伊豆は今,河津桜のシーズンだ。
観光客も大分増えてきている。
ソメイヨシノよりほぼ1ヶ月早咲きの河津桜の旬はこの時期から来月初旬まで。
ふだん利用している伊豆急という電車内の広告にも河津桜情報が満載だ。
この伊豆急という電車ちょっと変わっていて、通常車内で見られるような企業、店舗、メーカーなどの中刷り広告が一切ない。
車内にある広告は,伊豆の観光情報、イベント情報の類いだけ(後は自社広告のみ)。
つまり,電車自体が伊豆の「観光宣伝列車」になっているのだ。
都内の電車でこんなことが起きるのは車両がスポンサーに買い取られた時だけだ(伊豆急ではそれが日常)。
そんな広告を眺めながら「久しぶりに恵子と河津の川沿いに咲く見事な河津桜を見てその先の河津の七滝(ななたる、と発音する)にでも行ってみたいな」と思った。
しかし、次の瞬間「きっと無理だよな」という諦めの気持ちが湧きあがる。
恵子を車でそこまで連れて行くことはそれほど難しいことではない。
が、問題はトイレだ。
多くの身障者や車椅子利用者たちが「旅行」に二の足を踏みがちな理由の多くはここにある。
移動は何とかなっても(まあこれも難しいことは確かだが)一番問題なのはトイレをどうするかということ。
旅行ガイドを見てもどこにどのように障害者向けのトイレが整備されているかまでは書いていない(まあ,それが普通だけど)。
(身障者向けトイレは)あるかもしれないし、ないかもしれない。
ある意味,賭けだ。
トイレのことを考え始めると自然と旅への気持ちは冷めていく。
オリンピック招致騒ぎで、日本は「おもてなしの国!」みたいな言われ方がされ、多くの日本人もそのことに疑いを差し挟まないようだけれども、私は、果たしてそうなのかなといつも思ってしまう。
たしかに、助け合いの心や相手を思いやる心は,どの国の人にも負けないものがあるかもしれないが、それだけで即「おもてなしの国」になってしまっていいのかナという気もする。
時々、恵子と一緒に昔の日本映画を見ていてドキッとすることがある。
「オヤジが中気で寝たきりでさあ…」とか「あいつはもう脳溢血でヨイヨイなんだよ…」とかいうようなセリフが古い日本の映画にはけっこう頻繁に登場する(中気=チュウキというのは脳溢血の昔の言い方)。
そんなセリフが画面の役者の口から飛び出すたびにすぐ横で画面を見ている恵子の表情を盗み見ないわけにはいかない。
今のセリフを聞いて恵子はどう思ったのだろうか…。
昔の映画にはメクラ、ツンボ,ビッコなどといった今は差別用語として使わなくなってしまったことばが当たり前のように出てくるので、その部分はカットされていたり「ピー」で隠したりしているようだが、チュウキとかヨイヨイの類いにまではあまり配慮が行き届かないらしい。
とはいっても私は,このことで日本人のことばに対する意識が低いとかはけっして思わないし,映画の脚本の中の「ことば狩り」をしようとも思わない。
問題は、先ほどのトイレのことでもわかるように日本の社会というのは,かつて「社会の弱者」を日常生活から完全に切り捨ててしまっていたのではないのかと思えることなのだ。
(日本の社会が)バリアフリー、つまりユニバーサルデザインのことを考え始めたのはごくごく最近のことで、しかもそれは都会(の一部)だけで、古い田舎町、観光地などにはその考えはまだまだ及んでいない。
先ほど私が旅の「移動だけなら何とかなる」と言ったのは、移動は私自身が直接関与できるからだ。
だから,「なんとかなる」。
でも、トイレは別だ。
恵子の面倒を見るために私が女子トイレの内までついていくわけにはいかない。
多くの観光地には障害者用の手すり付きトイレはおろか水洗トイレすら整備されていないところも多い。
障害者に和式トイレを使えというのは、ある意味、拷問のようなもの。
だが,ほとんどの健常者はそんなことに頓着しない。
だって,自分には「関係ない」からだ。
かつての日本(しかも、まだたった数十年前の話だ)は,健常者と社会的弱者は最初から同じ立場にはなかったのかもしれない。
老人の姨捨山伝説(本当にあったかどうかは別として)のように、弱者は健常者と一緒に生活してはいけないような雰囲気がどこかにあったのかもしれない。
そんな日本が、そんな簡単に「おもてなしの国」と言われて良いのだろうかと思う。
「おもてなし」を外国に自慢したいんだったらまずトイレを何とかして欲しい。
きれいとか汚いとかいうレベルの話ではなく、自分が片足だけで片手だけで、あるいは身体の自由を奪われた状態でも使えるようなトイレを日本中に配置することができて初めて「おもてなし大国」と言えるんじゃないのかナ。
列車内の河津桜のポスターを見ながらそんなラチもないことを夢想した。
観光客も大分増えてきている。
ソメイヨシノよりほぼ1ヶ月早咲きの河津桜の旬はこの時期から来月初旬まで。
ふだん利用している伊豆急という電車内の広告にも河津桜情報が満載だ。
この伊豆急という電車ちょっと変わっていて、通常車内で見られるような企業、店舗、メーカーなどの中刷り広告が一切ない。
車内にある広告は,伊豆の観光情報、イベント情報の類いだけ(後は自社広告のみ)。
