今日の「お気に入り」は、結城昌治(ゆうき・しょうじ)さん(1927-1996)の「死もまた愉し」から。
「よく、何のために生きるかといわれますが、私は、何のためもヘチマもないと思っています。
人間、だれでも親を選ぶことができません。いやおうなしに生まれてくるわけです。この世に
顔を出したからといって、とたんに、目的が生まれるわけもないんです。目的なんぞもつ必要
はないんですよ。なまじ変な目的をもつから、ガリ勉をして、人を蹴落とすのを何とも思わな
い人間になってしまう。あるいは、選挙のたんびに『お願いします』と土下座するのも平気な
人間ができあがる。『遊びをせんとや……』(*)で、もともと人間は、そういうふうにはでき
ていないはずなんです。
人それぞれに生き方がありますから、目的をもって生きることがわるいと決めつけるつもり
はありませんけれど、目的がないからといって、悩む必要もないと思います。とくに、もう自
分の行き先が見えたと思っている人は、無理に目的をもたなくてもいいんじゃないでしょうか。
目的がないと不安だというなら、身近なところで見つければいいんです。孫の顔を見るまでは
生きていたいとか、勤めていた会社に厭な重役がいたら、あいつが死ぬまでは絶対に死にたく
ないとか、何でもかまわない、ふだん考えていることでもいいわけです。その程度の目的なら、
むきになる必要もないでしょうから、遊んで楽しむことを優先させることもできます。
毎日、楽しく遊んでいれば、いつのまにか年をとり、いつかは死ぬときがやってくる。どう
せ死ぬことはわかっているんですから、もっと楽しまなきゃ損だという気になればいいわけで
す。そうすれば、しぜんに死にたいする心構えもできてきます。多少、気取っていえば、人生
の暮れ時が見えてくるということです。」
(*)筆者註:「遊びをせんとや生(う)まれけむ、戯(たはぶ)れせんとや生(む)まれけん、遊ぶ
子供の声聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」 (梁塵秘抄)
渾沌より汐泡(しほなだ)の如く浮び出でまた渾沌に戻るなるべし
(福永武彦)