秋の景色も美しい。
春の桜もいいが、紅葉も大好きである。
いつまでも眺めていられる。
ボーッと眺めていると癒される。
そんな写真を6枚アップしました。
よろしければご覧ください。
秋の景色も美しい。
春の桜もいいが、紅葉も大好きである。
いつまでも眺めていられる。
ボーッと眺めていると癒される。
そんな写真を6枚アップしました。
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前回、台風14号の被害状況について書いた。
台風14号の被害状況・・・幸い人的被害は無し。断水と通行止めに困ってます
だいぶ水の量はおさまってきた。
おさまってきたとはいえ、安全確認の必要がある。
学校再開前に、一昨日、通学路の安全点検に行った。
そこで驚く光景を見た。
「ここは川かな?」
と、思わせる場所である。
しかし、実は、
道路である。
左側の山からの水が大量に道路に流れてきている。
深さは5cmほどであるが、怖い。
昨日も点検したところ、ずいぶん水は無くなってきていた。
来週26日の月曜日には、おさまっているだろう。
台風が過ぎて4日間経つので、被害状況も明らかになりつつある。
いつも使っている道路は、結局4箇所破損している。
次の写真のように。
これは、奥椎葉橋。橋も周辺の道路もそんなに古くはないのだけれども、かなり削られている。
このようにして、道路自体が削られて、無くなっているので、復旧にはかなり時間がかかるだろう。
このブログを書いている間も、復旧作業をしてくださっている人がいる。
道路、電気、水道、建物などなど。
有難うございます。
台風14号が宮崎県に近づいている。
本日昼過ぎから明日の朝にかけて、最接近する予報である。
朝のうちは、まだまだ雨も強くなかったので、普段通りに過ごしていたのだが、午前7時前に、停電してしまった。
困った。
洗濯機が使えない。
掃除機も使えない。
ウォシュレットも使えない。
家の中が暗い。
そして、wi-fiが使えない。
冷蔵庫の中のものが傷むのではないかという心配もある。(しばらくは大丈夫だろうけれども)
普段から、いかに電気製品を使っているかを身にしみて感じた。
停電対策として必要だと感じたのは、次の3つ。
○ 湯沸かしの道具(カセットコンロ、やかん)
○ モバイルバッテリー、(+携帯などに繋ぐケーブル)
○ 明かり(ロウソクやLEDランプ)
お湯が沸かせる、加熱調理できるという安心感は大きかった。
また、携帯のバッテリーを心配しなくても済むという安心感も大きい。
この後、夜になったら、明かりも欲しくなるだろう。小さくてもいいから照明は欲しい。
この停電が1日、2日と続いたら、必要だと感じるものがまだ増えるだろう。
そんな事を考えながら、筋トレや読書をして過ごしていたら、なんと!
明かりがついた!
4時間ほどで復旧したことになる。
この雨の中、復旧作業をしてくださった方々にお礼を言いたい。
有難うございます!
