見た感情となり、山を駆け下りた。
犬のハナコは思わぬ方向転換に、戸惑いながら首輪を振って抵抗するように立ちあがった。
それから3日後、芳子はハナコの散歩で再び東條山へ行った。
東條英機は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で死刑判決を受け、同年12月23日午前零時1分、東京都豊島区にあった巣鴨プリズンで絞首刑となった。
享年65歳。
昭和36年、もし東條英機が生きていれば78歳である。
芳子は好奇心から東條英機の屋敷の様子を窺った。
東條邸は何時もひっそりしていたがその日は、洗濯物を庭先で干している和服姿の人がいた。
東條英機夫人のかつ子さんであったかもしれない。
芳子は何か切ない感情が込み上げてきた。
浄土真宗の信仰が深かったとされる東條英機の未亡人かつ子さんのことを芳子は後年知った。








2012年4 月16日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 3
渋谷駅で降りた芳子は、玉電(東急玉川電車)に乗り換えた。
緑色の2両編成の小さな車体は路面をガタゴトと音を立て走っていた。
電車が坂を上り、そして下って行く光景を見て、芳子は東京の街が起伏の多い土地柄だ思った。
玉電の窓から見える光景は、意外と緑の木立も多かった。
用賀停留所に降り立った時、芳子はようやく辿りついたのだと胸をなでおろした.
東京・世田谷区用賀町は、まだ畑が多く残っており、丘の斜面では土地の造成が進んでいた。
用賀は江戸時代以前は、大山街道の宿場町であり、眞福寺の門前町であった。
畑の間には小川が流れており長閑な感じがした。
芳子が働く、大学の教授宅は緑の木立に囲まれた神学院の南側にあった。
神学院の北側は桜丘であり、武蔵野台地の南端部に位置する
用賀地内には複数の湧水があり、旧品川用水の吸水の跡を源に、中町を経由し水は等々力渓谷を流れていた。
この渓谷には多量の湧水がみられ、世田谷区野毛付近で丸子川(六郷用水)と交差し、世田谷区堤で多摩川に合流する。
この日は休みであったので、大野源太郎教授宅には家族全員が居た。
大野は芳子の高校の教師であった辻村玲子の恩師である。
大野は居間に和服姿でくつろいでいて、新聞を卓に置きパイプをふかしていた。
大野は白髪頭であるが、まだ52歳であった。
「君のことは、辻村君から聞いているよ、君は数学ができるそうだね」
芳子は数学がそれほど得意でなかったので戸惑った。
お茶を運んで来た大野夫人の伸江は48歳で、病院に勤務する小児科医であった。
和服姿で割烹着を着ていた。
「あなたは、料理はどうなの」
伸江は手伝いの芳子に期待をしていたので確認をした。
芳子はお手伝いとして働くので、母には料理を習ってきたが所詮は群馬県の田舎料理である。
「何とかできると思います」
芳子は控えめに答えたが、次の日に伸江から早速、「あなたの料理はダメ、味付けが塩辛いわ」と指摘さてしまった。
芳子は前途多難だと心細くなった。
そして、その夜に徹に手紙を書いた。
<芳子の手紙>
今、東京の世田谷区用賀の仕事先の部屋でこの手紙を書いています。
私の仕事は詳しくは話さなかったけれど、お手伝いの仕事です。
旦那様は大学の先生で、奥様は病院の小児科のお医者さんです。
家族は旦那様のお母さん、息子さん2人、そして娘さん1人の家族構成です。
大きな母屋があり、私は庭の外れの離れの部屋に住んでいます。
隣の部屋には高校の受験を控えている娘さんが居ます。
私の部屋は4畳半でこじんまりしていて、気持ちが落ち着ける部屋です。
部屋の小さな机に置かれたスタンドの下でこの手紙を書いています。
庭には大きな桜の木が5本もあり、今が満開でとても綺麗です。
沼田公園の御殿桜を徹さんと観たことが、昨日のように思い出されます。
朝は日課の犬の散歩があります。
柴犬でハナコと呼ばれたメスの犬です。
朝は5時起きなの、近況は次の手紙に書きます。
徹さんのお手紙を心待ちにしています。
芳子
2012年4 月13日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 2
芳子は故郷の山々を脳裏に焼き付けるように車窓のガラスに額を当てて眺めていた。
群馬県の最北端側から見てきた山波が裏側とすれば、汽車が走行するにつれて山波は表側の姿を表していく。
子持山、十二ケ岳、小野子山、赤城山、榛名山、妙義山などであり、渋川駅を過ぎると徐々に山並みは遠去かっていった。
そして汽車が高崎駅を過ぎると関東平野が広がっていった。
岩本駅を午前7時過ぎに乗った汽車が上野駅に着いた時には、12時を回っていた。
「うえ~の~ うえ~の~ うえ~の~」
駅のホームのスピーカーから流れる独特の抑揚のついた場内放送を聞きながら、芳子は東京にやってきたことを実感した。
人波に押し流されるようにホームを歩きながら、メモ用紙を手にして乗り換えるホームを探した。
昭和30年代、上野駅周辺には家出少女を目敏く探し出し、口車に乗せて騙して何処かへ連れていく男たちがたむろしていた。
実際、そんな男たちの一人に芳子は声をかけられた。
「ねいちゃん、行くところあるのかい?」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると相手は親しみを込めて微笑んでいる。
30代か40代の年齢と思われ、黒い長シャツの胸を肌けており、細いズボンを穿き得体のしれない雰囲気を醸している。
「人と待ち合わせをしています」
芳子は毅然とした態度で言う。
「そうかい。どこから来たの」
相手はまとわり着こうとしている様子だ。
芳子は黙って足早に歩き出した。
だが、初めて来た上野駅であり、男から見抜かれていた。
「何処で、待ち合わせているんだい。案内してやるよ」
男は芳子の脇に並んで着いてくる。
「重そうなボストンバックだね。持ってやろうか」
「結構です。急ぎますから、失礼!」
芳子は走り出した。
背後で男が舌打ちをしていた。
「東京は昼間なのに油断がならない」
芳子は階段を駈け上がった。
芳子の様子見ている女性が居て、階段の中ごろで声をかけられた。
「ああいう、男たちには関わらない方がいいわ。ボストンバックを奪う男もいるんだから」
相手を見ると芳子の母親と同世代の女性であった。
芳子はホット胸をなでおろした。
「東京、初めてなのね?」
ボストンバックを下げ、地味な濃紺のスーツ姿の芳子は、如何にも都会慣れしていない様相であった。
「東京の世田谷区用賀へ行くのですが、渋谷駅は何番線でしょうか?」
芳子はメモを見ながら相手にたずねた。
「私は目黒まで行くので、方角が同じね」
女性は芳子に微笑みかけると先に立ってキビキビとした足取りで歩き出した。
芳子は高校の数学の教師の辻村玲子から就職先を世話された。
辻村玲子の大学の恩師である大学教授宅のお手伝いとして雇われたのだ。
メモ用紙には、用賀駅からの地図も記されていた。
芳子はお手伝いをしながら、看護婦(当時)を目指すことにしていた。
ところで、昭和36年当時、国鉄の初乗りは10円、私鉄は15円であった。

