誰にも、自分にとっての「ヒーロー」と言えるような人がいると思うが、私にとってのヒーローとはオリヴァー・サックス博士のこと。
そのヒーローが今朝亡くなった。
数ヶ月前からガン治療をしていたというニュースをニューヨークタイムズの記事でも読んでいたし、博士の近況はメルマガでも送られてきていた(もちろん、博士ご本人が書いていたわけではなく、彼を支援するスタッフやサポーターの人たちから定期的に送られてくるニュースレターだ)ので、ショックではあったけど、驚きではなかった。
もうちょっと頑張って欲しかったというのが、正直な気持。
でも,人間いつかは力尽きる時が来るので、82歳で博士自身はご自分の仕事を「やり終えた」感を持って旅立たれたのかナと思う。
サックス博士の存在を初めて知ったのは、映画『レナードの朝』だった。
ロバート・デニーロ主演のこの映画の中で一生懸命治療に取り組む(ロビン・ウィリアムズ演じる)若きインターン、セイヤー医師が彼自身の若き日の姿だ。
彼自身の実体験の映画化だった。
この映画の後日談を、ある時、何かの記事で読んだ。
パーキンソン病のような症状を持つ患者たち数十人をLドーパというクスリで奇跡的に治したはずのこの「奇跡の映画」は、実はそんな単純な奇跡物語ではなかったとサックス博士自身が語っていた。
クスリの効果は絶大だったがゆえに、その反動(つまり副作用)もハンパではなかったらしい。
この Lドーパというクスリは今でもパーキンソン病患者の治療薬として使われている。
しかし、その効果があまりにも強いため、今では他のクスリと併用して使われることが多いそうだ。
つまり、特効薬として最後の最後まで使わない「保険」としてキープされるようなクスリなのだろう。
そして、この記事の最後には、サックス博士が「この映画の中では描かれていないが、私は、音楽の効果をもっとこの病気に試そうと思っていたのです」といった意味のことを言っていた。
つまり、自発動作を行なうことのできない患者たち(意思の「閉じ込められた患者」たちであり、その意味では認知症患者も同じ状態にある)に、その「キッカケ(英語で言えばtrigger=引き金)を与えるものとして音楽が有効ではないのかと博士は考えていたのだ。
しかしながら、そういった場面は映画にはあまり登場してこなかったし、そういうコンセプトの映画でもなかった。
映画製作者たちは、何十年も動きを「封じ込められた」患者たちが突然動き出すというセンセーショナルな「奇跡物語」として描きたかったのだろう。
音楽などという「地味な素材」は、完全に後ろに追いやられてしまっていた。
しかし、その後サックス博士は、数々の音楽療法士やセラピストたちとさまざまな症状の患者たちの治療にあたり、脳の障害で神経作用にダメージを受けた患者たちに音楽の効果を試し、実際のさまざまな治験例をたくさんの著書の中で報告している。
その幾つかを私も読み、「こんなすごい活動をしているお医者さんがこの世の中にいるんダ」と驚愕した。
そして、「私も、せめてサックス博士の何十分の一で良いから、音楽を通じて世の中に役に立つ働きをしてみたい」という気持から始めたのが「ミュージックホープ」というプロジェクトだった。
そんなこんなでいろいろな音楽活動や介護活動を続けていたら、昨年『パーソナルソング』という映画を見つけて狂喜した。
オリジナルの題は『Alive,inside』(つまり、認知症患者でも「私の中身はまだ生きてるヨ!」という意味のタイトルだ)。
アメリカのソーシャルワーカーの男性が、 ipodを認知症患者に聞かせて「奇跡的」とも言える効果をあげていくドキュメンタリー映画。
これを見た途端私は「わお~、私と同じようなことをしている人がいる。しかも、こんなスゴイ映画まで作っちゃったんダ!」と思い、すぐさまこの映画の日本での上映を一日でも早く実現するために調べ、そして、今現実にいろいろな場所でこの映画の自主上映会を行なっている。
私の中のジレンマ。それは、私が音楽を仕事にし始めた40年以上前からずっと感じている疑問でもありジレンマだ。
音楽って、なんで「これが好き、あれが好き」といった「趣味」のレベルで語られなきゃいけないのかナ…?
それって、ものすごく音楽を矮小化してない?
音楽って、そんな程度の存在なの?
クラシックが好きだろうが演歌が好きだろうが、それは人それぞれでかまわない。
でも、それじゃあ、人類が「なぜ音楽を作ったのか」の理由はまったく説明できない(まあ、誰もそんなこと説明しようと思って音楽聞いちゃいないか...)。
だって、クラシック音楽だって演歌だって、まだたかだか数百年の間に人類が作ったものでしょう。
そんな「新参者」に、人類の普遍的な財産である音楽を語る資格があるのかナ?