とはいえ、雨風が強くなるのは、これからである。
次に起きるかもしれない停電に備えておこう。
とりあえずは、パソコンやタブレットの充電かなあ。
今回は、 5回目。
十次が7歳の時のエピソード・・・この母にして十次あり
十次の母である乃婦子さんは、とても優しい方だったそうです。
近隣の貧しい家庭の子供達に対しても我が子のように面倒を見ていました。そんな母親に育てられた十次の小さい頃に、こんなエピソードがあります。
7歳の頃、天神様のお祭りの日、十次は、新しい着物に、母親が何日もかけて織った紬の帯を締めて出かけました。
境内に行くと、古い浴衣の上に縄の帯を締めた同級生の松(まつ)ちゃんがいじめられています。
「祭りの日に、そんな縄の帯締めてたら、天神様の罰が当たる」と、せめられているのです。
それを見ていた十次は、松ちゃんの縄の帯と自分の新しい帯を取り替えてました。
(この行動力も十次らしいなあと思います。)
家に帰り、帯がない理由を母親に話しました。この時、きっと十次は申し訳ないという気持ちだったと思います。
母親が何日もかけて織ってくれた帯ですから。
しかし、母親は、次のように言いました。
「お前、いいことをしたね」と褒めたのです。
このような母親に育てられたことも、その後「孤児をひきとり、育てる」という福祉の道を進んだ理由ではないかと思えます。
孝経には、親孝行に関して、次の言葉があります。
「身を立て道を行い、名を後世にあげ、もって父母をあらわすは、孝の終わりなり」
(立派な社会人になって、人の手本となり、「あんな立派な子どもを育てた親は素晴らしい。」と親が社会で誉められるようになるのが親孝行の最後の目標である。)
石井十次は、親孝行という点でも素晴らしい生き方をした方だと考えています。
私も、ささやかでよいから、自分にできる範囲で「身を立て」「道を行い」まわりの方に感謝されるような生き方を心がけたいです。
今回は、4回目です。
4 「残った一人一人が石井となって・・・」・・・事業と人を残す
「財を残すは下、事業を残すは中、人を残すを上とす」という言葉があります。
十次は、孤児救済という事業を残し、その志は受け継がれ、今でも石井十次記念友愛社の活動として受け継がれています。素晴らしい事業を残したと思います。
そして、残したもので最も大きなのは「人」ではないでしょうか。
孤児を救済し、教育を施し、社会に羽ばたかせました。十次は亡くなる前に、集まった人たちにこう言い残したそうです。
「残った一人一人が石井となって、後を継いで働いてくれればそれで満足です。」
このような言葉を言えるのは、自分の思想や生き方が、しっかりと後に残る人たちに根付いていると感じていたからではないでしょうか。人材を育ててきたからこそ、言える言葉だと思います。
私もこの世を去るときに、「人を育てた」という手応えを感じたいと願っています。
3 数年間でも大きな仕事はできる・・・「年だから…」と言わない
十次が孤児救済を始めたのが22歳、その6年後の28歳の時には、約300人の孤児を預かっています。
この数年であっても、数百人の孤児の人生を変えたことになります。
そして、十次が亡くなったのは、48歳です。この亡くなるまでの26年間で、約3000人もの孤児を救済しています。
目の前に困っている孤児がいれば、救わずにはいられなかったということでしょう。地震や水害などがある度に、孤児救済の活動をしています。
この十次の生き方を知ると、自分は次の言い訳ができなくなります。
「もう年だから、大したことはできない。」
自分は現在55歳です。日本人男性の平均寿命が85歳くらいなので、その年齢まで生きるとすれば、あと30年あります。
十次からは、次のように言われそうです。
「30年間あれば、いや、たとえ数年間であっても、世のため人のためになる行動は起こせるだろう。がんばれ。」
十次の生き方を知ると、「もう年だから」などと言わずに、自分にできる利他行をしようという気持ちになります。
2 孤児救済のために医学の道を捨てる・・・判断の基準は損得にあらず
石井十次は25歳の時、孤児の救済と教育のために、医学の道を捨てています。