2012年4 月12日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 1
小金井芳子が上京する日、母と妹たちが上越線の岩本駅まで見送りに来た。
夫を戦争で亡くした母は戦後、苦労をして5人の子どもたちを育ててきた。
芳子の2人の兄は中学を出ると家を出た。
1人の兄は、戦死した父親の弟に呼ばれて神奈川県の横須賀に働きに出た。
叔父の魚屋で働いて、「将来は自分の店を持ちたい」と手紙に書いて寄こした。
もう一人の兄は、埼玉県の桶川にある精密機械の工場で働いていた。
岩本駅舎は小さく、何の変哲のない寂しい感じのする駅の佇まいだった。
この駅は昭和61年から無人駅となっている。
利根川が東側に流れており、西側は東京電力の水力発電所になっている。
沼田市岩本町は子持山の麓の町であり、山と川に挟まれ細長く南北に広がって土地である。
南東方面は赤城山の麓につながっている。
徹とは前日、沼田城址公園で会って別れを告げていた。
徹は別れ際に、「後で読んでください」と白い封筒を芳子に手渡した。
「体に気をつけるんだよ。何か困ったことがあったら手紙に書いて送ってきてね」
母はそれだけ言うとハンカチで目頭を押さえた。
妹たちは2人は「東京に遊びに行ってもいい」と目を輝かせていた。
別れの悲しさを感じていないようであり、芳子は2人の妹を胸に抱き寄せ頭を優しく撫でた。
母は戦後、再婚したが夫は昭和27年、出稼ぎ先の群馬県高崎の建設工事現場の事故で亡くなってしまった。
母と義父の間に生まれた妹は、12歳と13歳になっていた。
蒸気汽車は故郷の駅に余韻を残すように汽笛を鳴らした。
妹たちがホームを駆けながら追ってきた。
母はホームの中ほどに立ち止まって、白いハンカチを振っていた。
ゆっくりと汽車がホームを走行していく。
芳子は汽車のデッキに佇み3人の姿が見えるまで見送った。
涙がとめどなく頬を伝わってきた。
客車内の4人がけ席は空いていたので、脇にボストンバックを置く。
そして芳子は徹に昨日渡された封筒をボストンバックから取り出した。
<徹の手紙>
芳子さんの旅立ちに同行できなく、とても残念です。
逢える日が、なるべく早く訪れることを念じています。
「東京へ出て受験勉強をしたい」と父に相談したら、「沼田で勉強しろ」と義父に反対されて上京できなくなったことは、先日、芳子さんに告げましたが、自分にも義父を説得できるだけの具体的な計画がありませんでした。
まずは、大学に合格することです。
頑張ります。
落ち着いたら手紙をください。
手紙を心待ちにしています。
お元気で! 
何卒ご自愛ください。


































































創作欄 芳子の青春 17

2016年08月26日 15時53分20秒 | 創作欄
2012年6 月22日 (金曜日)

世の中には、あまりにも理不尽と思われることが多い。
芳野教授は戦後クリスチャンとなっている。
昭和20年、34歳での人生の大きな転機を迎えることとなった。
戦時下の大学人も戦争に徴用され、 芳野も陸軍技術本部第9研究所で秘密兵器研究を行っていた。
芳野教授は芳子の告白を聞きながら、国家権力に蹂躙される国民の弱さを痛感した。
「あなたは、大変な目にあったのですね。涙なくして語れないことですが、あなたは泣きません。何故ですか?」
芳野教授はパイプの煙の行方を追うようにしながら訊ねた。
芳子は幼児のころから、「泣かない子」と近所で瞠目されていた。
悲しい感情がなかったわけではないが、泣かなかったのである。
「お前は不思議な子どもだね」と祖母も感嘆していた。
その祖母が死んだ時も泣かなかった。
そして、定時制高校の時に婦女暴行事件に遭遇しても泣かなかった。
悲嘆に暮れて地面を手で叩いて泣き叫ぶ人もいるであろう。
また、芳子は怒らない子どもでもあった。
イジメにあっても、ただ、悲し気に眉を潜めてきた少女だった。
「ところで、あなたの現在の住まいのことですが、私が中野にあなたの住まいを探がしますから、1日も早く出ることです」
芳野は語気を強めるように言った。
芳子が約半年、働いていた店は表向きは酒場であったがその実態は売春目的の店であった。
「私はそういうことができる女ではないの!」
芳子は4人の女が働く店のなかで唯一、男の誘いを拒絶していた。
「ママ、しばらく、私に任せてね。芳子は高校生のころ強姦された女だ。男を拒絶するの、私のも分かる気がするんだ」
働く場所を世話してくれた園田里美が、気をつかって芳子をかばってくれた。
「そうかい、そんな過去が芳子にはあったのかい」
元従軍慰安婦であった店のママは、青森県の寒村から13歳の時に浅草の吉原に売られたという悲惨な過去をもつ女だった。

2012年6 月21日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 16
書類や書籍を整理するのに、30分くらいはかったように芳子には思われた。
教授室は、大きな部屋と小さな部屋の2間続きになっていた。
部屋の窓から芳子が散歩で行っている戸山公園が見えた。
この日は風の強い日であった。
風が起こると桜が雪が降るように舞いながら散っていた。
芳子は母譲りで目がよく視力は2.0である。
芳子はバックから履歴書を取り出し、芳野教授の前に置いた。
「履歴書ですか」
芳野教授は椅子に身をもたれるように座っていた。
左手に持ったパイプを吸いながら、卓上の履歴書にチラリと目をやっただけでそれを手にしない。
芳子は賞罰の欄の前科ありの記載を見て、芳野教授がどのように反応するのだろうか、と懸念していた。
沈黙の中で冷や汗が背筋に出てきた。
信じ難いであろうが、22歳の前科者の女と大学の教授は面接するのだ。
淀橋職業安定所で芳子に声をかけたことを、芳野教授は悔いるだろうと思われた。
それは1、2分であっただろうか、芳野教授は黙ってパイプの煙を燻らせていた。
「ほおぅ あなたは群馬県沼田市の出身ですか? 偶然ですね、私の兄は医者で国立沼田病院に勤務していました。姪は沼田女子高等学校を出ています」
芳野教授は、芳子の履歴に目を留めていた。
芳子の母は国立沼田病院の準看護婦であった。
「私の兄は、沼田へ行く前は、長野県の国立松本病院に勤務していましてね」
「そうですか」
芳子は上の空で聞いていた。
そして、芳野教授は賞罰の欄に目を釘付けにした。
「前科あり? これはどうしたことですか?!」
眼鏡の奥の瞳を見開きながら、問いかける声が一段と大きくなっていた。
芳子は虚心坦懐になり、その経緯を包み隠さず話した。
2012年6 月20日 (水曜日)
創作欄 芳子の青春 15
芳子は履歴書を書いて、早稲田大学へ向かった。
『賞罰なし』ではない立場だ。
無実の罪を認めた悔しさに歯軋りする想いがした。
なぜ、強く抵抗しなかったのか?
あの時の気持ちを占めていたのは、「世の中に正義がない」という絶望感であった。
悔しさより、虚しさに心の奥低が占められていた。
「これが日本の警察、検察、裁判所の実体なのか?」
まさに地獄へ突き落とされて行った。
芳子は履歴書の賞罰の欄に、前科ありと記した。
「これで採用されることはない」と思ったが、声をかけてくれた人に対して、誠実に対応したと考え直した。
―捨てる神あれば拾う神あり―
芳子はそんなことわざを頭に浮かべた。

