2016/12/20
俳句について、上達するために努力をすることについてはやぶさかでない。句会で誰もとってくれないとか、兼題に対してうまく対応できないとか、自分は俳句に向いていないとかで思い悩むのはやめようとおもう。
俳句をやりはじめてなんとなく感じていることは、あるやり方や、ルールなどを勉強すると飛躍的に俳句が上達すると考えていたようだが、どうもそうでないようである。本人の感性もさることながら、たくさんある季語に関してそれなりの定見が必要だし、四季の移り変わり、自然の動植物に対しての理解など、実際に体験するなど、ある程度の時間は必要である。俳句では自分の言いたいことをいう文学的表現ではないと割りきってしまうのがいいようだ。言いたいことを言うためには、17音は少ない。言いたいことを言うのではなくて、自分を離れてその時のものとか状況を言葉で表現することである。しかし、説明的であってはいけない、とにかく自分を離れて、人任せにするのがよい。作句より句会、句会より会の後の交流会、作るよりも人の句を観賞し味わう態度などに重点を移す。
もう一度はじめにもどり、俳句を考えてみる。まず、俳句は連句における発句であるということ。連句と発句の厳密さは横に置き、座をつくり他人を感心させるような言葉を吐くことである。これらの言葉を吐くために、あらかじめ準備するのであるが、準備しても他人任せだから、いかんとも仕方ない。
2016/12/20
「草のいのちアロエの力医者いらず母は呪文の如くに言いき(鳥海明子)」
「アロエとは多肉植物葉は太り薬にもなり食べられるなり(花言葉:復活)」
「昔からこの日物忌みする日なり正月準備もせずに在宅(『果ての二十日』)」
「この日には一本だたら現れて人を襲いて死にいたらしむ()」