別にどんな音楽が良いとか悪いとか言う気は毛頭ないし、そもそも音楽ってそんな価値観を「超越」してるからこそ「音楽」なんじゃないのだろうか。
サックス博士は、脳腫瘍の患者さん、パーキンソン病の患者さんなどありとあらゆる病気に犯されて脳神経に異常を持っている人たちを治療し音楽やリズム、身体の動きなどの相関関係を調べていった人。
その結果、「身体の不思議」と「音楽の不思議」が同時に見えてくる。
人間の身体というのは、他人の身体の動きに自然に「同調」しようとしてしまうこと(この性質を利用して人は多くのワークソングや行進曲を作ってきたのだろう)、左脳の言語中枢を犯されことばを失った失語症の人でも「うたを歌う」ことが(当たり前のように)できること(この方法でことばを取り戻した人は世界中にたくさんいるし昔から吃音障害の有効な治療法の一つだ)、などなどたくさんあり過ぎてサックス博士の本を読むことは「エンドレス」のように楽しい。
その中で私がとっても面白いと感じた記述がある。
それは、「絶対音感」を獲得し易い人種とそうでない人種がいるというところ。
中国語、ヴェトナム語などのように、「高さ」の違いで意味を伝える「声調言語」を話す人種の方がそうでない人種よりもはるかに簡単に絶対音感を習得できるということ。
まあ、そうだろうなと納得。
しかも、赤ん坊というのは、人種の区別なくもともと「音の高さ」で意味を判断しているのだが(その意味では絶対音感を持っている)、ことばを覚えるにつれてその能力を失っていくのだという。
これも、また「そうなんだ」と納得してしまう。
ということは、「ことば」も「音楽」もそもそも人間にとって「同じ意味」を持っていたに違いないのだ(と私は思うし、サックス博士もそう考えていたようだ)。
私は、小さい頃から「音楽はコミュニケーション」だと思っていたし、今もそう思って音楽活動をやっている。
私は、別に、クラシックが好きでもジャズが好きでもない。
その時々で自分の感情に合う音楽が必要なだけ、だと私は思っている。
だって、もともと何万年も前からこんなにたくさんの種類の音楽があったわけじゃないでしょう。
音楽は、そこに「必要だからあった」だけの話じゃないのかナ。
そんなことを至極明快に理解させてくれた人がオリヴァー・サックス博士だった。
その人が、今日地球上から姿を消した。
^
そのヒーローが今朝亡くなった。
数ヶ月前からガン治療をしていたというニュースをニューヨークタイムズの記事でも読んでいたし、博士の近況はメルマガでも送られてきていた(もちろん、博士ご本人が書いていたわけではなく、彼を支援するスタッフやサポーターの人たちから定期的に送られてくるニュースレターだ)ので、ショックではあったけど、驚きではなかった。
もうちょっと頑張って欲しかったというのが、正直な気持。
でも,人間いつかは力尽きる時が来るので、82歳で博士自身はご自分の仕事を「やり終えた」感を持って旅立たれたのかナと思う。
サックス博士の存在を初めて知ったのは、映画『レナードの朝』だった。
ロバート・デニーロ主演のこの映画の中で一生懸命治療に取り組む(ロビン・ウィリアムズ演じる)若きインターン、セイヤー医師が彼自身の若き日の姿だ。
彼自身の実体験の映画化だった。
この映画の後日談を、ある時、何かの記事で読んだ。
パーキンソン病のような症状を持つ患者たち数十人をLドーパというクスリで奇跡的に治したはずのこの「奇跡の映画」は、実はそんな単純な奇跡物語ではなかったとサックス博士自身が語っていた。
クスリの効果は絶大だったがゆえに、その反動(つまり副作用)もハンパではなかったらしい。
この Lドーパというクスリは今でもパーキンソン病患者の治療薬として使われている。
しかし、その効果があまりにも強いため、今では他のクスリと併用して使われることが多いそうだ。
つまり、特効薬として最後の最後まで使わない「保険」としてキープされるようなクスリなのだろう。
そして、この記事の最後には、サックス博士が「この映画の中では描かれていないが、私は、音楽の効果をもっとこの病気に試そうと思っていたのです」といった意味のことを言っていた。
つまり、自発動作を行なうことのできない患者たち(意思の「閉じ込められた患者」たちであり、その意味では認知症患者も同じ状態にある)に、その「キッカケ(英語で言えばtrigger=引き金)を与えるものとして音楽が有効ではないのかと博士は考えていたのだ。
しかしながら、そういった場面は映画にはあまり登場してこなかったし、そういうコンセプトの映画でもなかった。
映画製作者たちは、何十年も動きを「封じ込められた」患者たちが突然動き出すというセンセーショナルな「奇跡物語」として描きたかったのだろう。