世の中はうまくできていて、見捨てる人がいれば助けてくれる人もいる。
悪いことばかりではないよという意味である。
拾う神との出会いを祈る気持ちであった。
早稲田大学理工学部校舎は、新築されたばかりで芳子が足を踏み入れると壁の匂いや塗装のが漂っていた。
1階の受付で芳野源三郎教授の部屋を聞いた。
期待を不安の気持ちで教授室のドアをノックした。
「どうぞ!」
張りのあるバリトンの声が室内から響いてきた。
芳野教授は学生時代には、合唱団に所属していて、現在も住まいがある地元中野区の混声合唱団で歌っていた。
団員は20代から60代まで。
年齢や職業の異なる人たちで構成され、団員数は約30人。
所属するのは、中野・新宿・杉並・練馬に在住する団員たちである。
芳子はそのようなことを知らなかったので、「何と大きな声が室内から響いてきたのか」と驚いた。
「やはり来てくれましたね。お待ちしておりました」
衝立の向こうから笑顔で出てきた芳野教授は気さくな人柄と思われた。
衝立の中へ招き入れた芳子はまず、乱雑した部屋の様子に戸惑った。
応接セットの上にも椅子の上にも書類や書籍が、うずたかく積まれていた。
「これでは、座れないな」
芳野教授が片付けだしたので、芳子も手伝った。
「前の女の子が結婚して辞めてから、こんな状態なんです。ですからあなたに後を手伝ってほしい」
芳子の気持ちがいくらか解れてきた。
2012年6 月19日 (火曜日)
創作欄 芳子の青春 14
芳子はお手伝いとして住み込みで働いていた東京・世田谷区用賀町と料理学校へ通った渋谷駅の周辺しか知らなかった。
新宿歌舞伎町の北側を通る道路は、沿道に淀橋職業安定所の建物があることから、職安通りと呼ばれていた。
また、百人町の西側は、新宿税務署があることから税務署通りと呼ばれてきた。
いかにもローカルな印象を与える名称である。
いずれの道も靖国通り、青梅街道、甲州街道へ向かうことができる。
アパートの東側に新宿区立柏木小学校があった。
西側に神田川が流れていた。
アパートから国鉄・総武線の大久保駅へ徒歩11分ほど、地下鉄丸の内線の中野坂上駅へは徒歩12分ほど、西武新宿駅へは徒歩13分で行けた。
柏木町、百人町はどこも道幅も狭かった。
百人とは江戸時代の鉄砲百人同心からの名残である。
同心である伊賀出身の武士達が住み、江戸城の警備に当たってた。

百人町や大久保の道路が細かく長く、南北に幾筋もあるが、これは百人同心の長屋があったためだと伝えられている。
柏木町を北に行くと「戸山公園」がある。
公園の向こうには、早稲田大学理学部の校舎が見えた。
このころ、早稲田大学理学部は早稲田の本部キャンパスから大久保キャンパスに移転していた。
芳子は「戸山公園」を散歩しながら、故郷の沼田城址公園を思い出した。
昭和38年の桜が咲く時節が巡ってきていた。
芳子は水商売に誘われたが、結局、その歌舞伎町の店を6か月で辞めた。
酒が飲めないので、これ以上は水商売が勤まらないだろうと思い職安に通った。

そこで、早稲田大学理工学部の教授に偶然にも出会った。
「職をお探しですか?」と相手が声をかけてきた。
芳子は淀橋職業安定所内の壁に貼られた求人票を見ていた。
相手は芳子の警戒心を解くように笑顔となり、背広の胸ポケットから二つ折りの財布を取り出すと1枚の名刺を取り出した。
「突然、あなたに声をかけましたが、私は早稲田大学理工学部に勤める教授の芳野源三郎です。実は事務の仕事を手伝ってくれる女性を探しています。今日は求人の手続きに来たのですが、よろしければ大学の方へ面接に来ませんか?」
芳子は名刺に目を落としながら、「私が面接に伺っていいのでしょうか?」と遠慮がちに声を落として聞いた。
「私は人を見る目を持っています。あなたは真面目そうで、仕事ができる人だと思いますよ」
芳野は52歳であったが、すでに白髪になっていた。
近視と乱視の眼鏡をかけていた。
その容貌は如何にも理科系の学者然として見えた。

2012年6 月19日 (火曜日)
創作欄 芳子の青春 13
芳子は刑期を2か月残して、栃木刑務所を出た時には、22歳になっていた。
帰りたいと思っていたが、思いを巡らせて群馬県沼田市の実家には戻らなかった。
窃盗犯として無実の罪で服役したのであるが、「無実の罪」であることは誰も信じないだろう。
心は頑なになっていて、愛していた徹にさえ会おうとしなかった。
「過去は棄てよう」と芳子は決意をしていた。
そして向かったのは、刑務所で出会った園田里美もとである。
里美は芳子より2か月前に出所していた。
「芳子、困ったら私の所へ訪ねてきなよ」里美は親切に言ってくれた。
里美と芳子は同じ年であったので親近感を抱き頼ろうと思ったのだ。
芳子が訪ねた里美の部屋は6畳で、西日が当たる部屋であった。

ところで、里美の犯罪行為は、勤務先の金の横領であった。
愛した男が競馬にのめり込んでいた。
「里美、俺を助けてくれ、暴力団金融に200万円の借金がある。あと10日以内に返さないと、俺は殺される」と男から泣きつかれたのだ。
それで、思い余って職場の金を横領してしまった。
「男には2度と騙されないからね。あんたも男には気をつけな」
「私たちのような前科者の女には、水商売しかないのよ」と里美は芳子にも仕事を薦めた。
芳子は里美の部屋にしか居場所がなかったので、結局薦められるままに水商売の道へ足を踏み入れた。
2012年6 月16日 (土曜日)
創作欄 芳子の青春 12

