仕事の道楽化

 仕事が道楽になることを目指しています。

「口蹄疫」の授業

2010年05月26日 | 人生観
口蹄疫の授業実践が紹介されている。
教師だからこそできる口蹄疫対策であろう。


http://blogs.yahoo.co.jp/hyuuga331/50701839.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hyuuga331/50701865.html


エピソードを語るだけでも子ども達の心に響くはずである。

自分は、この実践の中のエピソードで、公と私の考えをもてるような授業をしたいと考えている。

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本物はシンプル

2010年05月16日 | 授業づくり
 研究主任をしている先生から相談されることがある。

 研究の内容や進め方についてである。「すごい」「面白い」「役に立つ」「子供が変容するだろう」と思わせる研究は、必ずシンプルである。

 複雑で分かりにくい研究はまず役に立たない。

 子供が変わらない。

 職員も楽しくない。

 自分は、今まで研究主任をしてきて心がけたキーワードがある。

 それは、

「簡単・楽しい・効果あり」

である。

 この3つのキーワードに当てはまる実践や研究の考え方は、まず間違いなく現場で受け入れられる。


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攻めのマナー 守りのマナー

2010年05月11日 | 教師修業
攻めのマナー 守りのマナーは、中谷彰宏氏に学んだ。

「守りのマナー」とは、一般的に言われているマナーである。「失礼のないマナー」とも言える。名刺の受け渡し、お辞儀の仕方などである。

 「攻めのマナー」とは、「よく頑張っているな」と思われるマナーのことである。積極的なマナーである。
例えば、来賓を案内するときに、「後方から案内するのではなく、先導してテキパキ動く」ということである。帰る際には、「鞄を持つのではなく、先にタクシーを拾う」ということである。

周りの人が助かるように動くのが「攻めのマナー」といえる。

 マナーというと、どうしても「守りのマナー」をイメージしていた。しかし、「攻めのマナー」を考えると、もっと周りの人が助かるような動きができそうな気がする。

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暗唱は子供の心に宝物を埋める活動

2010年05月05日 | 国語
 子供の寝顔を見ると、つい次の歌が浮かぶ。
「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」
 山上憶良の「子供というものが、金銀財宝の何物にも代え難い最高の宝である」という歌である。洋の東西や歴史を超えた真理であろう。

自分はこの歌に、小学6年生の時に出会った。その時は、「子供ってそんなに大切なのかなあ」というくらいの感想だった。

 しかし、実際に子供ができると、山上憶良の気持ちが痛いほど良く分かる。実体験を通してみないと分からないことはたくさんあるのだと感じている。

 ただ、小学校6年生で出会っていたからこそ、この歌を思い出せたのである。今から1300年も前の人と同じ気持ちを味わえたのである。小学生の時は分からないことであっても、その時に出会えていて良かった。大人になって「こういうことだったのか」という理解が深まる体験はとても楽しい。子供の頃に覚えた詩文は、大人になってから思い出すことで、人生をより豊にしてくれている。


もう1つ、これは、高校生の頃に覚えた漢詩である。
 この前、飲み会の後に歩いて帰った。その夜は満月がとても美しかった。
ふと高校の頃に覚えた詩を口にしていた。



月明かりの下で、思わず口に出して読んでいた。とても静かな時間を体験できた。
 高校生の頃に覚えた詩で、意味はあまり分からなかったのだが、大人になった今、この詩の意味がずいぶん分かるような気がする。(60才くらいになってからだともっと良く分かるかもしれませんが)

子供のうちにたくさんの詩文を覚えることは、心の中に宝物を埋める活動でもあると思う。人生の途上で時々思い出し、人生を豊にしてくれる。

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「徳」に関しては子供に学ぶ機会はある

2010年05月04日 | 修養
 知・徳・体のうち、「知」と「体」は、教師の方が優れていることが圧倒的に多い。しかし、「徳」については、別である。子供であっても、尊敬できる「徳」の持ち主がいる。

 例えば、毎朝早く学校に来て、10~15分のボランティア活動をする子がいる。その子がいるおかげで、校門周辺はいつも落ち葉が無く綺麗である。

掃除の時間に一生懸命掃除をしている子もいる。自分だけでなく、下級生も上手に掃除ができるように教えている。

 体調が少々悪くても、顔に出さずニコニコしている子がいる。

 こんなこともあった。私がある子を叱ったときである。集合時刻に遅れたためであった。叱っていると、A君が、「僕がトイレに誘ったから遅れたんです。僕が悪いんです。」と正直に言いに来た。このように友達が教師から叱られて、その原因が実は自分にあるという時、それを正直に言える子もいる。

 昨日書いたことと逆になるかもしれないが、「徳」に関しては、子供から学ぶことはある。

「知」と「体」に関しては、子供から教わってばかりいる教師では困る。しかし、「徳」に関しては、子供に学ぶこと結構ある。尊敬できる子どもを見ることはたくさんある。


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安易に「子供に教えられました」と言うな

2010年05月03日 | 授業づくり
 「子供に教えられました。」という人がいる。そういう時もあるだろう。例えば、国語の時間に、教師の解釈を超えた深い読み取りを子供がする授業も時にはあるかもしれない。しかし、滅多にない。あるべきではない。

 教師が「子供に教えられました。」というのは、正しくは、「子供の(反応に)教えられました。」であると考えている。
 教師の想定外の反応をする場合はある。その反応に教えられることは多い。自分が想定していた反応とは違う反応をしてきたため、授業の流れを変えることもある。子供の反応に学びながら授業は創っていく。

 これは、野口芳宏先生の言う授業づくりの論理である「計画の論理」と「状況の論理」のうち、「状況の論理」の考えである。


 「計画の論理」で授業を計画し、「状況の論理」で、子供の反応を見ながら授業を軌道修正するのは大切である。

 しかし、教材の解釈自体をしょっちゅう子供に教えられるようでは、教師としてはいかがなものかと思う。それは、教材研究の力量が子供に負けているということになる。

 そのような意味で「子供に教えられました。」という言葉を教師が吐くと、もらっている給料は、何の対価としてのお金なのか?という疑問を持ってしまう。謙虚なのではない。教材研究不足なのである。甘いのである。

 「子供の(反応に)教えられました。」ではなく、「子供に教えられました」と言う意味でこの言葉をつかう人ががずっと前であるが職場にいた。しかも、年配の教師である。

 「お前、給料返せよ。」と言いたくなった。・・・言えませんけど。

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