音楽などという「地味な素材」は、完全に後ろに追いやられてしまっていた。
しかし、その後サックス博士は、数々の音楽療法士やセラピストたちとさまざまな症状の患者たちの治療にあたり、脳の障害で神経作用にダメージを受けた患者たちに音楽の効果を試し、実際のさまざまな治験例をたくさんの著書の中で報告している。
その幾つかを私も読み、「こんなすごい活動をしているお医者さんがこの世の中にいるんダ」と驚愕した。
そして、「私も、せめてサックス博士の何十分の一で良いから、音楽を通じて世の中に役に立つ働きをしてみたい」という気持から始めたのが「ミュージックホープ」というプロジェクトだった。
そんなこんなでいろいろな音楽活動や介護活動を続けていたら、昨年『パーソナルソング』という映画を見つけて狂喜した。
オリジナルの題は『Alive,inside』(つまり、認知症患者でも「私の中身はまだ生きてるヨ!」という意味のタイトルだ)。
アメリカのソーシャルワーカーの男性が、 ipodを認知症患者に聞かせて「奇跡的」とも言える効果をあげていくドキュメンタリー映画。
これを見た途端私は「わお~、私と同じようなことをしている人がいる。しかも、こんなスゴイ映画まで作っちゃったんダ!」と思い、すぐさまこの映画の日本での上映を一日でも早く実現するために調べ、そして、今現実にいろいろな場所でこの映画の自主上映会を行なっている。
私の中のジレンマ。それは、私が音楽を仕事にし始めた40年以上前からずっと感じている疑問でもありジレンマだ。
音楽って、なんで「これが好き、あれが好き」といった「趣味」のレベルで語られなきゃいけないのかナ…?
それって、ものすごく音楽を矮小化してない?
音楽って、そんな程度の存在なの?
クラシックが好きだろうが演歌が好きだろうが、それは人それぞれでかまわない。
でも、それじゃあ、人類が「なぜ音楽を作ったのか」の理由はまったく説明できない(まあ、誰もそんなこと説明しようと思って音楽聞いちゃいないか...)。
だって、クラシック音楽だって演歌だって、まだたかだか数百年の間に人類が作ったものでしょう。
そんな「新参者」に、人類の普遍的な財産である音楽を語る資格があるのかナ?
別にどんな音楽が良いとか悪いとか言う気は毛頭ないし、そもそも音楽ってそんな価値観を「超越」してるからこそ「音楽」なんじゃないのだろうか。
サックス博士は、脳腫瘍の患者さん、パーキンソン病の患者さんなどありとあらゆる病気に犯されて脳神経に異常を持っている人たちを治療し音楽やリズム、身体の動きなどの相関関係を調べていった人。
その結果、「身体の不思議」と「音楽の不思議」が同時に見えてくる。
人間の身体というのは、他人の身体の動きに自然に「同調」しようとしてしまうこと(この性質を利用して人は多くのワークソングや行進曲を作ってきたのだろう)、左脳の言語中枢を犯されことばを失った失語症の人でも「うたを歌う」ことが(当たり前のように)できること(この方法でことばを取り戻した人は世界中にたくさんいるし昔から吃音障害の有効な治療法の一つだ)、などなどたくさんあり過ぎてサックス博士の本を読むことは「エンドレス」のように楽しい。
その中で私がとっても面白いと感じた記述がある。
それは、「絶対音感」を獲得し易い人種とそうでない人種がいるというところ。
中国語、ヴェトナム語などのように、「高さ」の違いで意味を伝える「声調言語」を話す人種の方がそうでない人種よりもはるかに簡単に絶対音感を習得できるということ。
まあ、そうだろうなと納得。
しかも、赤ん坊というのは、人種の区別なくもともと「音の高さ」で意味を判断しているのだが(その意味では絶対音感を持っている)、ことばを覚えるにつれてその能力を失っていくのだという。
これも、また「そうなんだ」と納得してしまう。
ということは、「ことば」も「音楽」もそもそも人間にとって「同じ意味」を持っていたに違いないのだ(と私は思うし、サックス博士もそう考えていたようだ)。
私は、小さい頃から「音楽はコミュニケーション」だと思っていたし、今もそう思って音楽活動をやっている。
私は、別に、クラシックが好きでもジャズが好きでもない。
その時々で自分の感情に合う音楽が必要なだけ、だと私は思っている。
だって、もともと何万年も前からこんなにたくさんの種類の音楽があったわけじゃないでしょう。
音楽は、そこに「必要だからあった」だけの話じゃないのかナ。
そんなことを至極明快に理解させてくれた人がオリヴァー・サックス博士だった。
その人が、今日地球上から姿を消した。
^
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます