今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝
日」に連載されたもの 。
備忘のため 、「 山寺の中の浮世絵 」と題
された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。
信州は 、別所温泉にある常楽寺の本坊境内にある
コンクリート造りの美術館に収蔵されている 徳川
家康の『 日課念仏 』のお話 。
引用はじめ 。
「 常楽寺の本坊境内には 、コンクリート造り
の美術館もある 。
『 先代が美術品が好きで 、寺にあったもの
や集めたものをここに収蔵しておいてくれた
んです 』
といって 、現住職の半田孝淳氏が 、扉の
錠をあけてくれた 。
めずらしいものが数点ある 。なかに 、徳
川家康がみずから筆をとって書いた『 日課
念仏 』というのがあり 、写真で見た記憶が
あるが 、本物はむろんはじめてだった 。細
字で南無阿弥陀仏という六文字を 、六段に
びっしり書き込んでいる 。終りのほうに 、
南無阿弥と書いて 、あとは陀仏と続けず 、
家康と書いている 。誤記ではなく 、日課念
仏の作法なのであろう 。そういうのが六カ
所あった 。
かれは 、念仏の徒であった 。
かれの先祖は徳阿弥という時宗の聖で 、全
国を遊行(ゆぎょう)するうちに三河(みかわ)
松平郷という山中に流れてきて 、松平家に身
を寄せた 。そのうち松平家の娘と深くなり 、
子がうまれた 。遊行聖(ゆぎょうひじり)には
よくある例である 。やがてこの家は一遍の時
宗念仏から法然の浄土宗に転じ 、世を重ねて
家康に至った 。家康は生涯 、戦陣に出るとき 、
厭離(おんり)穢土
欣求(ごんぐ)浄土
と大書した大旆(たいはい)を本営にひるがえ
した 。『 ああこんな浮世はつくづくいやだ 、
よろこび勇んであの世へ行きたい 』などとい
う文句を戦陣の旗につかった大将など 、古今
東西に家康しかない 。士卒に死を怖れさせな
いようにとの配慮もあるだろうが 、それにし
ても本気で念仏を信じていなければ 、こんな
旗を戦陣にかかげることはなかったにちがい
ない 。
もっとも平安末期から戦国までの念仏の流行
というのは 、単純な厭世主義の流行というも
のではなく 、念仏を信じることによって自分
を形而上的世界に解放するというごく陽気な
一面があり 、形而下的には 、念仏を唱える
ことによって互いの間に『 御同朋(おんどう
ほう)・御同行(おんどうぎょう) 』の結びつ
きができるという一面もあり 、色彩でいえば
寒色ではなく暖色の文化性というべきもので
あった 。この当時のそういう面からいえば 、
家康の旗の文句はひとびとから違和感をもた
れるようなものでは決してなかった 。
この家康の『 日課念仏 』は 、慶長十七(16
12)年という年号が入っている 。晩年という
べき時期で 、この翌々年にかれは豊臣秀頼を
討滅する軍を発する 。」
引用おわり 。
念仏といえば 、昨年11月に89歳で亡くなった
脚本家の山田太一さん ( 1934 - 2023 ) が書かれた
小説「 空也上人がいた 」( 朝日新聞出版 刊 ) の最
終章で 、年老いた主人公に寄り添って 、
「 少し顎を上げて 、小さく口をひらいて 、汚れた
着物を着て 、細い脛を出し 、履きつぶしかけの草
鞋で 」、車椅子を押す主人公の歩調に合わせて 、
歩いてくれている 、
と主人公の目に映るのが 、市聖 ( いちのひじり )
空也上人 であることを思いだす 。物語の狂言回し 、
京都 、六波羅蜜寺の寺宝「 空也上人立像 」のイメ
ージと重なる 。
久し振りに 、身につまされて 、心に響く小説だった 。
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