家族や支援者から期待されていた医者になることで、社会的地位や信用を得て、経済的にも豊かになれたことでしょう。
しかし、そういった世間の常識から見た「成功」や「豊かさ」とは真逆の道を選んでいます。
医学の道を捨てる決心をした十次は、それまでの6年間で学んできた大切な医学書を全て焼いて処分します。まわりの人から見たら、理解できない行動だったと思います。
この時の十次の判断を知った時に、私は論語にある次の言葉を思い出しました。
「君子は義に喩(さと)り 小人は利に喩(さと)る」(君子はそれが正しいか、正しくないかで物事を判断するが、小人は利益があるか、 ないかで判断する。)
十次のこの医学への道を捨てたエピソードを知ると、私も損得ではなく、正しいか、人の役に立つかで判断し、行動しようという気持ちになります。
私は、伝記や偉人伝を読む時、自分の考え方や生き方に少しでも反映できないか、生かせないかという視点で読むようにと心がけています。
最近、石井十次に関する伝記をいくつか読みました。
石井十次を知れば知るほど、この方は「愛と無私と行動の人」だったのではないかと感じます。十次の生き方からは、多くを学べますが、今回は、私が学んだことを5つに絞ってまとめました。
1 22歳の若者に「預かってほしい」と言うだろうか・・・
十次が、22才のまだ医学生の頃、子連れの母親から頼まれて、1人の男の子を引き取ります。
この出来事からも、十次が普通の若者ではないことが想像できます。一般的にいって、一学生に対して「うちの子を預かってほしい」と、頼むでしょうか?私が22才の大学生であったら、預かる覚悟もないし、まず頼まれることもないでしょう。
「預かってほしい」と、母親が頼めるような雰囲気が、あったのだと思われます。人というのは、できそうもない人には頼み事をしないものです。「この人なら助けてくれる」というオーラのようなものが、22歳の十次にはすでにあったのだと考えています。
私は55歳になりましたが、今になっても、そんなオーラが身に付いていないと反省させられます。頼まれるような、信頼されるような人格を作っていきたいです。
「2 孤児救済のために医学の道を捨てる・・・
93歳でいまなお現役を貫く人間国宝の陶芸家である井上萬二氏のインタビューも学びが多かった。
言葉の1つ1つに、仕事への向き合い方や生き方について学ぶことがあった。
○ やっぱり仕事をしている時が一番健康的ですよ。
○ 率先して先輩が仕事をしやすい環境を整え、あらゆる雑務を手伝い、その中から観察して技を盗んでいきました。
○ 何事も自分一人で鼻開くことはありません。いろいろな人たちの遠き慮りや心配りがあって、それに応えるだけの努力をしたかどうかによって結果が表れてくるものです。
○ 私は本当に運がよかったと思います。運というのは誰にでもやってくるけど、その運を掴むには、やっぱり努力ですよ。
○ (お坊さんから「努力というのは良くない。女の股の力と書くでしょう。精進と言ってください。」と言われたことに対して、)
「努力が本当だ」と思い至ったんです。(中略)母親のおかげで修業を続けることができたんです。結婚してからも、私は仕事一筋に徹して、子供のおむつ替え一つしたことがない。 全部、家内がやってくれた。俺は女の力のおかげで今日があるんだから、努力と言って間違いない。
○ 働き方改革なんてとんでもない。「これ以上働くな」「努力をしても仕方がない」って意識に陥ったら、日本は経済的にも社会的にもたちまち潰れてしまいますよ。
○ アイデアというのは、仕事をすればするほど、いくらでも浮かんでくるんです。やらないと浮かんできません。
○ これまで500名以上の陶芸家を指導してきました。その中でプロとしてやっていけている人は1割にも満たないくらいですが、器用な人ほどなかなか上達しません。
往往にして器用な人は簡単にできてしまうがゆえに、努力しようという心に乏しいんです。
器用さよりも、人並み以上に一所懸命努力する人が伸びていくんです。
○ 現在の目標はニューヨークで個展を開くこと
○ ただ闇雲に努力するのではなくて、目標を持って努力していくことが肝要だと思います。
○ いつまでも現役で、心は万年少年の気概で、きょうも作陶に魂をこめていくのみです。
