今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝
日」に連載されたもの 。
備忘のため 、「 千曲川点景 」と題された小
文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。
信州の別所温泉を経ての旅の続き 。
引用はじめ 。
「 別所は塩田平にあるということは 、すでに
ふれた 。この塵取(ちりとり)型の小さな平野
は 、奥の別所において高く 、千曲川の方向
にむかい 、ゆくにつれて低くなる 、狭いな
がらも 、見るからに膏腴(こうゆ)(あぶらみ)
の地といった感じである 。
この塩田平は 、それと相重なる上田平とと
もに 、信濃(しなの)では まとまった規模の
農耕地帯として最初にひらけ 、『 小県(ち
いさがた) 』という地名で中央にも早くから
知られていた 。奈良朝の律令体制がはじま
ると 、このあたりに国府がおかれたらしい 。
どこに置かれたかは 、明瞭でない 。」
「 同行の桜井孝子さんは 、故郷だけに 、信
濃を詠んだ万葉の歌のいくつかをそらんじ
ている 。
信濃通(しなのぢ)は 今の墾道 刈株(はり
みち かりばね)に 足踏ましなむ 久都(くつ)
はけ わが背( 巻十四、三三九九 )
という歌を 、国府の所在について話して
いるときに 、彼女はさりげなく挟んだ 。
この歌は 、東歌(あずまうた)の一つで 、
防人(さきもり)に徴せられて都へゆく若い
夫のために妻が詠んだ歌である 。
道を墾(ほ)るというのは新道を開くこと
で 、墾道とは開通したばかりの新道 。自
然 、笹などの刈株がそそけ立っている 。
きっと足を踏みぬいたりなさるでしょう 、
さあ履(久都)をはいていらっしゃいよ 、
という 。久都は靴のことだが 、原日本に
は存在しなかった 。ふつう革製だが 、木
製 、布製のもある 。この場合 、刈株の
墾道である以上は革製でなければならない 。
くつ という言葉はどうやら朝鮮語の kuit
と同源らしく 、この歌には『 あのハイカ
ラな靴というものをはいていらっしゃいよ 』
という気分が入っているのにちがいない 。
この歌でおもしろいのは 、
『 信濃には京へゆく便利な道路が開鑿(か
いさく)されたらしい 』
という道路情報が 、関東の防人の妻の耳
に入っていたということである 。
『 続日本紀(しょくにほんぎ) 』の和銅六
(713)年のくだりに 、
美濃信濃二国の堺は径道険阻にして往
還艱難なり 。よりて吉蘇路(きそじ)
(木曽路)を通ず 。
と 、ある 。信濃側からいえば 、松本か
ら木曽福島を経て美濃(岐阜県)の中津川
へ出てゆく道路は 、この和銅六年に開墾さ
れた 。その後 、中山道で都のほうへゆく
にはこの木曽路が利用され 、このおかげで
源平争乱期に木曽義仲がここで雌伏するこ
とができたわけだし 、はるかな後世ながら
島崎藤村の『 夜明け前 』に出てくる木曽
路の馬籠(まごめ)の宿(しゅく)もこのおか
げで出来 、いまも中央本線がほぼこの道路
沿いに走っている 。万葉時代にはこれが刈
株の道で革のくつでもはかなければ歩けな
かったというのも 、おもしろい 。
奈良朝という律令国家は 、全国を公田に
してそこからあがってくる米その他を都に
運ばせるために 、道路を必要とした 。木
曽路の開鑿は人民の難儀を軽減する目的よ
りもむしろ租税の運搬を便利にするためで
あった 。しかしながらこの木曽路の開鑿に
よって信濃国は都に近くなった 。
いま一つの変化は 、信濃では 、それまで
一国の中心だった千曲川ぞいの小県(ちいさ
がた)(上田平など)が東の片隅というだけに
なり 、国のほぼ中央にある筑摩の松本平
(まつもとだいら)が飛躍的に重要になった
ことである 。松本平はそれまでも大きな農
業生産地であったが 、貢租をはこぶ道路地
理からいえば僻陬(へきすう)にあったとい
っていい 。この道路によって信濃の中心は
千曲川ぞいから松本に移り 、国府も小県か
ら松本へうつされてしまった 。新道路の開
鑿が土地の事情を基本的に変えるというのは 、
こんにちにかぎったことではない 。」
「 私のこの旅は 、あたらしい土地へゆくと
かならず国府のあとか 、それが明瞭でなけ
れば国分寺あとを訪ねることにしている 。
そのあたりは上代におけるその国の中心だ
ったから 、山河を見わたすだけでも 、感
慨が深まるような気がする 。」
「 地図では 、国分寺跡は上田の市街地より
やや南で 、千曲川の東岸にある 。ゆくと 、
河原に 、
信濃国分寺趾(あと)
という大きな石碑が立っている 。
史跡公園などと仰々しく銘うたれているが 、
地面と簡単なコンクリート製の腰掛け台があ
る程度で 、樹木といえるほど樹木はなく 、
その場に立っているだけで心が荒涼としてく
る 。
『 これは 、公園ですか 』
と 、須田画伯が 、どう写生していいか途
方に暮れた表情で 、ふりむいた 。
信州人は 、神経のゆきとどいた感覚を持っ
ている 。そのことは定評のあるところだが 、
どうも諸事 品下がってきた日本のなかにあっ
て 、信濃人(しなのびと)まで がさつ になっ
てきたということであろうか 。
それにしてもこの公園はひどく 、ちかごろ
しきりに史跡公園を造っている中国人などが
みれば ―― かつての中国がこのようだった
だけに ―― 越し方を思い 、いまの日本人
の心の荒みようにおどろくかもしれない 。
日本人は 、古来 、杜(もり)を神聖な場所
として大切にしてきた 。共同体の中心をな
す神社の境内(にわ)は樹木でうずめ 、鬱然
たる杜をつくり 、杜に神が天降(あも)りす
るという信仰を継承してきた 。西洋では 、
公園をそのようにした 。公園の概念を明治
のときに輸入した日本は 、公園をもって神
社の杜のように考えて 、結果としてはほぼ
まちがいなかった 。
人間の心を安らかにするのは 、樹木しか
ない 。」
引用おわり 。
。。(⌒∇⌒); 。。
上の「 史跡公園 信濃国分寺趾 」の記述にもあるが 、
50年ほど前の 、この信州への旅においても 、作家
や同行者一行をがっかりさせる観光開発の有り様が度々
語られる 。「 小波だつ川瀬 」の章で語られる小諸城趾
の「 懐古園 」への入園を断念させるくだりは 、攻撃的
かつ執拗な筆致で 、司馬さんに似合わな過ぎて 、筆写
に堪えない 。50年後の現在 、こんな目に遭うことは
しょっちゅうであることも悲しい 。行かなきゃいいの
であるが ・・・ 。
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