退院後少しずつ体力を回復してきたのか、恵子は、杖の音や靴音を響かせながら家の中を歩き回るようになってきた(装具をつけた足に部屋履きの靴を履いているので全室フローリングの私の家では足音がよく響く)。
こんな暑い夏には、装具や靴なしに裸足で歩きたいと本当は思っているのだろうが、なかなか装具を手放すのは難しい。
それに、体力とか気力は回復しているとはいっても半身の麻痺が克服されたわけではない。
実際にやれることは限られている。
だから、逆にフラストレーションもたまるのだろう。
最近、彼女は私の練習の邪魔をすることが多くなってきた。
もちろん、この四十年以上の結婚生活の中で彼女が私の練習の邪魔をすることなど全くなかった。
練習も仕事のうちであるという音楽家の日常をよく理解していたので、どんなことがあっても私の練習の邪魔をするようなことはなかったのだが、最近はそうでもない。
まだ練習を始めて1時間もたっていないというのに、「そっち行ってもいい?」とドア越しに聞いてくる。
一人でいることに飽きたのだ。
私は、すぐさま楽器を置き、「なに?何か飲みたいの?抹茶オーレ?ココア?それとも冷たいのにする?何でもあるよ」と喫茶店のウェイターよろしく彼女のオーダーを聞く。
ただ、彼女はコーヒーは嫌いなので、コーヒーは最初からはずす。
もちろん彼女が何かを飲みたくて私のそばに来たのではなく、単に一人で放っておかれるのが耐えられなくなったことはわかっている。
まるで猫みたいだなとも思う。
それでも、彼女のお気に入りの抹茶オーレを作り始める。
抹茶の入った缶から粉を鍋に入れ、ミルクをそそぎ少量の黒砂糖を混ぜて泡立器でカシャカシャとやる。
泡のあまり好きではない彼女のためになるべく泡を作らないように…。
楽器の練習というのは、音楽家にとってそれこそ楽器を始めた時から絶え間なく続けなければならない日課の一つ。
しかし、その時々の生活の変化で練習の仕方も変化し続けている。
留学時代は、一日に10時間以上練習した。
寝る時や食事の時、授業に出ている時以外はすべて練習漬けの生活だ。
それでも、時間が全然足りない気がした。
でも、一方(心の中では)こう考えていたことも確かだった。
「一生のうちでこんなに練習できる時なんて今しかないよナ」。
本気でそう思っていたし、実際問題そうなのだ。
上げ膳据え膳で好きな音楽にばかりのめり込んでいられることがどれだけ「贅沢」なことなのかは人生そのものが教えてくれる(生活とはそんな甘いものではない)。
一日に1時間か2時間練習できればマシという現実の生活と、10時間も練習していた学生時代とどちらが良いか悪いかなんて比較をしても始まらない。
人生はリセットもリターンもできないのだから、その時その時でベストな選択をしていくしかない。
いろんなことをしたくてもできないもどかしさでどうにかなりそうな恵子の気持ちを考えると、自分だけが練習に打ち込んでもいられない。
彼女のリハビリを手伝ったり、食事の世話をしたりしながらも彼女の気持ちとも対話していかなければと思い、何とか練習時間を確保する。
十年以上も前から両親の介護をしている親しい音楽家がいる。
彼がいつも言っていた。
「ウチの親なんか、俺が練習始めると見透かしたように俺の名前を呼ぶんだよ。それこそ、さっきご飯食べたばっかりなのにまたご飯作れって。どう?こんな生活、かなりシビレない?」と笑いながら言う。
彼の話を初めて聞いた時「うわ、よくそんな生活できるナ」と正直思った。
彼は、今でもそんな生活を愚痴一つ言わずに淡々とこなしている。
よくそういう生活に耐えられるねと私が言うと、彼曰く「あんまり深く考えちゃダメ。やれることをやらなきゃいけない時にやるだけ。考えていたら何もできなくなっちゃうよ」。
彼は、サバサバとそう言いながらまた笑う。
そりゃ、まあそうだけど…。
正論には違いない彼のことばの重さにたじろぎながらも、彼と似たような状況になってしまった私は、彼の気持ちがよくわかるような気がする。
きっと、彼にとって(両親が)本当に大事なんだろうナ、と。
年をとって何もできなくなってしまったもどかしさが(息子である)彼をかまうことでいくらか解消される。
そんなことが彼にもよくわかっていたのだろう。
怒ったり苛々したりしながらも、淡々と毎日を暮らしていくことの大事さがよくわかる。
きっとウサギさんも、私の楽器の音を聞きながら声をかけるタイミングを見計らっているに違いない。
