「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・07・29

2005-07-29 05:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「旅行けば女ばかりのジャパンかな――と『文藝春秋』はグラビヤで特集したことがある。どこへ行っても女たちに出あって、男たちに出あうことの少ないのを揶揄したのである。
 以前は私も旅をしたが、今はしない。ことに海外へは行かない。行かなくても年中行っている知人がいて、海外の話をしてくれる。それ以上のことは半月やひと月行ったところでわからないから行かない。」

 「海外へ行った男女は私たちの周囲にいくらでもいるが、旅したことによって何ものかを得た人は少ない。
 そもそも、犬は遠くへ行かない。犬をくさりでつないで何日も放さないでおくと、悲鳴をあげて放されることを望む。放してくれたらどこへでも行かれると犬は思っているだろうと察して放してやると、犬は狂喜してしばらくかけずり回るが、それは二日と続かない。以後くさりでつながなければ、それは自然であり当りまえだから、犬は毎日有難がりはしない。のそのそと、または一目散に犬は出たりはいったりする。犬が出かける範囲はきまっていて、それを越えない。
 その範囲は二キロか三キロを出ないのではないか。犬がそうなら同じ哺乳類である人もまたそうである。用もないのに人は遠くへ行かない。パリの住人でエッフェル塔へのぼったことのないひとはいくらでもいる。いつでものぼれると思ってその機会を得ないのである。べつにのぼる必要を認めないのである。それは東京の住人で霞が関ビルを知らないのがあるがごとしである。」

 「その土地の人はその土地のことを知らない。知っているのは一キロか二キロまでの町内のことである。それ以上のことは本当は知らなくてもいいことだと実は私は心得ている。アメリカの新聞がもっぱら町内のことを書いて、天下国家のことを書かないのは理由のあることなのである。私は日本の新聞もそうあるのが本当だと思っている。わが国の地方新聞が、アメリカの大統領選をわがことのように報ずるのは間違っている。あんなものだれも読みはしない。読まないほうが健康で、熱心に読むものがあったら病気だと思っている。」

 「この気違いじみた旅行熱はいずれさめるだろう。何の知識もなく学問もないものが、いくら旅しても得るところがないことは、若年のころ私は旅して承知している。くさりをとかれた犬のように、いくらかの金をにぎってかけ回ってみるが、そのうちかけ回らなくなるだろう。」

   (山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)
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