つまり,電車自体が伊豆の「観光宣伝列車」になっているのだ。
都内の電車でこんなことが起きるのは車両がスポンサーに買い取られた時だけだ(伊豆急ではそれが日常)。
そんな広告を眺めながら「久しぶりに恵子と河津の川沿いに咲く見事な河津桜を見てその先の河津の七滝(ななたる、と発音する)にでも行ってみたいな」と思った。
しかし、次の瞬間「きっと無理だよな」という諦めの気持ちが湧きあがる。
恵子を車でそこまで連れて行くことはそれほど難しいことではない。
が、問題はトイレだ。
多くの身障者や車椅子利用者たちが「旅行」に二の足を踏みがちな理由の多くはここにある。
移動は何とかなっても(まあこれも難しいことは確かだが)一番問題なのはトイレをどうするかということ。
旅行ガイドを見てもどこにどのように障害者向けのトイレが整備されているかまでは書いていない(まあ,それが普通だけど)。
(身障者向けトイレは)あるかもしれないし、ないかもしれない。
ある意味,賭けだ。
トイレのことを考え始めると自然と旅への気持ちは冷めていく。
オリンピック招致騒ぎで、日本は「おもてなしの国!」みたいな言われ方がされ、多くの日本人もそのことに疑いを差し挟まないようだけれども、私は、果たしてそうなのかなといつも思ってしまう。
たしかに、助け合いの心や相手を思いやる心は,どの国の人にも負けないものがあるかもしれないが、それだけで即「おもてなしの国」になってしまっていいのかナという気もする。
時々、恵子と一緒に昔の日本映画を見ていてドキッとすることがある。
「オヤジが中気で寝たきりでさあ…」とか「あいつはもう脳溢血でヨイヨイなんだよ…」とかいうようなセリフが古い日本の映画にはけっこう頻繁に登場する(中気=チュウキというのは脳溢血の昔の言い方)。
そんなセリフが画面の役者の口から飛び出すたびにすぐ横で画面を見ている恵子の表情を盗み見ないわけにはいかない。
今のセリフを聞いて恵子はどう思ったのだろうか…。
昔の映画にはメクラ、ツンボ,ビッコなどといった今は差別用語として使わなくなってしまったことばが当たり前のように出てくるので、その部分はカットされていたり「ピー」で隠したりしているようだが、チュウキとかヨイヨイの類いにまではあまり配慮が行き届かないらしい。
とはいっても私は,このことで日本人のことばに対する意識が低いとかはけっして思わないし,映画の脚本の中の「ことば狩り」をしようとも思わない。
問題は、先ほどのトイレのことでもわかるように日本の社会というのは,かつて「社会の弱者」を日常生活から完全に切り捨ててしまっていたのではないのかと思えることなのだ。
(日本の社会が)バリアフリー、つまりユニバーサルデザインのことを考え始めたのはごくごく最近のことで、しかもそれは都会(の一部)だけで、古い田舎町、観光地などにはその考えはまだまだ及んでいない。
先ほど私が旅の「移動だけなら何とかなる」と言ったのは、移動は私自身が直接関与できるからだ。
だから,「なんとかなる」。
でも、トイレは別だ。
恵子の面倒を見るために私が女子トイレの内までついていくわけにはいかない。
多くの観光地には障害者用の手すり付きトイレはおろか水洗トイレすら整備されていないところも多い。
障害者に和式トイレを使えというのは、ある意味、拷問のようなもの。
だが,ほとんどの健常者はそんなことに頓着しない。
だって,自分には「関係ない」からだ。
かつての日本(しかも、まだたった数十年前の話だ)は,健常者と社会的弱者は最初から同じ立場にはなかったのかもしれない。
老人の姨捨山伝説(本当にあったかどうかは別として)のように、弱者は健常者と一緒に生活してはいけないような雰囲気がどこかにあったのかもしれない。
そんな日本が、そんな簡単に「おもてなしの国」と言われて良いのだろうかと思う。
「おもてなし」を外国に自慢したいんだったらまずトイレを何とかして欲しい。
きれいとか汚いとかいうレベルの話ではなく、自分が片足だけで片手だけで、あるいは身体の自由を奪われた状態でも使えるようなトイレを日本中に配置することができて初めて「おもてなし大国」と言えるんじゃないのかナ。
列車内の河津桜のポスターを見ながらそんなラチもないことを夢想した。
また、2020年にはオリンピックが開かれます。オリンピック、パラリンピックなどと分かれて開かれるのもちょっと疑問に感じます(いろいろと面倒なことがあるとは思いますがー)が、せめて、車いすでも何も前調べをしないでも観戦できるようにして欲しいと願うばかりです。ちなみに、パラリンピックのニュースは、金メダルを取ったって、結果を短時間で聞くくらいのものですよね。そのあたりにも差があることは否めないです。少し話がそれましたが、日本はまだまだです。おもてなしは、その辺ができて初めて本当の『おもてなし』ではないでしょうかー。世界各国から障害者が観戦にこられる国になったら、間違いなく賞賛されることでしょう! そうなれば嬉しいですね~。ユニバーサルデザイン、これからの時代、本当に大事です。少し遅きに失した感は否めませんが・・・。