「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・07・05

2005-07-05 05:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「明治時代まで、人は自分が今日あるのは、まずご先祖のおかげ、ついで父母のおかげ、さらには勤めさきのご主人のおかげ、と思っていた。そのうえ神仏の加護があって、こうして息災でいられるのだと感謝していた。
 いまはそれを笑う。または怒る。自分が今日あるのは会社のおかげだから、感謝せよといわれたら、怒らぬものはないだろう。はじめ男が怒って、ついで女が怒るようになったから、女たちの人相は険悪になって、口はとがって鼻をしのぐようになった。美容上の問題だと私は注意を喚起したのである。
 けれども、人が以前あんなに感じたことを、今はまったく感じないということは、どういうことなのだろう。以前は何ものかにだまされて感謝したというのだろうか。それなら今も、別の何ものかにだまされて怒っているのではないのだろうか。すくなくとも、そう疑っていいのに、だれも疑わないのは、以前だれも疑わなかったことと同じではないのか。
 今回、私が言いたいのは修身のことである。修身は戦後教えることを禁じられ、父兄が欲してついに得られなかった課目である。国民がそれを欲するなら、それは与えられなければならない課目だと私は思うものである。
 世界広しといえども、修身を教えない国はないソ連にはソ連の、アメリカにはアメリカの修身があって、子供たちはそれによってきびしくしつけられているところが、ひとりわが国にそれがないわが国民がそれを欲すると、新聞はいっせいに反対して、その言論を封じた
 けれども、いま松下幸之助氏が世間の尊敬を一身に集めているのは、彼が修身そのものだからである。松下氏を持ちあげたのはマスコミで、さながら非の打ちどころのない経営者のように祭りあげて、たいていならもう引きずりおろすころなのに、まだおろさない。」

 「松下氏は一代であれだけの産をなした。どんな企業もいいことばかりして、あんなに大きくはなれない。悪いこともしたに違いないと試みに私がいうと、新聞雑誌はいやな顔をする。それでもいうと、証拠を示せという。ちっぽけな企業の経営だって、いいことずくめでは出来ないいわんや大企業をや、証拠なんていらないというと、彼らは笑ってとりあわない。
 松下氏は修身の権化である。マスコミも国民も、この人を悪者にしたくないのである。山本周五郎氏も同じく権化である。小説家のくせに全き善人にされている。吉川英治氏も似たものである。
 全き善人と芸術家とは、ふつう両立しない。どちらかがにせものだろうと思っても、それを言うものがない。言えば『村八分』にされる。私たちが松下、山本、吉川氏たちを、崇拝してやまないのは、私たちが修身を与えられていないからである。
 いかにもインテリたちのいう通り、修身は多くうそであろう。」

 「この世はどれだけうそを欲するかと、何度も私が書くのは、それが私によく分らないからである。ただ修身のなかなるうそは、この世が欲するうその一つだと私はみている。」


   (山本夏彦著「かいつまんで言う」中公文庫 所収)
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