芳子が逮捕された警察の留置場には3人が収監されていた。
28歳の大垣貞子は売春と覚醒剤の所持で逮捕されていた。
もう一人の野田理恵は50代、スリの常習犯であった。
また、拘置所には何回も犯罪を繰り返す人がいた。
運動の時間にたくさん人の出会いがあり、いろいろ知恵をつけられる。
「あんた、いい女だね。何やったんだい?」
芳子に興味をもって近づいてきたのは、東京・新宿のヤクザの情婦である木島みどりであった。
年齢は芳子と同じ21歳であったが、あばずれ女の印象でずっと年上に見えた。
世間にもまれて、すれっからしになった女性は、冷笑を浮かべ斜に構えている。
芳子は自分もそんな女に堕ちていくような不安にかられた。
芳子は警察の留置場の中で出会った大垣貞子と同じ拘置所に送られ、裁判、抗告期間も終わり、刑務所に送致された。
貞子は元は暴走族、昭和36年当時はカミナリ族と言われていた。
暴力行為、傷害などで過去に逮捕されていた。
18歳の時に女子学院(少年院)約1年、22歳で女子刑務所に1年3か月。
芳子は拘置所で貞子から刑務所の体験談を聞いた。
栃木刑務所のある女性看守によると、「女子受刑者が犯罪を犯す背景には父親や夫など身近な男性問題が多い。その点、暴力団員などは最初だけとても優しい。その優しさに騙されてしまうと、ずるずると転落していまう」そうだ。
貞子もそのような過程を辿っていた。
一方、昭和36年ころは貧困が犯罪の温床ともなっていた。
売春、窃盗などの背景には貧困もあった。
現在は、女子の犯罪構成は覚醒剤をトップに、窃盗、詐欺が多い。
また、女子刑務所は全国に6か所しかなので、初犯から重犯、年寄りや未成年者まで居住区の舎房はゴチャ混ぜでだった。
ウブな初犯の芳子は様々な犯罪経験者5人と11畳ほどの雑居に生活をしていた。
その大半が母親であり妻であり、5回以上のオツトメの経験者もいた。
雑居房には鍵はかかっていない。
新入りが来ると「あんたは何したの?」と必ずみなが興味をもって聞く。
そして、雑談のなかでパクられないノウハウや、刑務所を早く出所するための知恵をつける。
つまり「うまい懲役の仕方」が刑務所内で語り継がれて行く。
とびきり美人の芳子は「何であんないい女がムショにはいる羽目になったの?」と注目された。
夏場は3回ほど風呂に入れたが、髪を洗えるのは1回だけだった。
そして、刑務所では出産、育児もあった。
出産は近くの産婦人科で行われ、子どもは1歳までは刑務所内にある特別の保育室で育てられた。
午後5時に夕食が終わり、6時から9時までが自由時間となる。
芳子は主に読書をして過ごした。
作業は1日8時間。
作業は縫製であった。
実に刑務所内は、規則正しい生活サイクルである。
2012年6 月16日 (土曜日)
創作欄 芳子の青春 11
人生の途次、どのような『色』に染まるかである。
人間はあるゆるものに影響を受ける存在。
君子危うきに近寄らず
君子危うきに近寄らずとは、学識、教養があり徳がある者は、自分の行動を慎むものだから、危険なところには近づかないということ。
故事ことわざ 格言 座右の銘などは生きる知恵ともなる。
行動の規範でもある。
人の出会いも検証される必要がある。
例えば、夫、愛人、恋人が麻薬常習者であったなら。
あるいは、アルコールやギャンブル依存であったならば、生活は破綻するだろう。
その上、男の理不尽な暴力を伴えば2重苦、3重苦の生活に陥る。
破滅的な人生は、破滅的な人間だけの個人の問題には留まらない。
周囲の人間をも巻き込んでしまうものだ。
芳子の人生の狂いもそのような道を辿って行く。
警察に逮捕された芳子は窃盗罪を、警察官の誘導尋問で認めさせてしまった。
警察が取調べの段階で暴力を振るうこともあるこが、とても信じられなかった。
警察に対する不信感は検察に対する不信感のみならず、裁判所に対する不信感にまで連鎖していく。
「裁判官なら、分かってくれるはず」
芳子は最後の望みを裁判に託していた。
だが、有罪の判決が下ったのだ。
「世の中に『正義』などあるのだろうか?」
芳子は15万円は自分の金だと主張したが、信じてもらえなかった。
芳子が中学を卒業して、定時制高校を卒業するまで働いて貯めた金であった。
それを芳子が働いていた群馬県沼田の郵便局に確認すれば明らかになることであった。
警察は、予断からその確認を怠っていた。
芳子は絶望するとともに、理不尽さを呪った。
初犯であれば執行猶予も付くが、犯行を認めない態度が裏目に出た。
反省しない人間を懲らしめる必要があったのだ。

創作欄 芳子の青春 21

2016年08月26日 15時44分30秒 | 創作欄
2012年6 月23日 (土曜日)

「アメリカの原爆投下は、人体実験だったんです」
芳子は芳野教授の言葉に唖然とした。
戦後18年目の終戦記念日の日であった。
天皇陛下の「終戦詔勅」に以下の昭和天皇の公式見解がある。
「敵は残虐なる爆弾を使って無辜の国民を大量に殺した。このままでは日本国民だけでなく、人類の滅亡に向かう。だから日本は降伏する」
アメリカはウラン型とプルトニウム型の原爆を日本国土に投下したが、その隠された理由は人体実験であった。
芳野教授は故郷の実家でる広島市内に妻と4歳の娘を疎開させていた。
そして父母とともに4人を原爆で失っていた。
戦後の東京は完全に廃墟と化していた。
その渦中で芳野は深い喪失感と絶望から生き地獄に突き落とされ、呆然自若となった。
それまでの全ての価値観が顛倒してしまった。
言い知れぬ絶望から立ち上がれたのは、信仰に導かれたからであった。
「芳子さんも信仰を持つべきです」
芳野教授は、書棚から聖書を取り出すと芳子に渡した。
大学は休みであったが、日本機械学会が開かれるため芳野教授は講演抄録をまとめていた。
芳子は教授秘書として事務面での補佐をしていた。
--------------
<参考>
アメリカ軍の人体実験だった広島・長崎の原爆投下
「後悔に1分たりとも時間を費やすな」は米大統領だったトルーマンの言葉だ。
実際、戦後何百回もたずねられた「原爆投下」について少しも後悔の念を見せなかった。
難しい決断だったかと聞かれ「とんでもない、こんな調子で決めた」と指をパチンと
鳴らした。
第33代米国大統領、ハリー・S.トルーマンの逸話である。
2012年6 月23日 (土曜日)
創作欄 芳子の青春 20

5月の陽射しが明るく差し込むガラス窓を背にして、芳子は新聞を読んでいた。
「今 何時なの?」
布団の中から里美が声をかけた。
里美は布団を被って寝ていることが多い。
「もう直ぐ、午後1時になるわ」
「今日は何曜日?」
「日曜日よ」
里美は布団を出るとハンドバックからタバコを取り出した。
里美の部屋を出る日が迫っていた。
芳子は芳野教授が探してくれた中野のアパートへ住むことになっていた。
「里美さん、今の仕事を辞めて、何か他の仕事を探した方がいいと思うの」
「芳子は大学へ勤めているんだよね。それは綺麗ごとだよ。でもね私は私の道を行く。
何時か金づるの男を見つけるさ」
片膝を立てながら里美は投げやりに言うと天井に向けてタバコの煙を吹かした。
パジャマのボタンが二つも外れていて豊かな乳房が露になっていた。
クリスチャンの芳野教授は「あなたには善き友が必要です」と言っていた。
「善智識に導かれることです」とも諭す。
里美が世話してくれた酒場は、単なる水商売ではなく売春を伴う違法な店であった。
「この部屋を出ても、ずっと里美さんには恩義を感じているわ。よいお友だちでいましょうね」
芳子は率直な気持ちを吐露した。
だが、里美は斜め目線で冷笑を浮かべた。
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<参考>
善知識(ぜんちしき、サンスクリット:कल्याणमित्र kalyaaNa-mitra)は、「善き友」「真の友人」、仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人を指していう。
「善友」とも漢訳される。原語の kalyaaNa は、「美しい」「善い」の意味の形容詞、中性名詞として「善」「徳」の意味。mitraは「友人」。
2012年6 月23日 (土曜日)
創作 芳子の青春 19
人は間違える。
失敗もする。
「冤罪の問題点は、真犯人を捕り逃していることだ」
芳野教授は芳子が部屋を出たあと、思いを巡らせた。
若い頃の芳野は江戸川乱歩の小説の愛読者であった。
尋常小学校、旧制の中学校の頃、推理小説を構想し、色々なトリックを夢想していた。
自白を重視する警察は、ある意味で科学的とは言えない。
予断の余地も含めば、真実は見えてこない。
証拠よりも自白を重視する警察の犯罪捜査の在り方が改めて問われる。
同時に、ずさんな捜査をチェックする立場である検察官や裁判官が、本来行うべき検証作業を怠っていたことも事実であろう。
戦時中に秘密兵器の製造に携わってきた芳野は、戦後の大きな事件の中では特に15年前に起きた「帝銀事件」に着目していた。
そして芳野は、作家の松本清張や衆議院議員の小宮山重四郎などとともに支援者として釈放運動を行ってきた。
だが、1962年(昭和37年)に「仙台送り」と言われる宮城刑務所に移送された。
その後も支援者らの説得で平沢は恩赦を求めたが棄却された。
「何という理不尽さであろうか」
芳野は芳子の無念さを、犯人にされてしまった平沢貞通の無念さに重ねた。
一方、芳子も帝銀事件に着目し、新聞を読んできた。
芳子が栃木刑務所に収容された年に、平沢は仙台の宮城刑務所に移送されていた。
「死刑にできない平沢は、宮城刑務所で病死すればいい」と国家権力は願っていたようだった。
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<参考>1
帝銀事件とは、1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区の帝国銀行(後の三井銀行。現在の三井住友銀行)椎名町支店で発生した毒物殺人事件。
戦後の混乱期、GHQの占領下で起きた事件であり、未だに多くの謎が解明されていない。
旧陸軍細菌部隊(731部隊)関係者を中心に捜査されていた。
陸軍第9研究所(通称9研)に所属していた伴繁雄から有力情報を入手して、事件発生から半年後の6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示が出て、陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞るも、突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられてしまう。
テンペラ画家の平沢貞通の供述は、拷問に近い平塚八兵衛の取り調べと、狂犬病予防接種の副作用によるコルサコフ症候群の後遺症としての精神疾患(虚言症)によるものとされる。
平沢の取調べはかなり厳しいものであったと言われ、平沢は逮捕された4日後の8月25日に自殺を図っている。
またその後も2回自殺を図ったとの事である。
代々の法務大臣も死刑執行命令にサインしないまま、1987年(昭和62年)5月10日、平沢は肺炎を患い八王子医療刑務所で病死した。享年95。
平沢貞通の獄死直後の5月25日、捜査本部の刑事に協力した伴繁雄がテレビ出演して、真犯人は平沢でなく、元陸軍関係者と強調していた。
捜査に携わっていた成智英雄は後の手記で「帝銀事件は平沢のように毒物に関する知識が何も持たない人物には不可能 と述べた。
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<参考>2
江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、正字体:江戸川 亂步、男性、1894年(明治27年)10月21日~1965年(昭和40年)7月28日)は、大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家である。
また、戦後は推理小説専門の評論家としても健筆を揮った。
実際、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた。
本名は平井 太郎(ひらい たろう)。
筆名はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったものである
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<参考>3
科学警察研究所は、日本の官公庁のひとつ。
警察庁の附属機関である。
警察庁の附属機関の一つとして設置された組織。科学捜査・犯罪防止・交通警察に関する研究・実験を行うとともに、警察内外の関係機関から依頼された証拠物等の科学的鑑識・検査を行うことを主な任務とする。警察庁長官の命を受け、科学警察研究所長が所務を掌理する。科学捜査研究所と混同されがちだが、科捜研が各都道府県警察本部の附属機関であるのに対して、本所は警察庁の附属機関である。大学との研究連携も活発である。

