今日の「 お気に入り 」は 、平松洋子さんのエッセイ
「 なつかしいひと 」( 新潮社 刊 ) から「 冷える 。冴える 。
晴れる 。」と題した小文の一節 。
備忘のため 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 口にするだけで 、すっきり洗われるような気分になる言葉が
ある 。
『 ああ 、せいせいした 』
自分が言うときも 、だれかが言うのを聞くときも 、勢い
よく風が吹き抜けてゆく爽快を感じて『 せいせいする 』 。
長くごたついた離婚話にようやく片がついたともだちが 、役
所に届けを出して外にでた瞬間 、飛び出た科白がこれなのよ
と言っていた 。よくわかる 。ぜんぶを振りきって残滓の一滴
さえまとわりつかせない 。きれいさっぱりとした快感がこの
言葉にはある 。 」
( ´_ゝ`)
「 森鷗外の小説に『 寒山拾得 』という一編がある 。
どうにも気晴らしをしたくなると 、むしょうに この『 寒山拾得 』
を読みたくなるという知人がいる 。
みじかい一編である 。唐の時代に閭 ( りょ ) という官吏がおり 、
遠く天台へ向かう 。逢いたいのは国清寺にいるという拾得と寒山 。
じつは 拾得 は 普賢延命菩薩 、寒山 は 文殊師利菩薩 。閭がぶじに寺
に着き 、僧に案内を請うと 、痩せてみすぼらしい格好ををした小
男ふたりが火に当たっているので 、閭が名乗りでる 。二人は同時
に閭を一目見た 。それから二人で顔を見合わせて腹の底から籠 ( こ )
み上げてくるような笑声を出したかと思うと 、いっしょに立ち上が
って 、厨 ( くりや ) を駆け出して逃げた 。逃げしなに 寒山が『 豊
干 ( ぶかん ) がしゃべったな 』と云ったのが聞えた 。
読むたび 、自分らの意のままに次元を超えるようすが痛快で 、わた
しも関を破り宙を駆けるような自由を味わう 。気が晴れるのだ 。 」
引用おわり 。
( ´_ゝ`)
( ついでながらの
筆者註:「『 寒山拾得 』( かんざんじっとく )は 森鷗外の短編小説 。
1916年(大正5年)1月 、『 新小説 』 に発表された 。
あらすじ
貞観の頃 、台州の知事職に相当する 主簿 を務
めることとなった 閭丘 胤( りょきゅう いん )は 、
求道者でもなければ 、反対に無頓着な人でもなく 、
道を求めている他者に 「 盲目の尊敬 」 をもって接
する人間であった 。赴任の当日 、リュウマチ性の頭
痛に悩まされていた彼の元に一人の乞食坊主が訪
れる 。閭( 鷗外の誤りで 、正確には 姓が 閭丘
=以下訂正 )の頭痛を まじないによって 見事に
治癒したこの男は 台州・天台山国清寺 の 豊干
( ぶかん )と名乗り 、これから同地へ赴く 閭丘が
会いに行くべき偉い人はいないかと尋ねると 、それ
ぞれ 文殊菩薩 と 普賢菩薩 の化身 だという寒山
と拾得の名を挙げて去っていった 。この出来事のた
めに 、閭丘は 台州につくと 間も無く 二人が暮らし
ている 国清寺 を目指したのであった 。丸二日かけて
やってきた 閭丘 は 道翹( どうぎょう )と言う僧に
案内されるかたわら 、豊干や拾得についての話を
聞く 。実際に 二人と対面するため 台所へ通され
ると 、みすぼらしい身なりをした二人の小男が火に
当たっていた 。閭丘 は 聖人に接する意識で 自ら
の官職を述べる拝礼をしたが 、寒山と拾得は 大
声で笑ったかと思うとその場から逃げ去ってしまった 。」
以上ウィキ情報 。
「 全体世の中の人の 、道とか宗教とかいうものに
対する態度に三通りある 。自分の職業に気を取
られて 、ただ営々役々 ( えきえき ) と年月を送っ
ている人は 、道というものを顧みない 。これは読書
人でも同じことである 。もちろん書を読んで深く考え
たら 、道に到達せずにはいられまい 。しかしそうまで
考えないでも 、日々の務めだけは弁じて行かれよう 。
これは全く無頓着 ( むとんじゃく ) な人である 。
つぎに着意して道を求める人がある 。専念に道を
求めて 、万事をなげうつこともあれば 、日々の務め
は怠らずに 、たえず道に志していることもある 。儒学
に入っても 、道教に入っても 、仏法に入っても基督
( クリスト ) 教に入っても同じことである 。こういう人
が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのも
のになってしまう 。つづめて言えばこれは皆道を求め
る人である 。
この無頓着な人と 、道を求める人との中間に 、道
というものの存在を客観的に認めていて 、それに対
して全く無頓着だというわけでもなく 、さればと言っ
てみずから進んで道を求めるでもなく 、自分をば道
に疎遠な人だと諦念 ( あきら ) め 、別に道に親
密な人がいるように思って 、それを尊敬する人があ
る 。尊敬はどの種類の人にもあるが 、単に同じ対
象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると 、道を求
める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬す
ることになり 、ここに言う中間人物なら 、自分のわ
からぬもの 、会得することの出来ぬものを尊敬する
ことになる 。そこに盲目の尊敬が生ずる 。盲目の尊
敬では 、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠 ( せ
いこく ) を得ていても 、なんにもならぬのである 。
( 森鷗外著 「 寒山拾得 」 青空文庫 所収 ) 」)
( ´_ゝ`)
早朝にイヤホンで聞くラジオの聞こえが悪いように感じる
ことが増えてきた 。かけている メガネの度 が合ってないように感
じることも増えた 。
気のせいではない 、老いるショック 。
もの みな 上がる 2023年 の 秋 。
今年 締めくくりの 打ちおさめに 、ロシア仕込みの ICBM が 南に
向かって飛ぶそうな 。ロシアのは 、サルマタ でしたっけ ?
北極 、南極を周回する 衛星軌道は 新たな脅威か 、はたまた単なる
デモンストレーション ? 偵察のみでは 、コスパが合わず 、ロシアのパシリ 。
気散じに 、増税くそ眼鏡 、減税うそ眼鏡 と言ってみる 。(「減税おそ眼鏡」「減税せこ眼鏡」もあるそうな )
つい 中間人物 に八つ当たり 。ああ 、せいせいした 。
政界は 、おカネを巡る 安倍派と岸田派の泥仕合 。
シン・ゴジラ か 地震が 来れば 、ガラガラポン 。)