どの言葉も実践してきた人ならではの重みがある。
93歳でも「目標はニューヨークで個展を開くこと」という目標が語れるところが素晴らしい。
井上氏は、休日や遠出をした際には、美術館に行ったり、神社仏閣を見たりして学んでいるそうである。
仕事を続け、学び続けていることで、いつまでも若々しいのだろう。
玉那覇康高氏の「半日断食で病気知らず 薬いらず」を読んだ。
玉那覇氏は、沖縄在住の薬剤師。西式健康法に出会い、少食や西式健康法の普及に努めている方である。
この本では、「西式健康法」や「西式甲田療法」のよさを、現代の最新研究の観点から解説しているところが良かった。
例えば、少食や空腹がなぜ良いか
○ 空腹状態のときに、サーチュイン遺伝子(長寿遺伝子)が活性化する
○ 空腹状態のときにオートファジー(細胞の新陳代謝)が促進される
などの良さが明らかになっている。
それらを解説しているところが良かった。
欲を言えば、「ケトン体」にも触れてほしかった。
朝食を抜くときに、よく言われるのが「脳はブドウ糖で動いている。朝食を取らないとブドウ糖が供給されないので、頭が働かない」である。
飢餓状態になると、ブドウ糖ではなく、「ケトン体」がエネルギー源になる。
だから、朝食を取らなくても脳は十分動くのである。
逆に、消化にエネルギーを使わないので、脳はクリアーに働く。
(そもそも朝食をとるようになったのは、江戸時代からである。)
この本を読んで、一番元気をもらったのは、「おわりに」という最後に書いているところである。
著者の気力に満ちあふれている。
これから先、何をしたいかという夢を語っている。
2022年現在で95歳の著者は、次のように書いている。
○ 皆さんが病気になる根本の原因が「薬漬け」、そして「食べ過ぎ」であることに気づけば、状況は変えられます。
○ 本書を各市町村のリーダーに配り、市民・町民・村民の健康に役立ててもらえるよう、働きかけるつもりです。
○ ゆくゆくは、どこか特定の地域にこの健康法を広め、モデルケースとなる「健康村」を作りたい
○ それが広まり、日本中、世界中の皆さんが健康で長生きできるようになることが、私の思い描く未来です。現在95歳の私ですが、いたって真剣に考えています。
いかがだろう。
自分も95歳まで長生きしたとして、玉那覇氏のような夢を語れるだろうか?
実は、著者がこの本で述べている西式健康法の一番の素晴らしさは、この「あとがき」にこそあらわれていると考えている。
このような文を書ける玉那覇氏の体力や気力が、いかに充実しているかが伝わってくる。
西式健康法を実践することで、心身共に健康で過ごすことができる。
95歳という年齢になっても、夢を語れる。という「気力」「体力」ともに充実したお手本を見せてもらえている。
自分も玉那覇氏のように、高齢になっても夢を語れるようなおじいちゃんになりたい。
いや、「玉那覇氏のように俺はなる!」(と、少しワンピースのルフィーのような高揚感も感じさせてくれる本である。)
特集テーマは、「実行するは我にあり」
今月号も学びが多かった。
例えば、児童福祉のパイオニア「石井十次の歩いた道」
執筆者は、曾孫である児島草次郎氏。
石井十次は、明治の変革期に行き場を失った孤児を三千人救済した人である。
徹底した利他の精神で生きた。
驚くのは、若くして亡くなっていることである。
48歳。
初めて孤児を引き取ったのが、十次が22歳のときだから、26年間で三千人の孤児を救済したことになる。
(22歳で孤児救済を始めたというのもすごい。)
十次が亡くなった後も、その遺志は引き継がれているので、十次の存在があったことで、更に多くの孤児は救済されたことになる。
1893年には、孤児の数は300名ほどになったという。
十次は1865年生まれだから、28歳のときである。
22歳から始めた孤児救済が、6年後には、300名もの数になっているということになる。
希望が持てるのは、数年間でも大きな仕事ができるという点である。
自分は50歳半ばであるが、世のため人のためになるような大きな仕事ができそうである。
十次の優しさは母親譲りのようである。
こんなエピソードが紹介されていた。
