これは「勝連村史」(町じゃなくて村)に掲載されていた
阿麻和利のお墓の写真です。
勝連村史が1966年発行なので
その頃の様子かと思われます。
岩に茂った木と、藪。
辺りはたしかに何もない原野のような雰囲気です。
(阿麻和利が殺されたのはマルチャバタキ[俎畑]と呼ばれる
不毛の地だったと言う伝承があります)
そしてこれが、何年かがたって、
辺りに人が住み始めた時期の写真。
って言うのは嘘で、
実は「阿麻和利のお墓なう」です。
うそーーーー!!!Σ(゜д゜;)
何と、奥のエリアがごっそり伐採されて平地に!
手前の畑も全部ではないにしてもつぶされて
車が通れるようになってた!
(撮影は今年の1月中旬。あー、画質が荒い…;)
何?何!?何ができるの?
家?アパート?駐車場?!
なんか雰囲気がまるで変わっちゃって
ちょっとショックでした…(ノД`)
ところでこの阿麻和利のお墓。
「謎の穴」は相変わらずなんですが、
なんか放置されているのを見ると
今は何もないんだろうなぁ…と感じました。
(穴、ちゃんとした調査とかではなかったっぽい…?)
戦前(昭和14年)に行われた島袋源一郎氏による調査では
内部には木棺一個、陶棺二個、石棺一個があり、
奥のほうの木棺は腐朽倒壊していたが、
構造が今帰仁運天の百按司墓や、
南山王族の墓の骨箱と同様で…
とあり、
(参「新説 阿麻和利考」/高宮城宏著)
“それらしい”古琉球の匂いもするのですが、
戦争でどうにかなってしまったのか、
それとも…。
ところで。
正史によると阿麻和利は勝連で王軍に攻められ、
賢雄に斬られたことになっていますが、
昨年肝高の阿麻和利公演で読谷に行った時にふと、
阿麻和利ってやっぱり読谷で死んだんだろうなぁ
と、妙にそう感じました。
個人的には勝連で城と共に死んだ説をとりたい派なんだけど。
「百十踏揚」の小説のように。
じゃあ、なんで正史では「勝連で死んだ」と書いているか?
ってことなんですが、
…そりゃ、
「取り逃がしちゃった(*σ・ω・`*)☆」(テヘペロ)
っては書けないわな。
と。
もちろん真相は分かりませんが、
とりあえず「阿麻和利のお墓」と伝わるその存在自体が
興味をそそる史跡です。
周りが開発されていくのかもしれないけど
それなりに調査・保護はしてほしいですね。