がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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明日14:00~名桜大学

2012年05月19日 | ・現代版組踊レポ

 

以前お伝えした
現代版組踊塾Teamシンカヌチャーの代表メンバーによる
「岩手派遣報告会」

昨日の沖縄タイムスに載っていたので再度ご紹介

 

報告会は明日、14:00~、名護の名桜大学にて。

 

現代版組踊 岩手派遣メンバー
岩手派遣報告会
 

5月20日(日)
場所 名桜大学 多目的ホール
開場/13:30  開演/14:00~15:30(予定)


*アトラクションあり*
入場料無料

 

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島添大里グスク

2012年05月19日 | ・琉球史散策/グスク時代

前回紹介した「チチンガー」のすぐそばにあるのが
南山で権威を誇っていたもうひとつのグスク、島添大里グスク。

琉球史に興味を持ち始めた時、
尚巴志の三山統一までの細かい経緯や、
この「南山」というエリアの立ち位置がイマイチどうもよく掴めなかった記憶があります

尚巴志は佐敷の出で南山所属なのに、
なんで南山を制する前に中山を討伐したの?

尚巴志が島添大里を倒したのに、
南山はどうもしなかったの?

島添大里グスクと、南山グスクの力関係は?

琉球史に関してはワタシは全部独学で
誰かに整理して筋立て教えてもらったわけではないので
なんとなくわかったような、わからないような…
という感じでした

とりあえず、南山は按司たちの「連合政権」という色が濃く、
ワタシたちが一般的に連想する「王国」という
(王を頂点としたピラミッド型の国組織)
確固たる基盤はかなり薄かったみたいですね。

内部争いもあってのそんなこんなで
(詳しくは「琉球戦国列伝」を読んでね(笑)相関図もあるので分かりやすいです☆)
南山はイマイチ「国」としてのまとまりがなく、
実質、2つのグループに分かれることになるようです。

それが、
島尻大里グスク(南山グスク)と、
島添大里グスク。

そのうちの1つの勢力「島添大里グスク」を、
隣のいち小勢力にすぎなかった佐敷の尚巴志が討ちとったものだから
さあ大変!

これによって佐敷の小按司・尚巴志は「島添大里エリア」と、
元々治めていた「佐敷エリア」、…と付随するその周辺を
我が領土に治めるわけですね。

つまり、南山の約半分をまず攻略。

これまでの「島添大里按司」のポジションを
尚巴志が取って変わります。

で、もう一つの勢力である「島尻大里グスク(南山グスク)」は
ひとまず置いておき、次の目標を中山に定めるのございます。

あと半分の島尻大里エリアは放っておいても
とりあえず大丈夫と判断したのでしょうかね。

もしくは……、はてさて。

で、尚巴志は拠点を佐敷グスクからこの島添大里グスクに移り、
その4年後、中山(武寧)攻略へとコマを進めるわけであります。

南山に属する小さな地方按司にすぎなかった尚巴志が天下をとれたのも、
このような南山のまとまりのなさや内部のごたごた、
不安定さがあったからなのかもしれませんね。

尚巴志が元々中山エリアに生まれていたら、
また歴史は違ったのかもしれません。

というわけで、尚巴志の最初の攻略の地、
島添大里グスク!

実際に尚巴志が住んだグスクでもあります。

そして…アノ蟹の甲羅が大量発掘された場所(笑)

さあ、蟹好きは尚巴志か、はたまたその前の島添大里按司なのか!?(笑)

↑↓一の郭、正殿跡。

ちょっと高くなっている所に正殿があったようです。

一段高い所に正殿、

その下に広場(御庭)。

典型的なグスクの造り。

↑手前の石は基壇に登る階段の跡…だっけな?
(いかん、この写真の記憶がない…

グスクの石は崩されたり移動してたりリサイクルされていたりと
(特に礎石のリサイクル率高し(笑))
全て当時のまま、というわけではないようですが、

正殿の礎石が残されていましたよ。
分かりにくいので線を引いてみました。

分かるかな?

正殿跡の背後はこんな感じ。

絶壁!

見晴らしいい!

展望台もありました。

展望台から見た首里方面をチェック!

天気がよかったらもっときれいに見えていたのかもしれませんが、
(この時間、もう夕方で曇り空…)

「この辺」をカメラのズームレンズで拡大してみると…

首里城がくっきり!

東のアザナまで。

当時は周りに余計なものもなくて
もっとよく見えていたでしょうね。

尚巴志は中山攻略後、首里城を今の位置に建設し移りますが、
この島添大里グスクも同時に使っていたようです。

「別荘」的な感じ?

これだけお互いがはっきり見えているなら
行き来してというのも納得ですね。

復元図が見れるのは嬉しい。

晴れた日なら中城・勝連の方まで見えるのかな?

島添大里グスク、思っていたよりも広かったです。

南山で勢力が誇っていたというのもなんか納得。

お墓もありましたが…

残念ながらこれは島添大里按司のお墓には非ず。

今回は参ることは叶いませんでした。

また天気がいい時に行けたらいいな

ちなみに小説『琉球三国志』(加藤真司著)では
島添大里按司と尚巴志の関係にあるフィクション(説)を入れてきています。
また、尚巴志と思紹の関係もなかなかリアルでオモシロイです。

紹介しようかと思ったらけど、ヤメておこう。

図書館などで探して是非ご一読くだされ。

 


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