や絵の素養は私にはないのだが,恵子は以前から短歌雑誌の同人として継続的に短歌を作ったり,自分の短歌集まで自費出版するほどの短歌好き。
もともと学生時代から詩を書いていたのでそのままそれが素直に短歌という「うた」に流れていったのも理解できる。
絵の方も,大学卒業後すぐにイラストの会社に勤めたり,帯の会社で帯の絵付けをしたり(もちろん,花鳥風月の日本画だ),トールペインティングを教えたりとさまざまな形で絵を描き続けてきたのだが,病気をして以来そうした絵や詩作での社会とのつながりを断ち切られてしまっている。
それでも,彼女は何とかそれを取り戻そうと,地元のローカル新聞である伊豆新聞の短歌投稿欄に自作を投稿し始めた。
今日の新聞に彼女の2作が掲載されていた。
つい少し前にも同様に彼女の短歌が掲載されたことがあったが,その時の嬉しさは格別だったのだろう,今回もその喜びを隠そうとはしない。
いつ投稿したのと聞くと,携帯からも投稿できるとの話。
これからも彼女の社会とのつながりがどんどん増えていって欲しい。
「吾が裡(うち)を流れる川の水底に砂金となりし忘れ得ぬ人」
「赤き月伊豆大島のかたえよりゆるゆる昇る雨上がりし夜」
(満富惠子)
もともと学生時代から詩を書いていたのでそのままそれが素直に短歌という「うた」に流れていったのも理解できる。
絵の方も,大学卒業後すぐにイラストの会社に勤めたり,帯の会社で帯の絵付けをしたり(もちろん,花鳥風月の日本画だ),トールペインティングを教えたりとさまざまな形で絵を描き続けてきたのだが,病気をして以来そうした絵や詩作での社会とのつながりを断ち切られてしまっている。
それでも,彼女は何とかそれを取り戻そうと,地元のローカル新聞である伊豆新聞の短歌投稿欄に自作を投稿し始めた。
今日の新聞に彼女の2作が掲載されていた。
つい少し前にも同様に彼女の短歌が掲載されたことがあったが,その時の嬉しさは格別だったのだろう,今回もその喜びを隠そうとはしない。
いつ投稿したのと聞くと,携帯からも投稿できるとの話。
これからも彼女の社会とのつながりがどんどん増えていって欲しい。
「吾が裡(うち)を流れる川の水底に砂金となりし忘れ得ぬ人」
「赤き月伊豆大島のかたえよりゆるゆる昇る雨上がりし夜」
(満富惠子)
「赤き月」は、一度、満冨さんの伊豆のお宅を訪ねたことがあるので、伊豆の海や島々の景色などとともに目に浮かぶようです。また、その同じ月を、「吾が裡を」にある人々も、同じ思いで眺めているでしょう。