
と、理学療法士のIさんの質問に恵子はそう答えた。
今日は連休明け最初のリハビリだったが、作業療法士さんも理学療法士さんも口を揃えて「調子良さそうですね」と言ってくれた。
それでも、「寒いから」と恵子は彼らのことばに多少トンチンカンな受け答えをする。
このチグハグさもひょっとしたら麻痺の一部(?)と思えるほどこの病気はさまざまな症状を身体に及ぼす。
件のIさんの質問も、Iさんが「ふだん絵を描いているのであれば右脳が活発になってリハビリに良い影響を及ぼすかもしれませんね」といったことばを受けて恵子が「でも、描いていると右の方があまりうまく描けないんです」と言った会話の中で出てきたことばだった。
つまり、人や動物を描いていると「どうしても右側がうまく描けないので後から直すことになる」と恵子は言うのだ。
右と言っても、要するにスケッチブック上の右であって、人間の身体や動物の身体の右側のことではない。
恵子の病気は左の大脳内部の視床の血管の出血だ。
血管が破けた結果、脳の「左のその部分」には酸素が送り込まれなくなり、身体の右半分の麻痺が始まったわけだ。
まあ、病気のメカニズムを簡単に説明するとそういうことなのだが、人間の身体の神経細胞のシステムの右左の違いと、人間は左脳で論理的なものを考えたり右脳で芸術的な創造作用を司るといった右左の機能分担とがどこでどう関連しているのかいないのか、わかっているようでいてまだ人間は本当のところはわかっていない。
左脳が計算などの論理的な思考を司る。
きっと人が計算をしている時の脳の部位の電極反応などを見てそう判断したのだろう。
しかしながら、音楽という作業一つとってみても単純に右とか左で片付く問題ではない。
音楽そのものをイメージするのは確かに右脳なのかもしれないが、演奏家が音符を読む作業は明らかに左脳の働きだ。
だって音符は記号なのだから数学の数字や物理の数式と意味合いはまったく一緒だ。
楽器を演奏する人と数式を解く数学者とでは出て来る結果が違うだけで脳の中での作業は明らかに「左脳的な作業」なのだ。
となると、恵子がいつもやっている「絵を描く」という作業はどうなのかという疑問も湧いて来る。
絵を描くことも本当に右脳的作業なのだろうか。
だから、恵子の言う「左側はきちんと描けて右側はちゃんと描けない」。
こんな理屈で納得できる人が一体どれだけいるのだろうか。
恵子が病気を発症してから彼女の身体の右側のあらゆる場所がおかしくなっている。
目も右目だけがすぐに疲れて涙目になってしまう。
せっかくリハビリを順調にやっていてもすぐに「まぶしい」と言って彼女は私にカーテンを閉めさせる。
部屋を暗くするだけで問題が解決するならまだしも、彼女の右目からは涙が溢れ出しもうリハビリを続けることは不可能になってしまう。
暑さ寒さの感覚も右と左では極端に違う。
身体の右半分だけが温度や湿度に異常に反応する。
だから絵を描いていても人の形や大きさなどの正確な計測を右側だけ誤ってしまうのだろう。
でも、一方で「植物や花は大丈夫なの」とも言う。
なぜかというと、植物にも花にも右左の区別が最初からないからだという。
まあ、これも深く突っ込むと絵を描く対象物の人や花の右左よりも描いている主体である彼女の脳神経の中の「右左」の方が異常な結果対象物に異常が生じるということなのだから彼女の言う「花は大丈夫」ということばも額面通り受け取るわけにはいかない。
まあ、それにしても、この脳卒中という病気は厄介な病気でその治癒の過程も治癒の結果も人さまざまだ。
先日も「国民栄誉賞の授賞式」の映像を見ていて私は長嶋茂雄氏の姿にちょっと違和感を覚えた。
彼も9年前に脳梗塞で倒れた患者の一人なのだからその姿に麻痺の後遺症があったとしても何の不思議はないのだが、私が違和感を覚えたのは終始のポケットに突っ込まれていた右手の存在だった。
彼の右手は、おそらく「痙縮」という手が硬直してむくんだ状態なのか、あるいは「拘縮」という完全に固まってしまった状態なのかどちらかなのだろうと推測する。
どちらにしても、健常者のそれとは違うわけでそういう状態の身体をファンに見られたくないという気持ちがきっと彼をして右手をポケットで隠す行為になっていまっているのだろうと思う。
別にそのことに対してとやかく言うつもりはないが、実際にこれまでたくさんの脳卒中体験者の方の話や回復状況を見てきて長嶋氏の現在の状態に多少の違和感を覚えてしまう。
きっと同じ感想を持った人もいたのではないだろうか。
恵子はまだ回復途中でこれから先どこまで回復するかは未知数だが、もちろん最終目標は「健常者並」だ。
あるいは、「え?そんな病気だったの?」と人から言われるような状態を目指してもいる。
そんな状態に回復している例は幾らでもある。
だからこそ、恵子もそこを目指して「頑張ろう」としている。
長嶋さんも発症から9年目。きっとこれまでも今も血の滲むような努力をなさってきたのだろうと思う。
それでも、回復には人によってものすごく差がある。
そしてそのことこそがこの病気のもう一つの特色でもあるのだ。
発症した年齢、発症した部位、そして血管が破けたのか(脳出血)、血管が詰まったのか(脳梗塞)、そして、そのダメージがどれほどの大きさなのかによって本当に回復の度合い、麻痺の度合いが違うことがもう一つの厄介な問題を引き起こしてしまうのだ。
それは、回復の度合いが違うことによる「焦り」。
一年ちょっとでかなり回復した人を横目に自分の状態と比較する時、人は「なんで自分はそうならないのだろう?」と焦る。
そんな感情をなだめすかし、落ち着いて「焦らず、頑張らず、なまけず」リハビリを続けていくことはそれほど容易なことではない。
いつしか恵子の描く絵が少しずつ「左右対称」になっていってくれれば、「花は大丈夫」ではなく、「花も大丈夫」と言えるようになるのだが…。
痙縮>と私たちは呼んでいます。もし、この痙縮を放っておくと手の指などが完全に固まって動かなくなってしまい「拘縮」
今日は連休明け最初のリハビリだったが、作業療法士さんも理学療法士さんも口を揃えて「調子良さそうですね」と言ってくれた。
それでも、「寒いから」と恵子は彼らのことばに多少トンチンカンな受け答えをする。
このチグハグさもひょっとしたら麻痺の一部(?)と思えるほどこの病気はさまざまな症状を身体に及ぼす。
件のIさんの質問も、Iさんが「ふだん絵を描いているのであれば右脳が活発になってリハビリに良い影響を及ぼすかもしれませんね」といったことばを受けて恵子が「でも、描いていると右の方があまりうまく描けないんです」と言った会話の中で出てきたことばだった。
つまり、人や動物を描いていると「どうしても右側がうまく描けないので後から直すことになる」と恵子は言うのだ。
右と言っても、要するにスケッチブック上の右であって、人間の身体や動物の身体の右側のことではない。
恵子の病気は左の大脳内部の視床の血管の出血だ。
血管が破けた結果、脳の「左のその部分」には酸素が送り込まれなくなり、身体の右半分の麻痺が始まったわけだ。
まあ、病気のメカニズムを簡単に説明するとそういうことなのだが、人間の身体の神経細胞のシステムの右左の違いと、人間は左脳で論理的なものを考えたり右脳で芸術的な創造作用を司るといった右左の機能分担とがどこでどう関連しているのかいないのか、わかっているようでいてまだ人間は本当のところはわかっていない。
左脳が計算などの論理的な思考を司る。
きっと人が計算をしている時の脳の部位の電極反応などを見てそう判断したのだろう。
しかしながら、音楽という作業一つとってみても単純に右とか左で片付く問題ではない。
音楽そのものをイメージするのは確かに右脳なのかもしれないが、演奏家が音符を読む作業は明らかに左脳の働きだ。
だって音符は記号なのだから数学の数字や物理の数式と意味合いはまったく一緒だ。
楽器を演奏する人と数式を解く数学者とでは出て来る結果が違うだけで脳の中での作業は明らかに「左脳的な作業」なのだ。
となると、恵子がいつもやっている「絵を描く」という作業はどうなのかという疑問も湧いて来る。
絵を描くことも本当に右脳的作業なのだろうか。
だから、恵子の言う「左側はきちんと描けて右側はちゃんと描けない」。
こんな理屈で納得できる人が一体どれだけいるのだろうか。
恵子が病気を発症してから彼女の身体の右側のあらゆる場所がおかしくなっている。
目も右目だけがすぐに疲れて涙目になってしまう。
せっかくリハビリを順調にやっていてもすぐに「まぶしい」と言って彼女は私にカーテンを閉めさせる。
部屋を暗くするだけで問題が解決するならまだしも、彼女の右目からは涙が溢れ出しもうリハビリを続けることは不可能になってしまう。
暑さ寒さの感覚も右と左では極端に違う。
身体の右半分だけが温度や湿度に異常に反応する。
だから絵を描いていても人の形や大きさなどの正確な計測を右側だけ誤ってしまうのだろう。
でも、一方で「植物や花は大丈夫なの」とも言う。
なぜかというと、植物にも花にも右左の区別が最初からないからだという。
まあ、これも深く突っ込むと絵を描く対象物の人や花の右左よりも描いている主体である彼女の脳神経の中の「右左」の方が異常な結果対象物に異常が生じるということなのだから彼女の言う「花は大丈夫」ということばも額面通り受け取るわけにはいかない。
まあ、それにしても、この脳卒中という病気は厄介な病気でその治癒の過程も治癒の結果も人さまざまだ。
先日も「国民栄誉賞の授賞式」の映像を見ていて私は長嶋茂雄氏の姿にちょっと違和感を覚えた。
彼も9年前に脳梗塞で倒れた患者の一人なのだからその姿に麻痺の後遺症があったとしても何の不思議はないのだが、私が違和感を覚えたのは終始のポケットに突っ込まれていた右手の存在だった。
彼の右手は、おそらく「痙縮」という手が硬直してむくんだ状態なのか、あるいは「拘縮」という完全に固まってしまった状態なのかどちらかなのだろうと推測する。
どちらにしても、健常者のそれとは違うわけでそういう状態の身体をファンに見られたくないという気持ちがきっと彼をして右手をポケットで隠す行為になっていまっているのだろうと思う。
別にそのことに対してとやかく言うつもりはないが、実際にこれまでたくさんの脳卒中体験者の方の話や回復状況を見てきて長嶋氏の現在の状態に多少の違和感を覚えてしまう。
きっと同じ感想を持った人もいたのではないだろうか。
恵子はまだ回復途中でこれから先どこまで回復するかは未知数だが、もちろん最終目標は「健常者並」だ。
あるいは、「え?そんな病気だったの?」と人から言われるような状態を目指してもいる。
そんな状態に回復している例は幾らでもある。
だからこそ、恵子もそこを目指して「頑張ろう」としている。
長嶋さんも発症から9年目。きっとこれまでも今も血の滲むような努力をなさってきたのだろうと思う。
それでも、回復には人によってものすごく差がある。
そしてそのことこそがこの病気のもう一つの特色でもあるのだ。
発症した年齢、発症した部位、そして血管が破けたのか(脳出血)、血管が詰まったのか(脳梗塞)、そして、そのダメージがどれほどの大きさなのかによって本当に回復の度合い、麻痺の度合いが違うことがもう一つの厄介な問題を引き起こしてしまうのだ。
それは、回復の度合いが違うことによる「焦り」。
一年ちょっとでかなり回復した人を横目に自分の状態と比較する時、人は「なんで自分はそうならないのだろう?」と焦る。
そんな感情をなだめすかし、落ち着いて「焦らず、頑張らず、なまけず」リハビリを続けていくことはそれほど容易なことではない。
いつしか恵子の描く絵が少しずつ「左右対称」になっていってくれれば、「花は大丈夫」ではなく、「花も大丈夫」と言えるようになるのだが…。
痙縮>と私たちは呼んでいます。もし、この痙縮を放っておくと手の指などが完全に固まって動かなくなってしまい「拘縮」
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