1948年5月:国家地方警察本部刑事部鑑識課に科学捜査研究所を創設。(所在地 東京都千代田区霞が関二丁目1番)
1949年8月:東京都千代田区三番町六番地に移転。
1952年9月:国家地方警察本部刑事部の附属機関となる。
1954年7月:警察庁の附属機関となる。
1959年4月:科学警察研究所と改称。業務内容に防犯少年及び交通警察関係の研究、実験を加え、内部組織を部、課、室制度に改める。
2012年6 月22日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 18
芳野教授は宗教の意義や役割について述べた。
「私が著書を読み影響を受けた英国の社会学者のブライアン・ウィルソンは、『日常生活のなかで、信仰の実践をし、よりよい人間社会を建設していく努力が、本来の宗教の使命なのです』と指摘をしているんです」
芳子は「本来の宗教の使命」という言葉を心に留めた。
「どのような苦難に直面しても、人は蘇生できるのですね」
芳野教授の力強い言葉に、芳子の気持ちは引き寄せられた。
「人は蘇生できる」
芳子は翼を得て未来へ羽ばたいて行くような心持となった。
「明日から、ここへ来られますか?」
芳野教授は親しみを込めて芳子に微笑みかけた。
「私がここへ来ていいのですか?」
芳野教授は大きく頷いていた。
芳子は「私は、救う神に出会ったのね」と内心で呟いた。

教授室を出ると足取りも軽くなて、スキップでもしたい衝動にかられた。
空は澄み渡り、小高い丘の上に立つとどこまでも見渡せた。
心が弾む思いで戸山公園の桜を見上げた。

東は現在の穴八幡(高田八幡)の南あたりから、西は大久保界隈まで、そして南は新宿の歌舞伎町一帯を含む広大な原野が、戦前までは戸山ヶ原と呼ばれていた。
作家の夏目漱石が好んで歩いた散歩エリアだ。
戦前は雑木林が点在する広大な原っぱであり、陸軍の軍用地だった。
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<参考>
ブライアン・R・ウィルソン(Bryan Ronald Wilson, 1926年6月25日~ 2004年10月9日)は英国の社会学者。
専門は宗教社会学。
英国オックスフォードシャー・ミドルトンストーニーの生まれ。
オックスフォード大学の社会学の名誉教授。
国際宗教社会学会(the International Society for the Sociology of Religion)の会長を務めた(1971年-75年)。

創作欄 「宿業の人」 3

2016年08月26日 15時37分49秒 | 創作欄
2012年8 月17日 (金曜日)

