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今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「弱年のころから私は日本語を日本語に翻訳している。銀行を金貸、証券会社を株屋、不動産業者を千三つ屋と
訳すばかりか口に出して言ったから顰蹙されたが、このごろはこれらが正体をあらわしたので晴れて言えるようになった。
新日鉄社長のち経団連会長稲山嘉寛(明治37年生)は銀座の稲山銀行のあととりで、この銀行は質屋あがりで嘉寛が帝大生
のころつぶれた。友のひとりに『よかったな金貸の息子でなくなって』と言われたから昭和初年銀行はまだ金貸だと思われ
ていたことが分る。
戦前は角丸証券岡三証券などと名乗ってもすぐ株屋だと分った。株屋は一夜にして大尽にもなるが乞食にもなる。素人が
手を出してはならぬとかたく禁じられていたから堅気は出さなかった。戦後証券会社と名を改めてまんまと成功した。この
ごろ相次ぐ不祥事で化けの皮がはがれたのはめでたいが、あれは欲で、欲ばりがいるかぎり株屋の餌食はなくならない。
千三つ屋は千に三つまとまればいい商売だったから千三つ屋と呼んだのである。客をあざむくこと多い商売だから、これ
また堅気ではなかった。
戦前貸家札は町内を一巡すればいたるところに貼ってあった。半紙に書いた札は雨戸に斜めに貼ってあったからよりどり
見どりで、直接大家にかけあえばよかった。不動産屋が介入する余地はなかった。貸家がそうなら貸間はさらにそうである。
敷金は三つとったが引越すときはむろん全額返した。家主は店子が末ながく住んでくれることを願って、年末には畳がえを
してくれた。一両年たつと裏返しをしてくれた。
昭和十年代まで引越道楽ができるほど貸家はあったのである。広津和郎の父君広津柳浪はその引越道楽だったそうで、
昼でも雨戸をたてランプをつけて執筆したという。天才だと畏れられていたが自然主義の時代が来て、やがて去って何も
書けなくなっても、和郎はなお柳浪を尊敬してやまなかった。
貸家は多く定年退職者が建てた。なが年官公吏を勤めると退職金または恩給が出た。それで貸家の何軒かをたてて老後を
養ったから、住宅問題はなかったのである。べつに貸家を五十戸百戸持って衣食する貸家業者もいた。あわせて貸家は山ほど
あったから、持家を建てる発想は生じなかった。土地を買う発想はさらに生じなかった。昭和初年の不景気の時は『前家賃』
だけで貸すようになった。
戦後それはまる焼けになって一変した。政府は社会主義にかぶれて貸し手は持てるもの借り手は貧しい者と見なしてすべて
借り手に有利に、貸し手に不利にしたから貸家を建てる習慣はなくなった。
いっぽう法は破るためにある。貸し手は敷金をとった上に礼金(とは何だ)をとって、二年ごとに更新料をとって引越す
ときはよごし賃までとった。畳がえしてくれた戦前は全く忘れられた。いま貸し手と借り手の立場が逆転しつつある。失地
回復とまではいくまいが五分と五分にこぎつける好機である。」
(山本夏彦著「死ぬの大好き」新潮社刊 所収)
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