今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「明治時代まで、人は自分が今日あるのは、まずご先祖のおかげ、ついで父母のおかげ、さらには勤めさきのご主人のおかげ、と思っていた。そのうえ神仏の加護があって、こうして息災でいられるのだと感謝していた。
いまはそれを笑う。または怒る。自分が今日あるのは会社のおかげだから、感謝せよといわれたら、怒らぬものはないだろう。はじめ男が怒って、ついで女が怒るようになったから、女たちの人相は険悪になって、口はとがって鼻をしのぐようになった。美容上の問題だと私は注意を喚起したのである。
けれども、人が以前あんなに感じたことを、今はまったく感じないということは、どういうことなのだろう。以前は何ものかにだまされて感謝したというのだろうか。それなら今も、別の何ものかにだまされて怒っているのではないのだろうか。すくなくとも、そう疑っていいのに、だれも疑わないのは、以前だれも疑わなかったことと同じではないのか。
今回、私が言いたいのは修身のことである。修身は戦後教えることを禁じられ、父兄が欲してついに得られなかった課目である。国民がそれを欲するなら、それは与えられなければならない課目だと私は思うものである。
世界広しといえども、修身を教えない国はない。ソ連にはソ連の、アメリカにはアメリカの修身があって、子供たちはそれによってきびしくしつけられている。ところが、ひとりわが国にそれがない。わが国民がそれを欲すると、新聞はいっせいに反対して、その言論を封じた。
けれども、いま松下幸之助氏が世間の尊敬を一身に集めているのは、彼が修身そのものだからである。松下氏を持ちあげたのはマスコミで、さながら非の打ちどころのない経営者のように祭りあげて、たいていならもう引きずりおろすころなのに、まだおろさない。」
「松下氏は一代であれだけの産をなした。どんな企業もいいことばかりして、あんなに大きくはなれない。悪いこともしたに違いないと試みに私がいうと、新聞雑誌はいやな顔をする。それでもいうと、証拠を示せという。ちっぽけな企業の経営だって、いいことずくめでは出来ない。いわんや大企業をや、証拠なんていらないというと、彼らは笑ってとりあわない。
松下氏は修身の権化である。マスコミも国民も、この人を悪者にしたくないのである。山本周五郎氏も同じく権化である。小説家のくせに全き善人にされている。吉川英治氏も似たものである。
全き善人と芸術家とは、ふつう両立しない。どちらかがにせものだろうと思っても、それを言うものがない。言えば『村八分』にされる。私たちが松下、山本、吉川氏たちを、崇拝してやまないのは、私たちが修身を与えられていないからである。
いかにもインテリたちのいう通り、修身は多くうそであろう。」
「この世はどれだけうそを欲するかと、何度も私が書くのは、それが私によく分らないからである。ただ修身のなかなるうそは、この世が欲するうその一つだと私はみている。」
(山本夏彦著「かいつまんで言う」中公文庫 所収)
「明治時代まで、人は自分が今日あるのは、まずご先祖のおかげ、ついで父母のおかげ、さらには勤めさきのご主人のおかげ、と思っていた。そのうえ神仏の加護があって、こうして息災でいられるのだと感謝していた。
いまはそれを笑う。または怒る。自分が今日あるのは会社のおかげだから、感謝せよといわれたら、怒らぬものはないだろう。はじめ男が怒って、ついで女が怒るようになったから、女たちの人相は険悪になって、口はとがって鼻をしのぐようになった。美容上の問題だと私は注意を喚起したのである。
けれども、人が以前あんなに感じたことを、今はまったく感じないということは、どういうことなのだろう。以前は何ものかにだまされて感謝したというのだろうか。それなら今も、別の何ものかにだまされて怒っているのではないのだろうか。すくなくとも、そう疑っていいのに、だれも疑わないのは、以前だれも疑わなかったことと同じではないのか。
今回、私が言いたいのは修身のことである。修身は戦後教えることを禁じられ、父兄が欲してついに得られなかった課目である。国民がそれを欲するなら、それは与えられなければならない課目だと私は思うものである。
世界広しといえども、修身を教えない国はない。ソ連にはソ連の、アメリカにはアメリカの修身があって、子供たちはそれによってきびしくしつけられている。ところが、ひとりわが国にそれがない。わが国民がそれを欲すると、新聞はいっせいに反対して、その言論を封じた。
けれども、いま松下幸之助氏が世間の尊敬を一身に集めているのは、彼が修身そのものだからである。松下氏を持ちあげたのはマスコミで、さながら非の打ちどころのない経営者のように祭りあげて、たいていならもう引きずりおろすころなのに、まだおろさない。」
「松下氏は一代であれだけの産をなした。どんな企業もいいことばかりして、あんなに大きくはなれない。悪いこともしたに違いないと試みに私がいうと、新聞雑誌はいやな顔をする。それでもいうと、証拠を示せという。ちっぽけな企業の経営だって、いいことずくめでは出来ない。いわんや大企業をや、証拠なんていらないというと、彼らは笑ってとりあわない。
松下氏は修身の権化である。マスコミも国民も、この人を悪者にしたくないのである。山本周五郎氏も同じく権化である。小説家のくせに全き善人にされている。吉川英治氏も似たものである。
全き善人と芸術家とは、ふつう両立しない。どちらかがにせものだろうと思っても、それを言うものがない。言えば『村八分』にされる。私たちが松下、山本、吉川氏たちを、崇拝してやまないのは、私たちが修身を与えられていないからである。
いかにもインテリたちのいう通り、修身は多くうそであろう。」
「この世はどれだけうそを欲するかと、何度も私が書くのは、それが私によく分らないからである。ただ修身のなかなるうそは、この世が欲するうその一つだと私はみている。」
(山本夏彦著「かいつまんで言う」中公文庫 所収)