山里ひぐらしの小径

木曽路の入り口、岐阜県中津川市から
人と自然とのかかわりをテーマに、山里、植物、離島など。

Sulawesi トマクラ→南まくら→トマテ

2008-10-05 | インドネシア
偶然、3日ほど前、NHKのBSで、インドネシア・スラウェシ島、タナ・トラジャを取材したドキュメンタリーをやっていた(われながらよく見つけたものだ)。
トラジャの人のなかに、先祖のミイラを売ってお金を作り葬式費用にあてている人がいるという話だった。

トラジャはお葬式が一大イベントで、一種の村祭りを役割を果たしているようにも見え、観光資源になっている。お葬式の派手さはおさまることなく、全財産をつぎこんだりしてしまう。さらにお金が足りないとどうするか、という話である。
このテレビ番組での話は、いろいろと私がトラジャで聞いてきた話とずれていることもあったので、そのうちもっとよく聞いてみたいと思っている。

私は予備知識なくトラジャに行き、この文化と偶然出合った。
トラジャでは死んだ人のことをひとまずトマクラと呼ぶ。かれらは「いまだ病気」の状態とされて、多くは西枕で、腐敗しない処理をされてお葬式の日が来るまで家の中に寝かされ、家族とともにすごしている。お葬式の日、トマクラな人は南枕にされ、それが「死んだ人(トマテ)」と見なされる合図である。
日本では死んだ人は北枕だけど、反対なのが面白い。南半球だから? と思ったけど。

でもって、トマクラってのはつまりミイラのことね、としばらくして気づいたのであります。
お葬式は大イベントで執行までに準備が大変なので、数ヶ月トマクラですごすというのは普通。私が聞いた一番長い例で、47年というのがあった。

お葬式後、トマテとなったミイラは墓に入れられるけど、その後でそのミイラを取り出して売るという事例があるらしい。ミイラのコレクターがいるとか。もちろん外人です。


ちなみにトラジャ語でトっていうのは人のことです。

写真は葬式風景。葬式はトラジャ語でランブー・ソロといい、煙が下へ向かうという意味。煙は台所(いろりの火)をあらわしています。

マカッサルと東京の間で/低エネルギーで暮らす

2008-10-05 | 山里
「マカッサルと東京の間で」というブログを、7月末にインドネシア・スラウェシ島から帰って以来、愛読している。
http://makassar-tokyo.blogspot.com/
スラウェシ島で仕事をされている日本人が書かれているもので、私はこれによって自分の訪れたスラウェシ島のさまざまを学ぶことができている。
スラウェシ人との英語による会話で得られる情報にはどうしても限りがあるので、日本語で読めるのがありがたい。
写真が多く、日々スラウェシを身近に感じることができ、おかげで幸か不幸か私はいまだにスラウェシ島を忘れずにいて、再訪する機会をうかがっている。
こんなローカルなブログを愛読するが何人いるのだろう……と思わぬでもない。
意外と多いのか。少なくとも熱い人ばっかなんだろう。

そのブログに、このブログのリンクを貼っていただけているのに感激してます!
スラウェシつながりです!
というお話でした……。。

で、まあそれだけでもいけないので思っていることを書くのですが
海外の人やその暮らしを支援するために身を投じるなんていうのは、どういうことなんだろう。普通は自分の暮らしだけで必死なのに。そのことが私には不思議である。
けれども、よそから勝手に中津川に来て、山里のことばっかやっている私に、「不思議だ、なんでよその土地のことにそんなに一生懸命になれるのか。理由がわからない」とうちのスタッフのショーコさんはよく言う。
なんで、って言われても。
人間って理由のない気持ちに動かされているものなんですね。

行ってみたい国、見てみたい暮らしは数々ある。ほんと、きりがないくらいある。
しかし、とりあえず今はスラゥエシにつかまってしまったということ? 理由なんか絶対ない!
それに、とりあえず今、だから。明日はどうなるか。

インドネシアなんか大嫌い!と思ったこともある。
第一に、濡れたトイレの床。生活習慣の違いだからいい悪いの問題ではない。インドネシアではひしゃくですくった水でトイレを流す。ついでに体も洗う。その水が床をぬらす。インドネシア人にとってはそれはそれで清潔なんだと思う。
でも私はその濡れたトイレの床がゆるせない。自分の靴でそこを踏み、その靴を履き続けていなければならないことがゆるせない!
日本にはトイレの履き替え下駄ってやつがある。どうしてインドネシアにはないのか!

それと公衆道徳のなさ。
バスに乗るのに平気で割り込むし(そもそも順番なんてものがないらしい)。
一晩フェリーに乗ったら、その床はバナナの皮やらピーナツの皮やら、お菓子の包み紙やらペットボトルやら、一面に捨てられて、その汚らしいことといったらない。あのときは本当にいやになった。
ということはインドネシア人は不潔なのかというと、彼らの家の中はゴミ一つなくびっくりするくらいきれいである。
汚いのは道路やバスや船といった公共の場所。
要するに自分さえよければいいんかい! といいたくなった。

しかし誰だったかがいっていた。日本も昔はそうだったって。
汽車の窓からゴミ捨て放題だったと。
日本もよくなったところがあるんだ……。
だから今のインドネシア人を一方的に責めてるわけではないです。
日本人もインドネシアで恥ずかしいことたくさんしてるし。

そして、フェリーの甲板からペットボトルを捨てつつある子どもを注意しなかった自分を、今となってはひどく恥じている。外人だって関係ないじゃないの。海はつながってるんだし。今度みかけたら絶対制してやるわ。
今頃あのペットボトルのかけらを飲みこんだウミガメが渥美半島で卵産んでるかもしれない。

一方で、日本人や、先進国の人間は、エネルギーをものすごく使っていて(これは環境問題を語るとき必ず出る話だけど)、インドネシアの人たちは石油産出国であるにもかかわらず低エネルギーで暮らしていることも実感し、そこでも自分を恥じねばならなかった。
彼らはお湯のシャワーを使うこともない(高いから使えないと言っていた)。日本人のようにふんだんに紙を消費したり使い捨て容器を使ったりしない。もちろん暑いところなら水シャワーでもいいけど、トラジャのような涼しいところでは、水シャワーは私にはつらい。お湯シャワーを使わせてもらうたびに申し訳ない気持ちになった。

いわゆる「金持ち」の日本人やヨーロッパ人はインドネシアでもふんだんにエネルギーを使い、インドネシア人は「自分たちはお金がないから観光でお金を落としていってくれ」と乞う。そうして先進国と同様になりたがっているように見える。当たり前である。そのほうが楽な暮らしだもの。
何をえらそうなことをインドネシア人に言えるだろうか。

山里の昔を取材していても、同じことを思う。
いったん楽に慣れてしまえば、もうどうしようもないのが人間の性なのか。
そして楽をするために科学を発達させてきたのだけど。
どうにかならないのだろうか。
そして私は誰よりも楽をしたい人間であると自覚している。


写真はスラウェシの典型的な家。