ふと思って(政治理念としての)自由主義と民主主義についての本を何冊か買った中の一冊です。
古代ギリシアから現代に至る(日本も含めた)民主主義の歴史を概観できるので、知識としての民主主義の歴史に関心があれば読む価値はあるかと思います。
内容的には、著者の先生がトクヴィルの研究をしていたためだと思いますが、トクヴィルの話が比較的詳しい感じです。
とは言え「第四次産業革命」とかいう形容する言葉も見つからないような言葉を臆面もなく使っている本で、当然ながら、現在の情報に関わる技術を活かして、現状の日本が陥っている民主主義と自由主義の形骸化から救う道筋を模索しているわけでも全くないので星3つが良いところだと思います。
個人的には、この本に登場する人物の中ではミルとロールズの主張に共感できました。ミルは「自由な国ほど経済的にも繁栄」としたそうですが、今の日本では(解釈はいろいろあるのかも知れませんが)政治理念としての自由主義が形骸化していることの自覚がまずは必要かと思います。
この本もそうですが、そもそも民主主義を意志決定の手段として考えるから話が難しくなるわけで、持たざる多数者による「利権」や「既得権益」の排除(平等の実現?)の(そして社会を硬直化から救う)手段として民主主義を考えれば、今の民主主義が形骸化しているのは自明ではないかと思います。
この本が最近の出版なのは新型コロナの話が載っているのを見て初めて気がつきましたが、(新型コロナ等の本質的な危機とは言い難いものには言及しているとはいえ)最近の出版とは思えない、歴史を語って満足するような危機意識の低さからすればやっぱり星3つですかね。
というか上を書いた後にベンサムがパノプティコン構想が頓挫した以降に「邪悪な利益」(つまりは「利権」や「既得権益」のことに他ならないわけですが)の排除をテーマにしていたことに気がつきましたが、東大法学部教授が「邪悪な利益」について知らないはずはないのに、この本には言及が一切無いので星1つにしておきます。
キーワードは「参加と責任のシステム」。古代ギリシアの都市国家における民会からヨーロッパ、アメリカにおいて発達してきた議会制民主主義が、市場経済と結びついて欧米諸国をこえて広がっていったという歴史的な流れを追いながら、「変化し、相互に矛盾する多様な民主主義の意味」を解きほぐしていく。
ギリシャの都市国家における民会は現代の民主主義とはかなり性質が違う。
われわれがいま民主主義と呼んでいるものはギリシャ都市国家の民会が原型ではなくそれは近代ヨーロッパでうまれた議会制民主主義だ。もともとは貴族や聖職者など特権階級の者が集まって税などについて王権と交渉を行う場が議会だった。
「集権化する国家とそれに抵抗する社会集団の対決(フランシス・フクヤマ)」の場である。国家と社会の力が均衡し、この交渉が機能する限りにおいて安定と繁栄が実現した。
この均衡は「狭い回廊(アセモグル&ロビンソン)」といわれるのは、そもそもこうした議会をうまく機能させるのは容易なことではないということを意味している。強力な国家(リヴァイアサン)の必要性を説いたトマス・ホッブズ、『統治二論』で社会契約説を説いたジョン・ロックのいたイギリスはいちはやくこの狭い回廊を通り抜けた。
一方フランスは絶対王権が進むなかで貴族たちは土地との結びつきを弱め、そこに官僚が入り込むなど王権に対して社会の側がまとまりきらなかったため、議会が機能せず、三部会(身分制議会)が長く開かれなかった。
そしてじつの170年ぶりに開かれた三部会を契機にフランス革命が起きる。三部会の第三身分(平民。第一身分が聖職者、第二は貴族)が聖職者と貴族が特権にしがみついてまったく議論を進める意思がないとみて自分たちこそが「国民議会」だと宣言する。
「第三身分とは何か、すべてである」と。もともとは国家の財政赤字をなんとかするための会議がここへきて階級とイデオロギーの闘争となり、革命に至る。フランスは「狭い回廊」を抜けられなかった。
トクヴィルはその理由として「平等化の趨勢が適切な政治的枠組みを与えらなかった」ことを挙げる。人間は平等であると自覚した人間は不平等に抗議の声を上げる。これをうまく吸い上げる仕組みがなかった。
しかしそれまでまがいなりにも王権に対峙してきた貴族にかわって中産階級が主導する政治体制は可能なのか。その問題意識をもって彼はアメリカにわたる。