ウサギさんだって、本当は私の練習の邪魔はしたくないのだから。
こんな暑い夏には、装具や靴なしに裸足で歩きたいと本当は思っているのだろうが、なかなか装具を手放すのは難しい。
それに、体力とか気力は回復しているとはいっても半身の麻痺が克服されたわけではない。
実際にやれることは限られている。
だから、逆にフラストレーションもたまるのだろう。
最近、彼女は私の練習の邪魔をすることが多くなってきた。
もちろん、この四十年以上の結婚生活の中で彼女が私の練習の邪魔をすることなど全くなかった。
練習も仕事のうちであるという音楽家の日常をよく理解していたので、どんなことがあっても私の練習の邪魔をするようなことはなかったのだが、最近はそうでもない。
まだ練習を始めて1時間もたっていないというのに、「そっち行ってもいい?」とドア越しに聞いてくる。
一人でいることに飽きたのだ。
私は、すぐさま楽器を置き、「なに?何か飲みたいの?抹茶オーレ?ココア?それとも冷たいのにする?何でもあるよ」と喫茶店のウェイターよろしく彼女のオーダーを聞く。
ただ、彼女はコーヒーは嫌いなので、コーヒーは最初からはずす。
もちろん彼女が何かを飲みたくて私のそばに来たのではなく、単に一人で放っておかれるのが耐えられなくなったことはわかっている。
まるで猫みたいだなとも思う。
それでも、彼女のお気に入りの抹茶オーレを作り始める。
抹茶の入った缶から粉を鍋に入れ、ミルクをそそぎ少量の黒砂糖を混ぜて泡立器でカシャカシャとやる。
泡のあまり好きではない彼女のためになるべく泡を作らないように…。
楽器の練習というのは、音楽家にとってそれこそ楽器を始めた時から絶え間なく続けなければならない日課の一つ。
しかし、その時々の生活の変化で練習の仕方も変化し続けている。
留学時代は、一日に10時間以上練習した。
寝る時や食事の時、授業に出ている時以外はすべて練習漬けの生活だ。
それでも、時間が全然足りない気がした。
でも、一方(心の中では)こう考えていたことも確かだった。
「一生のうちでこんなに練習できる時なんて今しかないよナ」。
本気でそう思っていたし、実際問題そうなのだ。
上げ膳据え膳で好きな音楽にばかりのめり込んでいられることがどれだけ「贅沢」なことなのかは人生そのものが教えてくれる(生活とはそんな甘いものではない)。
一日に1時間か2時間練習できればマシという現実の生活と、10時間も練習していた学生時代とどちらが良いか悪いかなんて比較をしても始まらない。
人生はリセットもリターンもできないのだから、その時その時でベストな選択をしていくしかない。
いろんなことをしたくてもできないもどかしさでどうにかなりそうな恵子の気持ちを考えると、自分だけが練習に打ち込んでもいられない。
彼女のリハビリを手伝ったり、食事の世話をしたりしながらも彼女の気持ちとも対話していかなければと思い、何とか練習時間を確保する。
十年以上も前から両親の介護をしている親しい音楽家がいる。
彼がいつも言っていた。
「ウチの親なんか、俺が練習始めると見透かしたように俺の名前を呼ぶんだよ。それこそ、さっきご飯食べたばっかりなのにまたご飯作れって。どう?こんな生活、かなりシビレない?」と笑いながら言う。
彼の話を初めて聞いた時「うわ、よくそんな生活できるナ」と正直思った。
彼は、今でもそんな生活を愚痴一つ言わずに淡々とこなしている。
よくそういう生活に耐えられるねと私が言うと、彼曰く「あんまり深く考えちゃダメ。やれることをやらなきゃいけない時にやるだけ。考えていたら何もできなくなっちゃうよ」。
彼は、サバサバとそう言いながらまた笑う。
そりゃ、まあそうだけど…。
正論には違いない彼のことばの重さにたじろぎながらも、彼と似たような状況になってしまった私は、彼の気持ちがよくわかるような気がする。
きっと、彼にとって(両親が)本当に大事なんだろうナ、と。
年をとって何もできなくなってしまったもどかしさが(息子である)彼をかまうことでいくらか解消される。
そんなことが彼にもよくわかっていたのだろう。
怒ったり苛々したりしながらも、淡々と毎日を暮らしていくことの大事さがよくわかる。
きっとウサギさんも、私の楽器の音を聞きながら声をかけるタイミングを見計らっているに違いない。
ウサギさんだって、本当は私の練習の邪魔はしたくないのだから。
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