今日の「 お気に入り 」は 、平松洋子さんのエッセイ
「 なつかしいひと 」( 新潮社 刊 )から「 おうちへ帰ろう 」と題し
た小文 。備忘のため 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 師走にはいって数日が過ぎたころ 、旧知のひとから便りがあった 。
そのなかにこんな一文が記されていた 。
『 平松さんがいらしたのは一九九八年 、雨がざあざあ降る日でしたね 』
二度 、三度 、目が繰りかえし読みたがった 。雨がざあざあ降っていま
したね 。雨がざあざあ ・・・ 。
すると ―― 。あれは たじろぐような どしゃ降りだった 。わざわざ駅ま
で出迎えに来てくれた車の助手席に座ると 、右へ左へワイパーが律儀に
首を振っていた ・・・ 十一年前に降る雨が すがたを現しはじめたでは
ないか 。
記憶の回路のふしぎに唖然とする 。ただの空模様でしかなかったこと
が 、文章ひとつで十一年を超え 、記憶として飛来するのだから 。
いっぽう 、繰りかえし感覚をまさぐりつづける記憶もある 。そのひと
つが 、ねじ式の鍵を締めるときの記憶 。
こどものころ 、毎夕戸締まりをするのが役目だった 。まず鎧戸を閉め 、
ねじ式の鍵を回して締める 。つぎに内側のガラス戸を閉め 、これもねじ
式の鍵を回す 。どっちもおなじ真鍮の鍵 。ひとつの持ち手は半月 、もう
ひとつは団扇みたいに丸かった 。
穴のいりぐちに先端をあて 、鍵棒をくるくる差しこんでゆく 。おしま
いにきゅうとひと捻り 。すると 、ふたつの木枠がしなって隙間なく ぴ
ちりと重なる 。そのとき真鍮と指の腹の皮膚も 、おたがいを認め合うか
のように密着するのだった 。
もう三十年近くまえ 、好きこのんで古いちいさな日本家屋を借りて住ん
だことがある 。縁側にはがらがらと敷居を滑る四枚のガラス戸 、木枠に
はあの真鍮のねじ式の鍵がついていた 。
じっさい 、鍵を締めるたび指がよろこんだ 。伝わってくる回転運動 。
真鍮のやわらかさ 。やっぱりおしまいに力を入れて ひと捻りをかける
と 、木枠がしなる 。薄いガラスにも緊張が走る 。もうちょっと捻っ
たら 、ぱりん と割れてしまいそう 。
ねじ式の鍵には 、『 締める 』という行為に リアルな実感 がともなう 。
そこがすきだった 。がちゃり と いっぺんに鍵を下ろすのでは 、ちっと
も おもしろくない ―― 。だからこそ 、飽きもせず おなじ記憶が顔を
のぞかせてくるのだが 、身のまわりには ねじ式の鍵はおろか木枠の窓
さえありはせず 、記憶はふたたび黙りこんで引っこむ 。
つい数日まえの日曜のことである 。やわらかな光が降り注ぐ冬のは
ざまの奇跡のような日 、小学校の脇道を歩いていると 、向こうから
年配の女性のふたり連れが歩いてきた 。ひとりがもうひとりに付き添
いながらゆっくりとした歩調で進んでくる 。添われている白髪の老婦
人の視線はどこか虚ろで定まらない 。
すれ違うまえ 、老婦人のつぶやきをわたしの耳がとらえた 。
『 あら 、ひとがいっぱい歩いてくる 』
すると隣の婦人が励ますふうにかるく腕を取り 、声を掛けた 。
『 だいじょうぶよ 、みんなおうちへ帰るひとたちだから 』
『 そう 、みんなおうちへ帰るの 』
老婦人は安堵してこっくりとうなずいたのだった 。
もうじき夕暮れがはじまる 。みんなおうちへ帰るのだ 。たったいま 、
すれ違ったあの老婦人にひらりと飛来したのはどんな記憶だったのだろ
うか 。 」
( 平松洋子著 「 なつかしいひと 」新潮社 刊 所収 )
引用おわり 。
昭和30年代の日本家屋の玄関引き戸や木枠の窓には 、大抵 、真鍮の
ねじ式の鍵が付いていた 。 締めた記憶が指に残っているのは筆者も同じ 。
レビー小体病の老婦人の幻視のエピソード 、十年以上も前 、ピック病の
連れ合いがわけもなく「 うち帰る 」と連発していたのを思い出す 。
一体「 うち 」ってどこなんだろう 。
今もってわからない 。家人が言葉を失って久しい 。
( ´_ゝ`)
いいのか 、これで 。このままで 。
いいのだ 、これで 。これでいい 。
( ´_ゝ`)
( ついでながらの
筆者註:「 平松 洋子( ひらまつ ようこ 、1958年2月21日 - )は 、
日本のエッセイスト 。
人物・来歴
岡山県倉敷市出身 。清心中学校・清心女子高等学校 、
東京女子大学文理学部社会学科卒業 。アジアを中心と
して世界各地を取材し 、食文化と暮らし 、文芸と作家を
テーマに執筆活動を行う 。2006年 『 買えない味 』 で 山田
詠美の選考により ドゥマゴ文学賞受賞 。2012年 『 野蛮な
読書 』 で 第28回講談社エッセイ賞受賞 。2021年 『 父の
ビスコ 』 で 第73回読売文学賞受賞 。
広 く食と料理に関する書籍を読み込み 、中国の食養生の
考え方 や百人一首を解説したり 、日本にピザが紹介された
時期を述べた 。神戸のレストランで 1944年からピザを焼いて
いたという カンチエミ・アントニオ のコメントが載っている 。 」
以上ウィキ情報 。) ( Sir Antonio Cancemi )