会員の丸井一郎です。
食べる日々(1)
長く生きてきたが、
食べることで切実な、
文字通り「身につまされる」体験をしたのは、
9歳時の大病と
29歳時の研究留学による滞欧である。
当時の診断で
自家中毒腸炎とされた症状で、
何も口にできない状態が数週間続いた。
最後はリンゲル氏液の注射だけで生き延びた。
針を刺す箇所も見当たらない状況だった。
回復にほぼ一年の時間を要した。
普通にごはんが食べられる、
ということのなんという難しさ、有り難さ。
粒も何も見えない濁り粥、
箸に掛からない煮込み素麺から始めた。
学校に戻っても半年は弁当持参だった。
柔らかいご飯と野菜の煮物だけの弁当。
よく噛んで飲み下すことの幸せ。
ちゃんとした野菜の
体にしみる滋味を悟った。
後日、工業生産品の食料は
「なんか変だ」と気づくことになる。
回復して自分で調理し始めた。
台所で理科の実験もどきを
していたのも背景にある。
母親が消費者運動の
第一世代だったので、
何かあると留守宅の昼食を任されもした。
中学校時にカレーと麺類を、
高校時に手作りハンバーグと
煮物類をマスターし、
大学の一人暮らしでは、
数人の仲間と「自炊共済組合」を結成した。
実家がレストランの男が、
当時「ガス乗せ天火」と呼ばれていた器具を
盗み出して、グラタン類に挑戦した。
ほぼ全ての調理類において経験を積んだ。
ただ一つ手を出せなかったのは鮮魚だった。
これは就職後に集中的に体験することになる。(つづく)
食べる日々(1)
長く生きてきたが、
食べることで切実な、
文字通り「身につまされる」体験をしたのは、
9歳時の大病と
29歳時の研究留学による滞欧である。
当時の診断で
自家中毒腸炎とされた症状で、
何も口にできない状態が数週間続いた。
最後はリンゲル氏液の注射だけで生き延びた。
針を刺す箇所も見当たらない状況だった。
回復にほぼ一年の時間を要した。
普通にごはんが食べられる、
ということのなんという難しさ、有り難さ。
粒も何も見えない濁り粥、
箸に掛からない煮込み素麺から始めた。
学校に戻っても半年は弁当持参だった。
柔らかいご飯と野菜の煮物だけの弁当。
よく噛んで飲み下すことの幸せ。
ちゃんとした野菜の
体にしみる滋味を悟った。
後日、工業生産品の食料は
「なんか変だ」と気づくことになる。
回復して自分で調理し始めた。
台所で理科の実験もどきを
していたのも背景にある。
母親が消費者運動の
第一世代だったので、
何かあると留守宅の昼食を任されもした。
中学校時にカレーと麺類を、
高校時に手作りハンバーグと
煮物類をマスターし、
大学の一人暮らしでは、
数人の仲間と「自炊共済組合」を結成した。
実家がレストランの男が、
当時「ガス乗せ天火」と呼ばれていた器具を
盗み出して、グラタン類に挑戦した。
ほぼ全ての調理類において経験を積んだ。
ただ一つ手を出せなかったのは鮮魚だった。
これは就職後に集中的に体験することになる。(つづく)
※ この記事は、NPO法人土といのち『土といのち通信』2023年3月号より転載しました。