それは高校2年の夏の出来事であった。
佐々木勉は1年生の時から街のボクシングジムに通い日増しに腕力に自信を深めていた。
瘠せてはいたが身長は181㎝になっており、父親の禿げ頭を見降ろしていた。
「勉、テメイ、親をなめるんか!」
晩酌の日本酒が進んでいた父親はほとんど鬼の形相となり、茶ぶ台を両手でひっくり返した。
卓上の物が畳の上に散乱し、心優しい母親は言葉を失いおろおろするばかりであった。
勉は冷笑を浮かべ、楊枝を口にくわえたまま父親を三白眼で睨み据えていた。
「勉よ、その態度はええ、何なんだよ!」
父親は100㌔を超えた巨体で飛びかかってきた。
勉のシャツのボタンが二つ千切れ飛び、シャツは引き破られそうに張り、襟首が勉の頸動脈に食い込んできた。
勉の右のパンチが父親の鼻頭に炸裂し、鼻骨が崩れるような感触が拳骨に残った。
左のパンチは父親の耳の上を完全にヒットした。
夥しい鼻からの出血に、父親は驚愕し言葉を発することなく、倒れた茶ぶ台の上に覆いかぶさるように身を崩した。
過去のドス黒い鬱屈した憤りが堰を切った状態となり、勉は倒れ込んだ父親の後頭部に左右のパンチを更に加えた。
その時になって、優しい母親が勉に小柄な体を武者ぶるようにしてしがみ着いてきた。
それはほとんど子どものように非力で軽い衝撃でしかなかった。
母親は身長150㎝足らずで、しかも長崎に投下された原爆の後遺症で体調不良が続いており痩せ細った身であった。
「これ以上、やめてな、お父さん死ぬよ」
母親は咽ぶような泣き声で哀惜の感情を勉にぶつけた。
「殺してやる」
叫んでいた勉は、母親の声を耳にするといっぺんに力が萎えてしまった。
肩で大きな呼吸を繰り返しながら、白髪頭の母親を見下ろしていた。
勉はその夜から家には二度と戻らず、高校を中退して無頼の徒となった。
やがて勉は長崎から大阪へ出て、キャバレー勤めをする中で、広域暴力団の下部組織の組員となった。
佐々木組長は、松田健三に肩を揉ませながら過去の同じ場面を何時ものように回顧していた。
これまでの無頼の徒の身には何でもありであった。
「お前さん 東京にも居たそうだな」
松田はギョッとした。
その驚きは指圧の指先にも敏感に反映した。
「何を驚いているんや。わいは千里眼やないで、情報やて。わいらの凌ぎは、後手に回ったら勝てん。常に先手先手に必勝やで、お前さん、うちの若い衆(もん)にならんか。いい体しとるし、胆力がある。わいには分かるんや。だが、自惚れたら困るぜよ。ひとかどの者におさまるには胆力やてのう」
佐々木組長は何時になく上機嫌であった。
松田は大分の別府ごときで、埋もれるつもりはさらさらなかった。
「今は緊急避難の身だ。否(いや)、将来の飛翔に備えての充電期間だ」
松田は指先に力を加えながら心の中で叫んでいた。
「お前さんには見込みがある。別格扱いにしてやるで。これは糊塗(こと)ではないで」
「こと(糊塗)ではない?」
「そや、この場の誤魔化しではないちゅうことや」
佐々木組長のその一言に心が動いた。
松田は組に一時、厄介になる腹づもりとなった。
それも経験の1つで、将来、大きな組織の頂点二立った時に何らかの役に立っかと思った。
佐々木組は、西日本一、二の増渕組傘下の武闘集団で、220名余の組員で構成されていた。
若衆兼組長専属の指圧師松田健三は一年近く、佐々木組長の側近にあって、人の動かし方、懐柔策、そして恫喝、資金の運用にまで身近で垣間見る結果となった。
2012年8 月16日 (木曜日)
創作欄 「宿業の男」 2
「わたしは、ある種のパワーを得まして、不思議なんですよね。今までと、どこがどう違うのかって、明確に言えませんが、この指の先からエネルギーが出ているんですよ」
それは指圧師として、まだ半人前であることをカバーするために松田健三が思いついた単なるハッタリであった。
だが、多くの人々は、それを容易(たや)くし信じてしまった。
いわゆる、不定愁訴は厄介であり苦しんでいる人は藁にもつかまりたい気持ちでいた。
「成せばなる」
松田健三はそれを座右の銘にしたと思った。
ハッタリから出た彼のハンドパワーは、噂が噂を読んだ形となり、全国的広域暴力団の支部組織の組長の耳にも届く結果となった。
九州大分県別府市は、国体が開かれるのを機にクリーンな街づくりに努め、それが功を奏した時期もあったが、M組が関西から本格的に進出してから、新しい街づくりを嘲笑するように、暴力団排斥運動はなし崩しになってしまった。
佐々木組佐々木勉組長は、ひどい肩凝り症であった。
それは頚椎の歪みに起因していたが、佐々木組長は指圧やハリ治療でそれを何とか凌ごうとしていた。
それがどれほどの効果があったのかというと否定的で、指圧師や鍼灸師の出入りの多さが物語っていた。
そんな折りである、松田健三の指圧の腕の評判は狭い別府の街なので佐々木組長の耳にも届いた。
「花菱の旦那さん、評判の指圧師に出会ってから、すっかり腰痛が治ったそうですよ。その指圧師まだ、24歳か25歳らしですよ」
「その按摩、凄腕なのに、そんなに若いんか!」
佐々木組長は女房の君江に肩を揉ませながら、振り向いた。
左目の脇から頬にかけて10cmほどの刀傷があった。
「あんさん、一度、試してみますか」
別府市内に3店のパチンコ屋を経営している花菱豪は在日2世であり、松田健三とは幼馴染であった。
君江は30分以上、肩を揉まされ続けていたので、いい加減うんざりしているところであった。
寝室の柱時計に目をやると午前2時を回っていた。
佐々木組長は君江と性交行為に及んだ後であり、身には何も着けていなかった。
君江は肩から腰までの彫り物の夜叉の黄色い角の部分を赤いマニキュアの指で撫で上げた。
「あんさんは、何故、そんなに肩が凝るんでしょうね」
「親父もひどい肩凝り症でな。遺伝と違うか」
佐々木組長は中学まで、その親父に殴られ続けてきた。
彼は身長が175cmになっていたが痩躯であった。
中学一で中三の番長の座を脅かすほどの胆力があったが、親父には簡単に捻られていた。
彼の父親は168cmほどの身長であったが、体重は100㌔を超えていて、体力で何事も押し切ろうとしていた。
しかも、癇症であり1日中何かに当たり散らしていた。
「いつか殺してやる」
佐々木は父親に対して、憎悪の炎を燃やし続けていた。
2012年8 月 9日 (木曜日)
創作欄 「宿業の男」 1
不覚にも警察に逮捕されたのは、薬事法違反の容疑であった。
あの時は上昇機運であり、勘も冴えて良い方へ向かいつつあったのだから、拘置された身は甚く(いた)屈辱的な体験であった。
「俺は、将来の国家元首であるべき人間だ」
捜査官の執拗な取調の中、松田健三は予備校時代の猛勉強の日々を回顧していた。
「1日15時間、これだけ勉強したのだから、東京大学の試験に受かるだろう」
確信して臨んだが、3年目も不合格となった。
松田は帰りに、赤門の太い柱を握り拳で「クソ! クソ! クソ!」と吼えながら叩いた。
その時の拳の痛さと衝撃の音が忘れられない。
「松田! コラ!、今日は黙秘は許さんぞ!」
捜査官が机を拳で「ドン、ドン、ドン」と3回叩いた。
松田は薄めを開けながら不敵な笑みを漏らした。
松田は「フン」と呟き、眼蓋を閉ざした。
「この野郎!」
捜査官は青筋を浮かべて松田を睨み据えた。
松田は視力が弱かったため、幼いことから苛めにあってきた。
「コラ!松田!眼を開けろ! ふざけるな!」
低音だが響く怒り声が、狭い部屋の重苦しい空気を振るわせた。
この時、松田は薄めを開けて捜査官を見た。
過去の多くの苛めっ子の眼をそこに重ね見る重いがして、松田は歯軋りをした。
「警察のおっさん、お前に、俺の辛さが分かるか。お前の眼は鋭い光を放ち良く見えそうだな。俺の片目には磨りガラスがはまっているんだ。もう片方の目だって、ほとんど遠くは見えず、全てがぼやけて見える。失明の危機に怯え続ける中で、俺は俺なりに、この世に生を受けてきたことの意味を問い続けてきたんだ」
松田は言いたいことを飲み込んだ。
そして、松田は重かった口を開いた。
「おまわりさん、あんたは幸せかね」
松田は太太しい笑みをもらした。
「コラ!松田!、お前、余計な口きくな!」
怒鳴り声が再び響き渡った。
松田は相好を崩すと薄気味悪い大きな顔に、親しみと愛嬌が湧く。
それがこの男の特徴の一つで、他人はそこに心を許し油断をした。
彼は誇大妄想狂であり、詐欺師だった。
その片鱗は九州の大分時代の指圧師の仕事でも遺憾なく発揮された。

他者に尽くす人生の重要性

2016年08月26日 13時47分40秒 | 社会・文化・政治・経済
人を励ます。
励ましは、慈悲の発露である。
自らは途方に暮れるしかない深刻な悩みを抱えている。
だが、それでも悩めままの姿で人を励ます。
どんなに大きな苦悩をかかえていても人の幸せを願う。
励ましは、慈悲の発露である。

強く生き抜いて、人生の勝利へ。
「足は大地に、眼差しは天空に」
青年は、心には宇宙大のロマンと希望を燃えあがらせていく。
ねざすべきは人間教育。
他者に尽くす人生の重要性。

だれもが秘める尊極の仏性

2016年08月26日 13時31分31秒 | 社会・文化・政治・経済
“充実の人生”を歩む

他力本願

【意味】 他力本願とは、自分では何もせず、他人の力に頼って事をなすこと。他人任せにすること。

【他力本願の語源・由来】. 他力本願は、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人によって広められた仏教語。
自らの 修行の功徳によって悟りを得るのでなく、阿弥陀仏の本願によって救済されること。
浄土 教の言葉。

