がじゅまるの樹の下で。

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阿麻和利のお墓の変遷

2014年02月06日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

これは「勝連村史」(町じゃなくて村)に掲載されていた
阿麻和利のお墓の写真です。

勝連村史が1966年発行なので
その頃の様子かと思われます。

岩に茂った木と、藪。

辺りはたしかに何もない原野のような雰囲気です。

(阿麻和利が殺されたのはマルチャバタキ[俎畑]と呼ばれる
不毛の地だったと言う伝承があります)

 

 

そしてこれが、何年かがたって、

辺りに人が住み始めた時期の写真。

 

 

 

 

 

 

 

って言うのは嘘で、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は「阿麻和利のお墓なう」です。

 

 

 

うそーーーー!!!Σ(゜д゜;)

 

何と、奥のエリアがごっそり伐採されて平地に!

手前の畑も全部ではないにしてもつぶされて
車が通れるようになってた!

(撮影は今年の1月中旬。あー、画質が荒い…;)

 

何?何!?何ができるの?

家?アパート?駐車場?!

 

なんか雰囲気がまるで変わっちゃって
ちょっとショックでした…(ノД`)

 

 

ところでこの阿麻和利のお墓。

謎の穴」は相変わらずなんですが、
なんか放置されているのを見ると
今は何もないんだろうなぁ…と感じました。
(穴、ちゃんとした調査とかではなかったっぽい…?)

戦前(昭和14年)に行われた島袋源一郎氏による調査では

内部には木棺一個、陶棺二個、石棺一個があり、
奥のほうの木棺は腐朽倒壊していたが、
構造が今帰仁運天の百按司墓や、
南山王族の墓の骨箱と同様で…

とあり、
(参「新説 阿麻和利考」/高宮城宏著)

“それらしい”古琉球の匂いもするのですが、

戦争でどうにかなってしまったのか、
それとも…。

 

ところで。

正史によると阿麻和利は勝連で王軍に攻められ、
賢雄に斬られたことになっていますが、

昨年肝高の阿麻和利公演で読谷に行った時にふと、
阿麻和利ってやっぱり読谷で死んだんだろうなぁ
と、妙にそう感じました。


個人的には勝連で城と共に死んだ説をとりたい派なんだけど。
「百十踏揚」の小説のように。

 

じゃあ、なんで正史では「勝連で死んだ」と書いているか?

ってことなんですが、

…そりゃ、


「取り逃がしちゃった(*σ・ω・`*)☆」(テヘペロ)


っては書けないわな。

と。

 

もちろん真相は分かりませんが、
とりあえず「阿麻和利のお墓」と伝わるその存在自体が
興味をそそる史跡です。

周りが開発されていくのかもしれないけど
それなりに調査・保護はしてほしいですね。

 


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