母はとにかく優しい人でした。隣近所の貧しい家庭を支え子供たちに対して我が子のように面倒を見ていたといいます。そんな母との間に、あるエピソードがあります。
七歳の頃、十次は母が夜なべして織ってくれた新しい帯を巻いて秋祭りに出かけました。神社の境内につくと、ボロの浴衣の上に縄の帯を締めた同級生の松(まつ)ちゃんが皆からいじめられている。十次は勇気を出して割って入り、それから深く考えず、松ちゃんの縄の帯と自分の新しい帯を取り替えてしまうのです。 口先ではなく、まず自分の何かを差し出し実行する母の姿が染みついていたのでしょう。
家に帰り、帯がない理由を恐る恐る母に話すと、「お前、いいことをしたね」と褒められました。
明倫堂での学びと愛情あふれる父母の教育が十次の人格の基盤をつくったのです。
毎日、鍵山秀三郎氏の日めくりカレンダー「良樹細根」で学んでいる。
特に好きなのは、次の言葉
「したたかな人間にならない」
これだけでは、どういう意味かは分からないけれども、説明には、こう書いてある。
「人間はいくつになっても、純粋で優しい心を失ってはいけません。小さなことに対しても傷つきやすい、感受性豊かな人間でありたいものです。」
50歳を超えた今でも、人のちょっとした言動に傷つくことはある。
もっとタフでないといけないのかなあと思うこともあった。
しかし、
「したたかな人間にならない」
「いくつになっても、純粋で優しい心を失ってはいけません。」
「小さなことに対しても傷つきやすい、感受性豊かな人間でありたいものです。」
という言葉に触れると、
「傷ついてもいいんだ」「自分は周りの人が傷つく言動はしないようにしよう」という気持ちになります。
(ただ、年を取るといいのは、傷つくようなことがあっても、次の日にはすぐに忘れられるところですね。)
令和四年度の全国戦没者追悼式が、先日行われた。
追悼の辞というのは、心に響く。
追悼の辞を聴くたびに、特に私達が忘れてはならないことを、遺族代表の方が述べられていた。
それは、追悼の辞の中の次の部分である。
今日のわが国は、世界有数の経済大国となり、平和と自由を享受しておりますが、これは、国の命運を決する戦いに際して、最愛の家族の安寧を願いつつ、懐かしい故郷に思いを馳せながらも、一身を顧みず、精魂込めて戦い、散華された戦没者の犠牲の上に築かれているものであることを私たちは決して忘れてはなりません。
大槻健一さん(83歳)の追悼の辞より。
散華された方々は、家族やふるさと、そしてこの国の未来が少しでも良くなるようにと願っていたはずである。
その方々の願いに応えられるような生き方になっているだろうか。
それを振り返るためにも、知覧の特攻平和会館に足を運んだり、関係者が書かれた本を読んだりするようにしている。
今年は、鹿屋航空基地史料館を訪ねることができた。
ここには、知覧特攻平和会館と同じように、特攻で散華された方々の資料が展示してある。
残された手紙を読むと、背筋が伸びるような気がした。
軍隊では、検閲があったので、どれだけ本音がかけたかは分からないが、「家族や故郷、国を守るために特攻に行く」という気持ちはひしひしと伝わってきた。
鹿屋航空基地史料館で、特に心に残ったのは、美濃部正氏の言動である。
美濃部氏は、特攻ではなく、夜間の攻撃を提言し、実行した方である。
感銘を受けたのは、次の言動である。
○ 「全員特攻をさせる」という作戦方針が決まりそうだった会議で、「特攻の掛け声ばかりでは勝てるとは思えません」と反対した。
これは、命令に逆らったということで、抗命罪で死刑になる可能性がある発言である。しかも、美濃部氏は、その会議では末席の立場だった。
命をかけての発言だったはずである。
○ 隊員を夜間飛行訓練で鍛え、特攻ではなく、夜間の攻撃で戦わせ、戦果を上げることで、上層部を納得させた。
美濃部正氏の考え方や行動を学ぶために、書籍を購入した。
石川真理子著「五月の蛍」
渡辺洋二著「彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団 」
鹿屋航空基地史料館の展示品を色々と見ていると、知りたいことが出てくる。
○ なぜ美濃部氏以外に、特攻以外の戦法を提案する人がいなかったのか?