他力本願ではなく、自身の内なる仏の生命を引き出す。
人生を豊かにする信仰。
自らの力で人生を切り開く。
日本人は得てして、自己肯定感に乏しい傾向にあるといわれる。
物質的に恵まれていても、人間関係に行き詰まり、生きがいを見いだせずにいつ人もすくなくない。
そうした時代にあって、かけがいのない、自分にしかできない“充実の人生”を歩む。
幾多の人間の現実の蘇生のドラマがあある。
自他共の幸福を築く「菩薩」の生き方。
他者のために労苦をいとわず行動する。
仏法本来目的は、全人類の幸福。
だれもが秘める尊極の仏性を輝かせる。

個人を磨き深化させる思想、理念

2016年08月26日 12時50分56秒 | 社会・文化・政治・経済
★表舞台に立つ人の陰には、支える人がいる。
「縁の下の力持ち」の方々を励まし、たたえる文化。
★人知れず、黙々を支える人がいる。
陰の人を見つけ、たたえる目を持ちたい。
★個人を磨き深化させる思想、理念が歴史を動かす。
★時間の長短は気持ち次第で自在-エジソン
★暇なのは、生きる目的や目標がないから。
自己肯定も低く、時間をつぶすためにスマホを常に触ってしまう。
★ストレス発散や現実逃避でスマホを使う子も、依存に陥りやすい。
★周囲との関係が不安定。
安心できる居場所がどこにもなくネットに依存する子が非常に多い。

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2016年08月26日 12時20分56秒 | 【お知らせ】
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  花を楽しもう!みん花通信
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(2016.08.25配信)

numatatoneさん、こんにちは!
いつも「みんなの花図鑑」をご利用いただき誠にありがとうございます。


※みん花通信の受信間隔を変更するには、メール下部[メール設定変更方法]をご参照ください。





【本日の一枚】

本日の一枚はfuuzin(風神、ふうじん)さんが三重郡で撮影した「マメアサガオ」です。
「マメアサガオ」は北アメリカ原産です。本日の一枚は、1.5cmほどの小さな花を大きくとらえ、真っ白な漏斗状の花、同色のシベ、赤紫色の葯の姿がよくわかり、素朴なかわいらしさを写した一枚です。


本日の一枚を見る
https://hc.minhana.net/photo_of_ today?utm_source=tsushin&utm_medium=mail&utm_campaign=mailmag

本日の一枚は、撮影スポット(※)を登録していただいた写真の中から季節感あふれる写真や花のある風景など、 そのスポットに出かけたくなるような魅力的な写真を選ばせていただいております。
(※)撮影スポットは、写真投稿ページの「撮影スポットを登録」に入力すると登録することができます。
  例:東京都小平市/東山動植物園/八坂神社 など
皆様のお気に入りの場所をぜひご紹介ください。紅葉の写真投稿もお待ちしております。


お花を楽しめるおすすめのスポットを「撮影スポット」に記入してご投稿ください。
皆様のお気に入りの場所をぜひご紹介ください♪

【本日の誕生花】

フヨウ
ひらひらと波打った花びらが可愛らしい!早朝に開花し、夕方にはしぼんでしまうという儚い花なんです!花言葉は「しとやかな恋人」です!
https://minhana.net/wiki/view/2266?utm_source=tsushin&utm _medium=mail&utm_campaign=mailmag

毎日、Reimage Repairに邪魔され、パソコンがフリーズ

2016年08月26日 05時29分09秒 | 社会・文化・政治・経済
★志布志事件
限度を超えた警察の取り調べの違法性を断罪した内容だ。
福岡高裁宮崎支部が、逮捕や起訴されなかったものの「違法な取り調べを受けた」とする6人の訴えを認め、595万円の支払いを県に命じた。
「高血圧性脳症の疑いと診断され入院したのに外出許可を取らされて連日の取り調べを強行した」
「大声で怒鳴りながら机をたたくなどの取り調べを連日長時間繰り返し、入院を余儀なくされた」
「公権力をかさに着た常軌を逸した取り調べだった」と認定され、計5980万円の賠償を命じた判決が昨年確定している。
この事件で明らかになったのは、いったん捜査機関が事件の筋を見立てると、自白を得るために相当強引な取り調べをすることがあり得るということだ。
なぜ捜査は強引に推し進められたのか。
起訴して公判を続けた検察の責任も大きい。
★国破れれば憲法も残らぬ
我々がいくら理想をうたった現憲法を守り、国の防衛を完遂しようと企画したところで、外国には必ずしも通じないだろう。
例えば有事の際、憲法を振りかざし「この憲法が目に入らぬか!我が国は、諸国民の公平と信義に信頼して、戦争を放棄している。我が国への侵攻を即時中止せよ」と言ったところで通用するはずがない。所詮、憲法は国際法ではない。つまり憲法が国を守るのではなく、国を守るのは人でありシステムであるということだ。
毎日新聞「みんなの広場」山川正志さん(74)の投稿。
テロリストに向かって「私は日本人だ。殺さないでくれ」と言って通用しない。
それが現実。
平和国家日本であるが、憲法が日本を守ってくれるわけではない。
北朝鮮の暴発に備える必要もある。
それが現実的選択。
日本は戦争ができる国ではなく、国民の命を守れる国になるべきだ。
★毎日Reimage Repairに邪魔され、パソコンがフリーズする。

取手の野外ビアガーデン "ソニックガーデン" が開催

2016年08月25日 12時47分44秒 | 日記・断片
自由人も年金生活では、どうにもならない。
月額4600円、年間5万5200円の介護保険料が、年金から引かれている。
友人の大森さん(仮名)が、愚痴をこぼすのも理解できる。
「年金額なんか、人に言うんじゃないよ」と家人に釘をさされているが、この年金額では介護施設には入れないだろう。
生涯自由人は、健康長寿を貫くほかない。
毎日新聞を含め、新聞3紙、その他。
パソコン、携帯電話、コピー、インク代などもある。
家人のパートで何とか、酒も飲めるし、取手市内のイベントへも行ける。
明日は、
SONIC GARDEN(ソニック ガーデン2016)
日:8/26(金)・27(土)の2DAYSイベント!
取手の野外ビアガーデン "ソニックガーデン" が開催されます!
15:00~21:00
場所 リボンとりで脇の平面駐車場

時:15時~21時

巨大屋外ビアガーデン
人気の地元飲食店
8/26(金)は爆笑お笑いライブ!ものまね芸人来たる!
8/27(土)はダンスコンテスト開催!ただのコンテストじゃない?!取手を一番盛り上げるのは誰だ!


当日はイベントスタンプラリーを実施!
すべてのイベントに参加された方に対し記念品をプレゼント

駅前にぎわいフェスタ

~はーとランド♡取手with sonic garden~

ソニックガーデン
ボックスヒル取手
リボンとりで
JR取手駅


同時日開催(8/27(土))!とりで灯ろう流し
会場:利根川河川敷(常磐線鉄橋下 船乗り場)

17:00~受付開始

17:00~1部アトラクション(ジャズバンド演奏、フラダンス)

18:30~2部セレモニー 星あかり(ろうそく点火)

19:00~灯ろう流し 送り船

19:30~花火

(主催:とりで利根川灯ろう流し実行委員会)

取手イベント
2016/08/24
常磐線開業120周年記念 駅前にぎわいフェスタ 詳細情報!
2016/08/15
とりで灯ろう流し 8月27日(土)に開催します

勝負に絶対はない!

