『幸福論』で有名な哲学者アランに学び深い影響を受け、織物工場の経営を手伝ったりイギリス軍の
通訳官になったりと酸いも甘いも経験した伝記作家によるアフォリズム集である。
解説の言葉を借りれば、
「テーブルの上に上手に跳びのる猫の思考法」で、「重大な国家的危機を目前にして、国民生活の隙間を
事前に埋めたいと念ずる知性人の血と肉からしぼり出された智慧」を呈示するものである。
穏健で柔軟な
エスプリがふんだんに散りばめられた豪華絢爛で甘辛い菓子のごとき、人生観や恋愛論や帝王学の書である。
「いま目の前にある世界だけではなく、遠くはなれた国々や、古い昔のできごと、さらにはいまだ目に見えぬ未来についての仮定までもが、私の夢想の素材となるのである。いわば私の頭は一つの内部の世界であり、そこに外部の広大な世界が、時空の制約をこえて映しだされるのだ。
宇宙のこの小さな模型を、哲学者たちは
しばしば小宇宙と呼び、それに対し、われわれがその中に生きている巨大な世界、われわれがそれを理解し作り変えることを望む巨大な世界を、大宇宙と呼んだのであった。
…われわれが思考と呼ぶものは、人間がさまざまな表象や映像を組み合わせながら、自分の行為が現実の事物の中でどのような結果を生むかを、見ぬいたり予測したりしようとする、その努力のことである。…人間の思考が正しく導かれ…さだめた目的に向かって航海し、
めざす港にぴたりと到達するということが、できないであろうか?それを考えるのが、われわれの課題である。」
(「世界と思考」より、9〜12頁)
「文や公式の価値を知るのに、それが実際に良い結果を生むか悪い結果をまねくかを待つというのでは、まことに危険きわまりない。ゆえに…こういった表象を…大事をとりながらたくみにあやつるための安全な方法を、賢者といわれる人びとが探し求めたのは自然なことであった。…それがのちに論理学と呼ばれるようになる。…論理は、
新しいものを創りだすことはできない。…そこに何か新しいものを加えようとすれば、体験や直観…によるほかはない。
…『…理性はいよいよ自分の力を確信して、無限の地平が…前に開けていると思いこむ。軽やかな鳩は、空を
切って飛んで行き…、空気の抵抗を受けて…真空の中だったらもっとよく飛べるのに、と思うかもしれない……。』
…論理学は、確かに人間の精神を柔軟にした。精神に、それまでにはなかった敏捷さをもあたえた。だがいっぽうでは、
真実らしい外見を持つ推論を行なえば、それですべてが得られると信じる、危険な習慣をも人びとにあたえたのである。」
(「論理と推論」より、20〜3頁)
「衝撃によってわれわれの関心はあるひとりの人の上にひきつけられるが、その際不在が愛の誕生にとって好都合な働きをする。
…というのは…不在である恋人は、愛の妖精と化して、われわれはそれにあらゆる美点をまとわせる
ことができるからだ。そういった心の動き…は結晶作用と呼(ばれる)。…恋愛とは主観的なものであり、われわれは
現実の人間を愛するのではなく、われわれが創造した人間を愛するのだ…。(ただし)相手が本当に讃美に値する場合
には、このことは当てはまらない。真のダイヤモンドには、結晶作用は生じないのである。…私が思うには、男でも
女でもすぐれた人は、あるときは愛情から、あるときは善意から、思わせ振りという…絶対的な武器を放棄するもの
である。『あなたに私の愛を告白すれば、私はもうあなたの思うがまま…です』といえるなら、それは偉大なこと
だ。相手がそのような信頼に値しないというのであれば、そのときは毒をもって毒を制する仕方…も必要であろう。」
(「愛の誕生」より、61〜6頁、()は引用者による)
「人間は、もともと野心をいだき、傲慢な存在であるから、自分がなぜ他人に指図されなければならないかを、みずからその必要を感じるまでは決して理解しない。
異常な事件に遭遇してはじめて、指揮を取ってくれる人がいなけれ
ば、自分が…餌食になると悟り、自分の生命と安泰を愛するのと同じほど、服従をも愛するようになるのである。」
(ルイ十四世の警句より、152頁)
「指揮をとるものの頭は、簡明であることが必要である。あまりに複雑な考え方や計画には、行動はうまくついていけない。…
長たるものが持つべきは、経験から得て行動によって確かめられた、いくつかのごく簡明な考え方である。そして、このしっ
かりした骨組の中に、ある一定の行動のために必要とされる明確な知識をはめこむことだ。
長たるものの頭は、包容力を持た
ねばならぬ。他人の頭を使うことを心得ていなければならない。…ただし耳を傾ける相手は、確かな情報を持ち、正確な報告
をなしうる幾人かの人間だけでよい。みずから沈黙するのもいいことだが、おしゃべりを黙らせるのも同じくらい有益である。
…指導者は伝統と習慣をつねに念頭におく。指導者の目には、ものは存在しているというだけで、すでに大きな価値を持つ。
彼が未来を建設するために用いる素材のうち、そのもっともがっしりしたいくつかのものは、過去によってさしだされている。彼はそれを仕立て直したり、つくり変えたりはするが、それを押しのけるようなことはしない。
…われわれの行動の結果は、いつもたやすく予測できるとはかぎらない。…賢明な指導者は、昔、魔法使の弟子
が、呪文をつかって魔法のほうきを動かしたのはいいが、それを止めるのに往生したという話を忘れはしない。」
(「指導者の知性」より、174〜7頁)
「指導者は、厳しくしても、部下にしたわれることができる。
いやつねに、甘いいいかげんな指導者よりも、厳しい指導者の方が慕われるとさえいえる。厳しさを押しとおすための最良の方法は、これはしっかりしていると思える人間のみを採用することだ。
自分の人格や精神が非難されているのではないことが明らかであれば、叱責を受けてもらくにたえることができる。
胸の中にあることを、すぐに、そしてはっきりといってしまうのは、賢明なやり方である。
厳しい叱り方でも、すぐその場で叱ってしまった方が、恨みがましい不満な気持ちをいつまでも見せるのより、はるかに相手を傷つけなくてすむ。
…およそ最高の地位につくものは、労働者であれ兵士であれ水夫であれ、現場で働く人間のすべてが、自分の直属の配下から、公正なそして名誉を重んじる態度で処遇されるように、よく監督しなければならない。
…直属の補佐役たちの権威を弱めてはならぬのと同時に、その権威が乱用されるのを許してはならないのである。
…人間万事そうであるが、やはりこの場合も…平衡をとらなければならない。
…人から愛される秘訣は、人を愛することだ。そして自分の仕事をだれよりもよく心得ることである。
人は、うまく指図さえすれば、その指図を受け入れるものだ。指図されるのを望むものだ、とさえいえる。」
(「指揮をする技術」より、182〜4頁)
「可能性を判断する感覚を持つということは、ただ単に、かくかくの行動は不可能だと見てとることができるといった、消極的な能力のみをいうのではない。
それはまた、勇気を持つ人間にとっては、一見きわめて困難と思える行動も、実際には可能になると知っていることをいう。
すぐれた政治家は…『この国はまどろんでいる。私が目を覚まさせてやろう。制度は人間がつくるものだ。
必要とあらば私がそれをつくり変えよう』と考えるのである。…真の政治家は、必要とあらば、公的な演説の中で各党派の主張に対し丁寧な敬意を表することもあらば、神殿を守る人びとに対しては礼拝の文句を唱えてその怒りをやわらげたりもする。」
(「統治する技術」より、188〜9頁)