「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

ちいさがた Long Good-bye 2024・12・10

2024-12-10 05:33:00 | Weblog

  

 

  

   今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため 、「 千曲川点景 」と題された小

  文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   信州の別所温泉を経ての旅の続き 。

   引用はじめ 。

  「 別所は塩田平にあるということは 、すでに
   ふれた 。この塵取(ちりとり)型の小さな平野
   は 、奥の別所において高く 、千曲川の方向
   にむかい 、ゆくにつれて低くなる 、狭いな
   がらも 、見るからに膏腴(こうゆ)(あぶらみ)
   の地といった感じである 。
    この塩田平は 、それと相重なる上田平とと
   もに 、信濃(しなの)では まとまった規模の
   農耕地帯として最初にひらけ 、『 小県(ち
   いさがた) 』という地名で中央にも早くから
   知られていた奈良朝の律令体制がはじま
   ると 、このあたりに国府がおかれたらしい 。
    どこに置かれたかは 、明瞭でない 。」

  「 同行の桜井孝子さんは 、故郷だけに 、信
   濃を詠んだ万葉の歌のいくつかをそらんじ
   ている 。

     信濃通(しなのぢ)は 今の墾道 刈株(はり
     みち かりばね)に 足踏ましなむ 久都(くつ)
     はけ わが背( 巻十四、三三九九 )

    という歌を 、国府の所在について話して
   いるときに 、彼女はさりげなく挟んだ 。
    この歌は 、東歌(あずまうた)の一つで 、
   防人(さきもり)に徴せられて都へゆく若い
   夫のために妻が詠んだ歌である 。
    道を墾(ほ)るというのは新道を開くこと
   で 、墾道とは開通したばかりの新道 。自
   然 、笹などの刈株がそそけ立っている 。
   きっと足を踏みぬいたりなさるでしょう 、
   さあ履(久都)をはいていらっしゃいよ 、
   という 。久都は靴のことだが 、原日本に
   は存在しなかった 。ふつう革製だが 、木
   製 、布製のもある 。この場合 、刈株の
   墾道である以上は革製でなければならない 。
   くつ という言葉はどうやら朝鮮語の kuit
   と同源らしく 、この歌には『 あのハイカ
   ラな靴というものをはいていらっしゃいよ 』
   という気分が入っているのにちがいない 。
    この歌でおもしろいのは 、
   『 信濃には京へゆく便利な道路が開鑿(か
   いさく)されたらしい 』
    という道路情報が 、関東の防人の妻の耳
   に入っていたということである 。

   『 続日本紀(しょくにほんぎ) 』の和銅六
   (713)年のくだりに 、

     美濃信濃二国の堺は径道険阻にして往
     還艱難なり 。よりて吉蘇路(きそじ)
     (木曽路)を通ず 。

    と 、ある 。信濃側からいえば 、松本か
   ら木曽福島を経て美濃(岐阜県)の中津川
   へ出てゆく道路は 、この和銅六年に開墾さ
   れた 。その後 、中山道で都のほうへゆく
   にはこの木曽路が利用され 、このおかげで
   源平争乱期に木曽義仲がここで雌伏するこ
   とができたわけだし 、はるかな後世ながら
   島崎藤村の『 夜明け前 』に出てくる木曽
   路の馬籠(まごめ)の宿(しゅく)もこのおか
   げで出来 、いまも中央本線がほぼこの道路
   沿いに走っている 。万葉時代にはこれが刈
   株の道で革のくつでもはかなければ歩けな
   かったというのも 、おもしろい 。
    奈良朝という律令国家は 、全国を公田に
   してそこからあがってくる米その他を都に
   運ばせるために 、道路を必要とした 。木
   曽路の開鑿は人民の難儀を軽減する目的よ
   りもむしろ租税の運搬を便利にするためで
   あった 。しかしながらこの木曽路の開鑿に
   よって信濃国は都に近くなった
    いま一つの変化は 、信濃では 、それまで
   一国の中心だった千曲川ぞいの小県(ちいさ
   がた)(上田平など)東の片隅というだけに
   なり 、国のほぼ中央にある筑摩の松本平
   (まつもとだいら)飛躍的に重要になった
   ことである 。松本平はそれまでも大きな農
   業生産地であったが 、貢租をはこぶ道路地
   理からいえば僻陬(へきすう)にあったとい
   っていい 。この道路によって信濃の中心は
   千曲川ぞいから松本に移り 、国府も小県か
   ら松本へうつされてしまった 。新道路の開
   鑿が土地の事情を基本的に変えるというのは 、
   こんにちにかぎったことではない 。」

  「 私のこの旅は 、あたらしい土地へゆくと
   かならず国府のあとか 、それが明瞭でなけ
   れば国分寺あとを訪ねることにしている 。
   そのあたりは上代におけるその国の中心だ
   ったから 、山河を見わたすだけでも 、感
   慨が深まるような気がする 。」

  「 地図では 、国分寺跡は上田の市街地より
   やや南で 、千曲川の東岸にある 。ゆくと 、
   河原に 、

     信濃国分寺趾(あと)

    という大きな石碑が立っている 。
    史跡公園などと仰々しく銘うたれているが 、
   地面と簡単なコンクリート製の腰掛け台があ
   る程度で 、樹木といえるほど樹木はなく 、
   その場に立っているだけで心が荒涼としてく
   る 。
   『 これは 、公園ですか 』
    と 、須田画伯が 、どう写生していいか途
   方に暮れた表情で 、ふりむいた 。
    信州人は 、神経のゆきとどいた感覚を持っ
   ている 。そのことは定評のあるところだが 、
   どうも諸事 品下がってきた日本のなかにあっ
   て 、信濃人(しなのびと)まで がさつ になっ
   てきたということであろうか 。
    それにしてもこの公園はひどく 、ちかごろ
   しきりに史跡公園を造っている中国人などが
   みれば ―― かつての中国がこのようだった
   だけに ―― 越し方を思い 、いまの日本人
   の心の荒みようにおどろくかもしれない 。

    日本人は 、古来 、杜(もり)を神聖な場所
   として大切にしてきた 。共同体の中心をな
   す神社の境内(にわ)は樹木でうずめ 、鬱然
   たる杜をつくり 、杜に神が天降(あも)りす
   るという信仰を継承してきた 。西洋では 、
   公園をそのようにした 。公園の概念を明治
   のときに輸入した日本は 、公園をもって神
   社の杜のように考えて 、結果としてはほぼ
   まちがいなかった 。
    人間の心を安らかにするのは 、樹木しか
   ない

   引用おわり 。

   。。(⌒∇⌒); 。。

   上の「 史跡公園 信濃国分寺趾 」の記述にもあるが 、

  50年ほど前の 、この信州への旅においても 、作家

  や同行者一行をがっかりさせる観光開発の有り様が度々

  語られる 。「 小波だつ川瀬 」の章で語られる小諸城趾

  の「 懐古園 」への入園を断念させるくだりは 、攻撃的

  かつ執拗な筆致で 、司馬さんに似合わな過ぎて 、筆写

  に堪えない 。50年後の現在 、こんな目に遭うことは

  しょっちゅうであることも悲しい 。行かなきゃいいの

  であるが ・・・ 。

 

    ( たしか浅間山 )

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« おんりえど ごんぐじょうど... | トップ | こもろなるこじょうのほとり... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事