2016年08月25日 12時16分27秒 | 未来予測研究会の掲示板
8月23日の小田原競輪開設記念
被災地支援 北条早雲杯争奪戦は3日目は荒れた。

1R 382 5万2310円
3R 947 25万7090円
4R 234 11万6990円
6R 859 23万1440円
10R 315 8万920円


利根輪太郎たちは前半戦の負けを10Rの準決勝で取り返すつもりであった。
宮元武蔵はどうしたのか2か月姿を見せない。
10Rは稲垣 裕之の表裏の3連単で勝負。
だが、まさかの3着。
3-9ラインの稲垣 裕之に、意外にも1-9ラインがイン粘り戦法。
そこまでは想定していなかった。
断然、1-9ラインが有利な展開となる。
3-9ラインの9番選手は飛ばされて後退。
3-1-9の展開となる。
3番をガードすべき9番がいなければ、3番は不利な展開に。
当然のように断トツの本命3番は3着に沈む。
ボックス車券を買っていたら取れたが、3番の3着はあり得ないと思い込んでいたのだ。

10R 準決勝
本命 稲垣 裕之 39 京都 86 3着
11R 準決勝
本命 武田 豊樹 42 茨城 88 5着
12R 準決勝
本命 新田 祐大 30 福島 4着

日本酒にコーラを入れて飲んでいる

2016年08月25日 11時39分21秒 | 日記・断片
80歳を過ぎた父親が、「日本酒が苦い。美味しくない」と言ったので、違和感を持った。
だが、現在の当方も同じ状態となり、日本酒を避けて、焼酎やリキュール酒を飲むようになる。
「日本酒が一番。他のアルコールを飲む人は、本当の酒飲みではない」などと言っていたので、「だから、人のことは言ってはダメ。
焼酎を悪く言う方が間違い」と家人に指摘され、返す言葉がない。
現在、日本酒200㍉に20ミリのコーラを入れて飲んでいる。
家人はコーラをよく飲む。
買い置きが2~3本。

△▼厚生労働省▼△ 08月24日 19時 以降掲載

2016年08月25日 10時50分25秒 | 医科・歯科・介護
新着情報配信サービス

     

○ 政策分野

・麻しん・風しん
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224277

・ジカウイルス感染症の流行地域※1(2016年8月24日更新)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224279

○ 審議会等

・第44回先進医療技術審査部会(2016年7月14日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224281

△▼厚生労働省▼△

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      08月24日 10時 以降掲載

○ 報道発表

・原子力災害対策特別措置法第20条第2項の規定に基づく食品の出荷制限の解除(原子力災害対策本部長指示)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224237

・医薬品成分を含有する健康食品の発見について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224239

・第2回「地域高齢者等の健康支援を推進する配食事業の栄養管理の在り方検討会」の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224241

・危険ドラッグの成分3物質を新たに指定薬物に指定~指定薬物等を定める省令を公布しました~
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224243

○ 政策分野

・予算
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224245

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224247

・平成28年の労働災害発生状況(8月)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224249

・平成27年度 乳幼児栄養調査結果の概要
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224251

・薬物乱用防止に関する情報
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224253

○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224255

・第39回労働政策審議会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224257

・第二回 地域医療構想に関するワーキンググループ
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224259

・薬事・食品衛生審議会 医薬品第一部会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224261

○ 統計情報

・平成27年雇用動向調査結果の概況
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224263

・介護保険事業状況報告(暫定)(平成28年5月分)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224265

・「人口動態統計速報」平成28年6月分
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224267

○ 採用情報

・○採用情報(総合職事務系)の更新
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224269

○ その他

・調達情報 新医療機器使用要件等基準策定業務(リードレスペースメーカ)(公募)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224271

・調達情報 食品に残留する農薬等の成分である物質(プロファム)の試験法開発事業一式
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224273

・調達情報 既存化学物質安全性点検に係る毒性調査業務 Decyloxirane (CAS No. 2855-19-8)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224275

△▼厚生労働省▼△

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      08月23日 19時 以降掲載

○ 政策分野

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224225

・ジカウイルス感染症について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224227

○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 薬価専門部会(第117回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224229

・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224231

・第3回がん検診受診率等に関するワーキンググループ(開催案内)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224233

・第6回アレルギー疾患対策推進協議会 議事録(2016年7月22日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224235

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○ 政策分野

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
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・ジカウイルス感染症について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224227

○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 薬価専門部会(第117回) 議事次第
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・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
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・第3回がん検診受診率等に関するワーキンググループ(開催案内)
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・第6回アレルギー疾患対策推進協議会 議事録(2016年7月22日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224235

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○ 政策分野

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
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・ジカウイルス感染症について
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○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 薬価専門部会(第117回) 議事次第
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・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
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・第3回がん検診受診率等に関するワーキンググループ(開催案内)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224233

・第6回アレルギー疾患対策推進協議会 議事録(2016年7月22日)
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○ 政策分野

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
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・ジカウイルス感染症について
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○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 薬価専門部会(第117回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224229

・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224231

・第3回がん検診受診率等に関するワーキンググループ(開催案内)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224233

・第6回アレルギー疾患対策推進協議会 議事録(2016年7月22日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224235

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○ 政策分野

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224225

・ジカウイルス感染症について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224227

○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 薬価専門部会(第117回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224229

・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224231

・第3回がん検診受診率等に関するワーキンググループ(開催案内)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224233

・第6回アレルギー疾患対策推進協議会 議事録(2016年7月22日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224235

△▼厚生労働省▼△

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      08月23日 10時 以降掲載

○ 報道発表

・指定薬物を新たに3物質指定します~本日開催した指定薬物部会の審議結果~
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224195

・すべての都道府県で地域別最低賃金の改定額が答申されました~答申での全国加重平均額は昨年度から25円引上げの823円~
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224197

・今回初となる「働きやすく生産性の高い企業・職場表彰」を実施します本日から10月31日まで、生産性向上と雇用管理改善の両立に取り組む企業を募集
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224199

○ 政策分野

・ジカウイルス感染症について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224201

・ジカウイルス感染症の流行地域※1(2016年8月23日更新)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224203

・地域別戦没者概見図(平成28年7月末現在)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224205

○ 審議会等

・第6回 食品衛生管理の国際標準化に関する検討会
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224207

・第1回 全国在宅医療会議
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224209

・第62回社会保障審議会介護保険部会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224211

・審議会、研究会等予定
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224213

・第7回食品衛生管理の国際標準化に関する検討会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224215

○ 統計情報

・平成27年労働争議統計調査の概況
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224217

○ 採用情報

・労働基準監督官採用試験
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224219

○ その他

・調達情報 平成28年度日本語診療能力調査運営支援業務一式
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224221

・調達情報 黄熱ワクチン(溶解液含む) 600本の購入
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224223

△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

      08月22日 10時 以降掲載

○ 報道発表

・食品中の放射性物質の検査結果について(第995報)(東京電力福島原子力発電所事故関連)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224161

・平成28年度 保育所等整備交付金(平成27年度繰越分)の内示について(第11次)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224163

・平成28年度 保育所等整備交付金の内示について(第3次)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224165

・「新水道ビジョン推進のための地域懇談会(第14回)」について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224167

○ 政策分野

・特定行為研修指導者講習会について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224169

○ 審議会等

・第3回がん等における緩和ケアの更なる推進に関する検討会(議事録)(2016年7月27日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224171

・第4回水道事業の維持・向上に関する専門委員会 議事録(2016年7月20日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224173

・第17回肝炎治療戦略会議議事概要
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224175

・平成28年度第1回管理濃度等検討会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224177

・薬事・食品衛生審議会 指定薬物部会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224179

・審議会、研究会等予定
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224181

○ 統計情報

・平成29年人口動態調査で追加作成する統計表の募集について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224183

○ 採用情報

・○採用情報(総合職事務系)の更新
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224185