第二次世界大戦以降、民主主義のリーダー、お手本、伝道者的な立場をとるアメリカだが、その礎となる合衆国憲法は黒人を五分の三人とする差別的条項があり、「建国の父」の多くは奴隷を実際に所有していた。
また彼らは貧しい農民による急進的な動きを警戒してこれをけん制する意味でより強力な連邦政府を目指した。
彼らはそもそも市民による直接民主主義ではなく、選ばれた市民による代表制をとりいれた共和政を目指していた。その伝統を組むのが今日の共和党でありより多くの市民の参加による政治を目指すのが今日の民主党である。
実際建国期のアメリカでは「民主主義」と言う言葉は積極的に使われることはなく、「共和制」「共和国」といった言葉が好んで使われた。トクヴィルによる『アメリカのデモクラシー』は連邦政府でも州政府でもなくタウンシップの自治や結社活動に注目して書かれたもの。
トクヴィルのこの本をきっかけに、古代ギリシア以降、否定的に語られてきた民主主義という言葉の用法、意味合いが変わった。
アメリカの独立、フランス革命などを経て立法権をもつ議会とその運営が活発に議論されるようになり、普通選挙や政党制など、議会の普遍性や代表機能を高めるための工夫や仕掛け取り入れられていく。
そのような民主主義の実践、試行錯誤のなかで起きた悲劇ともうべき自体がナチスドイツだ。
「選挙権拡大という民主化への動きが、結果として非民主主義的な事態をもらたした矛盾」そのものである。
マックス・ウェーバーは、「国家とは『特定の領域の内部』で『正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体』と言ったが、ウェーバーも起草に加わった、当時世界でもっとも民主的とされたヴァイマル憲法で大統領に国家緊急権を付与したことから後にそれをナチスに利用されることになる。
ドイツの法学者・哲学者のカール・シュミットによれば「民主主義は議会主義ではなく、むしろ独裁と結びつ得られるべきなのです」。
1942年にシュンペーターが『資本主義・社会主義・民主主義』を出し、そのなかで古典的民主主義を否定し、それに代わるいま一つの民主主義論を展開。彼はすべての人民が一致できるような「公共の利益」を実現するための理念ではなく、人民が代表を選出する仕組みそのものが民主主義であるとした。一方でロバート・ダールは「社会における多元的な集団が、相互に競争しつつ協調を実現することでポリアーキーを達成する」のが民主主義であると主張する。
二十世紀になり、第二次世界大戦後に世界の先進国は「例外的」な平等社会を経験する。それは「総力戦、相続税や累進課税の導入、そして高度経済成長」のたまものだった。ここから「資本家・富裕層と労働者層との間に福祉国家をめぐるコンセンサスが成立し、いわば戦後民主主義の安定期を迎えた」。
吉田徹の『アフターリベラリズム』でも語られていたとおりこの「リベラルコンセンサス」は脆くはかなく、1970年代にはオイルショックもあって早くも岐路に立たされる。
その後サッチャー、レーガンなどののちに新自由主義と呼ばれる政策が実施されると格差が再び拡大し、中間層が没落し、持てるものと持たざるものとの分断が深まっていく。これが今日の民主主義の行き詰まりにつながっている。
ハンナ・アーレントはたとえばヒルビリーエレジーに描かれたラストベルトの白人労働者のように「階級社会からこぼれ落ちていった人々」や、やむをえない理由で母国を棄てた、あるいは母国に捨てられた移民難民など、自分の声はどこにも届いていないと感じる人たちが議会制民主主義を見捨て強力な指導者を求めるようになる。これは、いつか来た道ではないのか。
本書は民主主義とは何か、というギリシャ時代から今日まで続いている民主主義の歴史を追いつつ、その定義の曖昧さ、思想的な不完全さ、制度としての困難さを明らかにしていく。チャーチルが「民主主義は最悪の政治形態だ(ただし、これまで存在したすべての政治形態を除いては)」という言葉で表現したとおりである。
ベストがないなかでのセカンドベストが民主主義なのだ。
こんな古くて性能のよくないものを使い続ける意味があるのだろうかとも思うが、性能がよすぎる統治システムの危険性を歴史から学んだ結果、民主主義という仕組みをうまくメンテナンスしながら使っていこうという機運が世界的に高まったのが第二次世界大戦以降の流れだった。
戦後の経済復興がその追い風となったが、低成長の時代に入る一方で民主主義を選ばなかった国の台頭もあり、改めて民主主義というものが問われている。