≪図について≫
名前の後ろの( )は在位年数。
黒丸数字は第一尚氏王統の王の順です。
※尚巴志は存命中だった父を立てたため、「王統」で言えば尚巴志は2代目になります。
ただ、琉球統一は父(思紹)が亡くなった後なので、「国王」初代は尚巴志です。
この違い、ややこしいけど整理しててね。
質問をもらったので今日は第一尚氏王統について。
先日の護佐丸の舞台でも、冒頭、
護佐丸と盛親との長めのやり取りで
護佐丸が生きてきた琉球の時代背景が述べられていたので
この舞台バージョンにリンクさせてもう少し詳しく記事にしてみましょう☆
↑図もあわせてご覧いただくとより分かりやすいですよ♪
まず、若き護佐丸は中山の武将として尚巴志の傘下にありました。
そして尚巴志の成し遂げた琉球統一(三山統一)の偉業をサポートし功績をあげます。
琉球王国という統一国家を初めて作り上げた尚巴志ですから
その才能はもちろん、カリスマ性もハンパなかったと予想します。
しかし護佐丸も琉球戦国時代の武将。
彼自身も尚巴志のように「天下統一」や「国王」という地位に
野心を燃やしていたかもしれませんが、
そのうち、尚巴志の人間性に心底惚れこみ、
心から「君主」として仰ぎ見るようになります。
「男が男に惚れた、ということだ」
さて、そんな超カリスマ英雄、尚巴志も寿命には勝てず、
在位18年で世を去ります。
しかし、尚巴志の死後、
王家は実に不思議な運命をたどるのです…。
尚巴志の後をついで次の国王になったのは息子の尚忠。
しかし、尚忠は在位5年で亡くなります
次に王になったのは、尚忠の息子、尚思達。
しかし、こちらも父・尚忠と同じく、在位5年で世を去ります
尚思達には世継ぎがいなかったので、
次の王は世代を遡って、尚思達にとっては叔父であり、尚忠の弟、
つまり尚巴志の確か5男である尚金福が即位します。
しかししかし、これも何の運命か、尚金福も在位4年で世を去るわけです
このように、尚巴志の死後、次々と王が短命でこの世を去っていきます。
国のトップが、このようにコロコロと変わると、
どうなりますか?
そうです。
「この国、大丈夫やみ!?(゜д゜;」
(読谷方言かな?=「大丈夫かよ、オイ!」)
ってなるわけです。
非常に不安定になるわけですね。
「この国、この王統は呪われているんじゃないか」
って思う人もきっと出てきたことでしょう。
しかも、琉球王国はまだできたばかりの新しい国で、
国としての基盤はまだまだ発展途上。
そんな中、王が次々と変わるとなると
固まりつつあった基盤もいつ崩れてもおかしくないような、
また戦国の世に戻ってしまうかのような
危うい状態に陥っていくわけです。
(勝連が頭角を現してくるのもこんな時代の最中であるわけです…)
そんな痛手の続く王統に、
更なる追い討ちが!!
なんと、次の王位を争って、
尚金福の息子である「志魯と、
尚金福の弟である「布里」が、
王位継承争いを勃発させます。
(「志魯・布里の乱」)
この甥・叔父の関係の王位継承争いで、
首里城炎上
(首里城にその遺構が…!?→ ★)
そして、
2人とも戦死
(※…ってことになってます)
次の王候補が2人同時に死んでしまい、
しかも、国のシンボルである城が焼け落ちてしまうという
とんでもない大失態!!!
もうダメだ!!
この国は終わった!!!!
…と誰もが思ったところで登場するのが、
尚巴志の7男、尚泰久、ということです。
そんな、非常に不安定な王統と時代を肌で感じていた護佐丸は、
あの心底惚れていた我が君主・尚巴志が築き上げたこの琉球王国と、
この尚氏王統を守り抜くことを心に誓うわけです。
だから、首里(王家)に対する忠誠心は人一倍厚い、と。
…っていう、舞台で語られていた時代背景の解説でした☆
ちなみに、尚泰久は即位してすぐに首里城の再建させ、
琉球に多くの寺や梵鐘を造ります。
まるで王統の呪いを払うかのように…。
しかし、皮肉なことに、
尚泰久が即位して5年後に護佐丸・阿麻和利の乱、
そしてその2年後に、尚泰久も在位7年でこの世を去るのです。
そして、その跡を継いだ尚徳の時代に、
金丸(派)によるクーデター勃発。
第一尚氏王統は、63年7代の短い時代を終えるのです。
やっぱりなんか、運命的なものを感じますよねぇ。。。
ね、こういうの知ってると、
舞台もまた、面白いでしょう?
先日の、琉球歴女な琉球史講座ではこんなノリでやらせていただきましたよ。
(パワポのアニメーションコンテンツ使ってやりました)
画像も講座で使った資料の一部です☆
(一部ブログ用に加工してますが)
歴史ブログ 琉球・沖縄史
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