がじゅまるの樹の下で。

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布里=○○説

2012年05月11日 | ・琉球史散策/第一尚氏

古琉球の偉人たちの、素顔と言うか、
その人となりは謎だらけ。

なので色々な伝承や調査などを元にその謎を解いていく…、
というのも歴史の楽しみ方ひとつ。

で、ワタシはこのように色んな人が色んな方法で
色んな解釈をした人物像や人物関係を知るのが好き。

人によって様々な解釈、人物像や仮説があって実に面白い。
(たとえ舞台や小説などのフィクションであっても)

だって、モノの見方は1つじゃないし、
歴史の真実も1つとは限らないし。

「なるほど、こんな解釈の仕方もあるのか~
っていうのは新鮮で飽きません。

中には実にぶっとんだ解釈もあってズッコケる(※心象表現)こともありますが
でもそんな突飛な説もまた楽し(笑)
(百十踏揚悪女説とか、賢雄は元々阿麻和利の部下だった説とか)

 

というわけで、今日はそんな「新たな人物像(仮説)」をご紹介!

今回の主役は先週墓参りした、布里!

 

大正14年、この布里について口伝・伝説をたどって調査した
島袋源一郎氏による、こんな布里像。

 

 

 

布里は懐機だった。

 

 

 

えっ、どーゆーこと!?Σ(゜д゜;)

 

というわけで本文抜粋↓

 

玉城村字富里に江洲という旧家があって
「元祖小宗尚布里」と いう位牌を祀ってある。

当戸主(60歳くらい)の語るところによれば、
自分の祖先は恥ずかしながら王位を傾 けようとして事敗れ、
当地に逃れてきたそうである。

崇元寺よりイビガマまでの道路はこの人が造ったと伝え、
また剃髪して長寿寺にいたとのことで今も同所を拝礼している。

果たして、しからば正史に(ある)長虹堤を築いた徳望家の懐機(と)は
この布里のことであろうか?

懐機は正長元年、巴志王の7年、王茂についで国相となり
尚忠、尚思達、尚金福にいたる 20余年在職している。
泰久王にいたりては国相(摂政)氏名伝わらずと記してある。
 

『伝説補遺沖縄歴史』(1932年) 島袋源一郎著 P155~156

 

ぎゃふん。

 

しかも布里、

剃髪してまさかの出家。

本文にある「長寿寺」も懐機がたてたお寺だそうです。

 

布里=懐機説、

ええぇ~~~???
そりゃぁ、2人の活動期は一緒だけど同一人物説はさすがに無理あるっしょ!

って思うけど、長虹堤建設を懐機と布里が
共同で指揮してたってのはあり得るかも。

 

この説を支持するかどうかさておき、
でもこのような布里像を提案されたら
また布里がちょっと違った人物に思えてくるのはオモシロイですね

 

この説、戦前のものだけど、
やっぱ、古いものほど新しくて新鮮だわ~(笑)

 


今回のネタ提供は上里さんでした~
ブログ掲載了承済☆

2枚目の写真はうるま市の江洲グスクです(一昨年撮影)。
勝連の阿麻和利に対して、
江洲グスクに布里、越来グスクに泰久で備えた…
というのも1つの解釈?
 


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