「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

写真信仰は現代の奇病 2014・03・18

2014-03-18 06:25:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

写真信仰は現代の奇病で、現代人はこの病気にかかってほぼ百年になる。それが近ごろ揺らいできたというのは、私にその兆(きざし)が見えるだけで本当かどうかは分らない。
 写真のことなら私はその発祥から流行までを知っている。嘉永安政のころから新しもの好きな邦人は写真にとられている。維新の直前にわが国に来た西洋人はずい分写真をとっている。坂本龍馬の写真だって一枚だが残っている。残っていないのは西郷隆盛くらいである。遣米、遣欧使節の写真も残っている。当時の丁髷(ちょんまげ)の月代(さかやき)がいかに狭かったかを見ることができる。
 『日本その日その日』を書いたモースは明治十年代の風物の実物を伝えているモースは大森の貝塚を発見した人で、欧化する直前の日本を愛して、欧化してからの日本を嫌悪して、それまで断続して来日していたのをやめて、ふっつり来なくなった
 私は何年か前モースコレクションを見たそこには山形屋の海苔の缶があった、油じみた梳櫛(すきぐし)があった、足袋屋の看板があった、ついでに穿き古した足袋の実物があった。モースは紺足袋が底まで紺であることを示すために片っぽを裏返して見せた。裏まで紺である紺足袋は今はないが、当時はあったことがわかる。むろん裏は白い足袋もあって、その裏に昨日ついたばかりにような何条かのよごれがついていて、見るものをしてしばらく立ち去りがたくした。
 私が注目したのは足袋屋の看板で、それは板を大きな足袋の形にくりぬいたもので、軒にぶらさげたのだろう。なぜこんなものまで売りに出したのだろう、それを買う人があったのだろう。維新で山の手の武士は禄(ろく)を失ってちりちりばらばらになった江戸の人口(百万人前後)は半減した下町は山の手で食べていたのだから当然商(あきな)いはなくなって廃業、夜逃げするものが多かった古道具屋がそれを捨て値で買ったのをモースはまるごと買って、あとで私たちに見せてくれたのである
 私はモースの人がらをしのんだ。なかにカラー写真があった人工着色(人着)といって当時の人が着色したものだから色は鮮かで正確である
 写真と写真術の普及ぶりはご存じの通りである。写真はしばらく写真館の独占するところだったが、昭和十年前後から素人写真時代になって今に及んでいる。
 写真信仰はこのころからまず警察に生じた。警察は私の弁解を信じない、逃れぬ証拠は写真だというようになった。弱年の私は人を『つかまえる人とつかまる人』に分けた当然私はつかまる人で、よくまあ今日(こんにち)までつかまらないで無事で来られたと思う
 戦前の質屋にはお尋ね者の写真が貼ってあって、めでたく逮捕されるとバツじるしがつけられること今と同じだった。よくあんな写真一枚でつかまるなあ、世には『てっきり』と思う人がいて、てっきりあいつだと訴えて逮捕に至る、してみれば似ても似つかぬ情報がその何十倍何百倍寄せられたことだろう。
 職掌がら警官は一枚々々はねのけてついに一枚にたどりつくのだが、それなら私もその一枚にまじっていたにちがいない。よく警官が訊問に来なかったと感心するのである。
 警察に次ぐ写真信仰の極は医師であることに大病院は患者とロクに口をきかない専門医をたらい回しにしてとるのは写真だけ聴診も打診もお座なりで『はいお次』と十数枚の写真をとって何を見ているかというとガンである、心臓その他であるすべてカメラのなかなる臓器で、最後はそれを集めた主治医が総合して診断をくだすそこには写される人はいても患者はいない
 たとえば私は食欲がない、なん年来眠れない、足がよろめくとする。それらが写真にうつるか。ホームドクターなら何十年来の馴染みである、この顔色はただごとでないと分るところが永遠に初対面である大病院の医師には分らない。
 それはさておき今度は政治向きの話である。私は政治音痴で最も不向きな話で、いつも同じ例をあげるが社会主義と資本主義である。私有財産は盗みだとプルードンは言ったが名言であるその財産を奪うのは正義であり、善である
 奪ったものを貧しいものに公平に分配するのは善であるそのためにはあざむくのも殺すのも善であるから正義は最も悪しきものなのである、キャンペーンならみんな眉ツバなのである
 北朝鮮と韓国を見玉え。北朝鮮は韓国に向けて何本もトンネルを掘った。スワといえば攻めこめるトンネルで三十八度線下を毎日掘られて気がつかないとは迂闊(うかつ)である。韓国はくやしがって写真をとって世界中にばらまいたが、北朝鮮は平気である。南が自分で掘って北が掘ったと言いふらしているのだと言って、世界は北の言いぶんを信じる派と南を信じる派に分れていまだに分れている。
 南京虐殺の写真も信じる人と信じない人に分れる。石井細菌部隊の人体実験をしている写真だと信じる派の新聞は大々的に報じたがこれはまっかな嘘だと分った。森村誠一がだまされた委曲を書いたからである。
 写真館の写真にせよ素人写真にせよ、写真はすべて『やらせ』である。『はい、レンズを見て、すこし斜めになって、にっこりなさって』と写真館はことに見合写真には注文をつける。アマチュアだって同じことである。もういい加減で写真信仰は揺らいでもいいのにこれまた揺らぐ派と揺らがぬ派に分れるのである
                                        〔『文藝春秋』平成十一年二月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

 
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