○ 特攻を命じた上層部の人間で、戦後も生き続けた人は、どのような気持ちで生きていたのだろうか?
(「特攻は志願だったから、自分の命令ではない」というのは詭弁だろう。特攻を命じ、死を選択させた責任がある。)
書籍を読むことで、少しでも答えに近づくといいなあ。
養老孟司氏の「二十代をどう生きるか」では、他人と比べない」「自分の物差しを作れ」と主張されている。
その「他人と比べない」を徹底している養老氏は、面白いことを書いている。
「これは他人に勧めるわけではないが、私は健康診断を不要と考え、一度も受けたことがない。あれはつまるところ平均値と自分との差を測るものだからである。人間の体が他人と異なるのは当然であり、平均と比べることには何の意味もないと私は考える。」
「健康は他人に頼るものではなく、自分で責任を持つものである。そして自分の体がどこでバランスを崩すのかを見極めて置けるのは、まだ体力に余裕のある若い時である。二十代は全ての基礎を作る時である。その大切な時に、自分のしっかりした物差しを作っておくことはとても大切である。」
養老氏は、健康診断を受けないそうである。
(たしか、作家の曽野綾子氏も、「60歳を超えてからは、人間ドックも定期健診も受けていない」と書いたのを読んだことがある。)
私も、実は健康診断は受けたくない。バリウムという異物を体に入れるのがとても嫌なのだ。
血圧の基準値も昔と変わってきており、違和感を感じている。
(私は、上が140、下が85くらい。今では高血圧と言われるが、昔は上の血圧は「年齢+90」が目安だったので、私は昔の目安であれば145までは正常値となる。)
そもそも現代医学(西洋医学)は、急性の病気や怪我への対処には優れているが、慢性病への対処や予防という点では信頼できない点がある。
急性の体調不良になったら、病院のお世話になると思うが、通常はなるべく行きたくない(あ、歯医者は別です。年に1〜2回行くようにしています。歯を保つため)
50歳を超えると、自分の体がどんな時にバランスを崩すのかの見極めは、だいぶできるようになってきた。(と思う)
私の場合、健康に過ごすための毎日の心がけとしては、
○ 空腹の時間を作る。
○ 腹八分目を心がける。
○ 適度に運動する。(体を動かして働く)
○ 笑う 感動する
○ 睡眠を適度にとる
○ 何らかの遊びや学びをする
というところだろうか。
健康に過ごせるありがたさを、日々感じています。
ありがとうございます。
月刊誌「致知」で、毎回楽しみにしている連載がある。
それは、「二十代をどう生きるか」である。
各回の著名人が、二十代をどう生きたか、どう生きるとよいかを書いてくださっている。
今回は、養老孟司氏。
二十代は、「自分の物差しを持てるようになれ」である。
小学2年の時に敗戦を迎えた養老氏は、それまで学校で教わった内容が否定され、教科書も墨で塗らされた。
そんな養老氏は、
「私は言葉というものをあまり信じていないし、生きた人間がいかに信用できないかということを身に沁みて痛感している。」
とのことである。
養老氏は、「自分の物差しを持てるように」なるために、次のようなことを勧めている。
「自分が夢中で打ち込めるものを見つけること」
「学びというものは、五感を通じて行うことが大事である。」
「私が勧めるのは、デフォルトではない脳の働きを育てることであり、その際に有効なのが、一見無意味に思われる作業に黙々と没頭する時間を持つことである。今は死語になったが、こうした営みを昔は”修行”と呼んだ。」
要するに、「夢中になるものを見つけ、没頭せよ」ということだろうか。