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子供に面倒を見てもらうということに対する感覚が本当の意味で実感はできないのだが、病院でいつも見る光景がある。
年老いた母親を毎日病院に訪ねあれこれと話をしたり世話したり食事の世話をする子供たちの姿を毎日のように目にする。
子供たちと言っても私と同じぐらいの年代から少し下ぐらいの人たちだ。
たまに見かける10代や20代の人たちは孫の人たちだろう。
そうした子供や孫から食事の世話をしてもらったり(身体が不自由な人たちのリハビリ病院なので)する光景を見るにつけ「こうした看護を受ける身内を持っている人はまだ幸せな方なのだろうな」ということをよく考える。
病気ではないにせよ、多くの年老いた人たちが介護されなければならない現在の日本の社会には何かもっと「大きな明るさ」が必要なのでは?といつも思う。
もちろん、同じ年寄りでも裕福な人たちはそれなりの看護、介護を受けているのだろが、やはり人間とはよくしたものでお金のある人が必ずしも幸福にはならないところが人間社会の条理でもあり不条理でもある。
まあ、幸福か不幸かはその人の感じ方次第なので何とも言えないが、人の一生の価値判断は死ぬ瞬間までわからないと私は思っている(人の一生は「生まれてから死ぬまでがワンセット」なのだから)。
子供がいないという人生の選択をした私と恵子がこれから送る人生は「どこまで二人で向き合っていられるか?」だろう。
今日も、そんな他の家族の光景を見ながら二人で話したのは「一緒に死ねればいいんだけど、そうはならないしね、難しいネ」ということ。
本当にどちらが先に死ぬかわからない。
近松モノのように心中でもしない限り「一緒に死ぬ」ことはできない(心中も本当の意味では一緒に死んでるわけではない)。
問題は「時間の共有」の仕方なのかもしれない。
私は、今回の恵子の病気のおかげでこれまでの人生で最も密度の濃い「時間」を共有させてもらったような気がしている。
恵子にしても一度離れてしまった肉体の一部と脳がどれだけ密接な関係を持てば「身体が復活するのか」を身を持って体験できたわけだし(まだ体験途中なのだが)、私にしても「五体満足」と「五体不満足」がどういう形で時間と生活と心を共有していかなければいけないかを改めて理解できたような気もする。
その意味では「濃い時間」は共有できていると思う。
問題はここから先の人生のことなのだろう。
年老いた母親を毎日病院に訪ねあれこれと話をしたり世話したり食事の世話をする子供たちの姿を毎日のように目にする。
子供たちと言っても私と同じぐらいの年代から少し下ぐらいの人たちだ。
たまに見かける10代や20代の人たちは孫の人たちだろう。
そうした子供や孫から食事の世話をしてもらったり(身体が不自由な人たちのリハビリ病院なので)する光景を見るにつけ「こうした看護を受ける身内を持っている人はまだ幸せな方なのだろうな」ということをよく考える。
病気ではないにせよ、多くの年老いた人たちが介護されなければならない現在の日本の社会には何かもっと「大きな明るさ」が必要なのでは?といつも思う。
もちろん、同じ年寄りでも裕福な人たちはそれなりの看護、介護を受けているのだろが、やはり人間とはよくしたものでお金のある人が必ずしも幸福にはならないところが人間社会の条理でもあり不条理でもある。
まあ、幸福か不幸かはその人の感じ方次第なので何とも言えないが、人の一生の価値判断は死ぬ瞬間までわからないと私は思っている(人の一生は「生まれてから死ぬまでがワンセット」なのだから)。
子供がいないという人生の選択をした私と恵子がこれから送る人生は「どこまで二人で向き合っていられるか?」だろう。
今日も、そんな他の家族の光景を見ながら二人で話したのは「一緒に死ねればいいんだけど、そうはならないしね、難しいネ」ということ。
本当にどちらが先に死ぬかわからない。
近松モノのように心中でもしない限り「一緒に死ぬ」ことはできない(心中も本当の意味では一緒に死んでるわけではない)。
問題は「時間の共有」の仕方なのかもしれない。
私は、今回の恵子の病気のおかげでこれまでの人生で最も密度の濃い「時間」を共有させてもらったような気がしている。
恵子にしても一度離れてしまった肉体の一部と脳がどれだけ密接な関係を持てば「身体が復活するのか」を身を持って体験できたわけだし(まだ体験途中なのだが)、私にしても「五体満足」と「五体不満足」がどういう形で時間と生活と心を共有していかなければいけないかを改めて理解できたような気もする。
その意味では「濃い時間」は共有できていると思う。
問題はここから先の人生のことなのだろう。
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