3月10日(火)、太陽が出たり雨が降ったりの変わりやすい冬の空模様でした。
お昼前後に1時間ほど買い物に出たほかは、確定申告の書類作成。
かなり捗りました。明日には提出できるでしょう。
去年も3月11日の提出でした。毎年のことですが、提出が終わると、気持ちがスーッとします。
今日は会報14号を見ながら、当時の記憶を辿ります。
発行日は、昭和54年4月10日です。
編集後記に「上京したついでに、熱海に寄った」と書いています。
熱海は、梅園という所です。
熱海に豊島龍山の家族が住んでいることを、何かの雑誌で知ったとも書いていますが、雑誌の名前は忘れました。
娘さんが熱海でスナックの店を開いていることも知りました。
とにかく事前にアポイントをとって、熱海で下車し、龍山の未亡人を訪ねました。
お歳は70歳ぐらいでしたか、ご主人が昭和15年に亡くなって、以来、女手で一男一女を育てられたのでしょう。
姉の美智子さんは、昔、東宝だったか大映だったか、河内桃子さんと同期のニューフェース。私が訪ねたときは、すでに引退して久しかったのですが、チラッと見たお顔は美人でした。
未亡人「トミ」さんには、昔話を聞きました。
それから2回ほどお訪ねして、1回は、増市さんを誘って2人で出かけました。
同家に残る唯一の「龍山作」の駒も見せていただきました。写真にも撮って「名駒大鑑」にも載せています。129ページの駒がそれです。
ほかにも「龍山作」の駒が、2つ3つありました。
1組は、売っていただきました。それが13ページの「源兵衛清安」です。
これは、戦後に作られた「龍山作」です。しかし、偽物ということではありません。
余談ですが、「名駒大鑑」には、豊島龍山の作と、そうでない「龍山作」とは、よく読めば判るようになっています。ザーッと、読み飛ばすと判らないかもしれません。2回3回よく読んでいただくと、ほかにも気がつくところがあるはずです。
ご主人の豊島龍山こと数次郎さん亡きあと、トミさんには生活があります。
一家を食わせるために昔から行き来のある駒師Kに「龍山」の銘で駒を作らせて商いしていたわけです。それが、昭和50年近くまで続いていました。
「龍山作」は、豊島家のブランドと考えれば、軽々しく偽物ともいえないわけです。
ただ、同じ「龍山作」も、2通りある、ということです。さらにその父のものと合わせれば、3通りあることになりますが、初代作のものには銘が入っていないものは知っていますが、初代で「龍山作」の銘を入れている駒は私は知りません。
トミさんには、無理を言って「龍山」ゆかりの駒づくりの遺品を蜜柑箱に2つほど譲っていただきました。
蜜柑箱には作りかけの駒、余分に作って余った駒、出来の悪い駒、実際に使っていた字母紙、肉筆で書かれた字母紙、字母にするために彫った駒、字母の判子、龍山の判子などなど。
ただしご主人の作られた、あの「錦旗」の駒と「龍山字母帳」は、大切なものだから手元に残して起きたいということでした。
「龍山字母帳」は、コピー許可をいただいて、2週間ほど拝借し、約束どおり返却しました。
龍山の字母帳は「名駒大鑑」で、紹介しましたが、著作権を配慮して、どの書体も一部の文字のみに止めました。
トミさんは、15年か20年近く前に亡くなりました。子息ご兄弟は健在です。
去年、弟さん(名前は明日調べて追記します)から手紙を頂戴しました。
豊島家の話に、走りすぎました。
会報に話を戻しますと、14号では「雅号の登録」を呼びかけました。
雅号は「龍山」とか「影水」とか、あの「作者銘」のことです。
雅号は思い思いに使っても構いませんが、他人とダブってもどうかと思うので、登録して公表することで、ダブりを防ぎ、皆に知ってもらうわけです。
14号の「雅号登録」リストには16人の方が登録されました。
「うるし室の工夫」を北田義之さんが投稿しています。
木製の箱に棚をつけて、小さな白熱電灯を点ける。その熱で温度を保って、漆が順調に乾きやすくするという工夫です。
小生も当時、プロになりたいなろうとした心情を述べています。
若かったころの心情です。
編集後記には、変な「水無瀬兼成書」の駒が出回り始めたことに触れています。
現在は時々見かける書体ですが、この1年前に将棋専門誌「」で、「水無瀬駒」特集をしましたが、その文字とは似ても似つかぬ駒が「水無瀬兼成書」銘の駒が、当時、出回り始めたようですね。
夜も更けました。ではまた。
お昼前後に1時間ほど買い物に出たほかは、確定申告の書類作成。
かなり捗りました。明日には提出できるでしょう。
去年も3月11日の提出でした。毎年のことですが、提出が終わると、気持ちがスーッとします。
今日は会報14号を見ながら、当時の記憶を辿ります。
発行日は、昭和54年4月10日です。
編集後記に「上京したついでに、熱海に寄った」と書いています。
熱海は、梅園という所です。
熱海に豊島龍山の家族が住んでいることを、何かの雑誌で知ったとも書いていますが、雑誌の名前は忘れました。
娘さんが熱海でスナックの店を開いていることも知りました。
とにかく事前にアポイントをとって、熱海で下車し、龍山の未亡人を訪ねました。
お歳は70歳ぐらいでしたか、ご主人が昭和15年に亡くなって、以来、女手で一男一女を育てられたのでしょう。
姉の美智子さんは、昔、東宝だったか大映だったか、河内桃子さんと同期のニューフェース。私が訪ねたときは、すでに引退して久しかったのですが、チラッと見たお顔は美人でした。
未亡人「トミ」さんには、昔話を聞きました。
それから2回ほどお訪ねして、1回は、増市さんを誘って2人で出かけました。
同家に残る唯一の「龍山作」の駒も見せていただきました。写真にも撮って「名駒大鑑」にも載せています。129ページの駒がそれです。
ほかにも「龍山作」の駒が、2つ3つありました。
1組は、売っていただきました。それが13ページの「源兵衛清安」です。
これは、戦後に作られた「龍山作」です。しかし、偽物ということではありません。
余談ですが、「名駒大鑑」には、豊島龍山の作と、そうでない「龍山作」とは、よく読めば判るようになっています。ザーッと、読み飛ばすと判らないかもしれません。2回3回よく読んでいただくと、ほかにも気がつくところがあるはずです。
ご主人の豊島龍山こと数次郎さん亡きあと、トミさんには生活があります。
一家を食わせるために昔から行き来のある駒師Kに「龍山」の銘で駒を作らせて商いしていたわけです。それが、昭和50年近くまで続いていました。
「龍山作」は、豊島家のブランドと考えれば、軽々しく偽物ともいえないわけです。
ただ、同じ「龍山作」も、2通りある、ということです。さらにその父のものと合わせれば、3通りあることになりますが、初代作のものには銘が入っていないものは知っていますが、初代で「龍山作」の銘を入れている駒は私は知りません。
トミさんには、無理を言って「龍山」ゆかりの駒づくりの遺品を蜜柑箱に2つほど譲っていただきました。
蜜柑箱には作りかけの駒、余分に作って余った駒、出来の悪い駒、実際に使っていた字母紙、肉筆で書かれた字母紙、字母にするために彫った駒、字母の判子、龍山の判子などなど。
ただしご主人の作られた、あの「錦旗」の駒と「龍山字母帳」は、大切なものだから手元に残して起きたいということでした。
「龍山字母帳」は、コピー許可をいただいて、2週間ほど拝借し、約束どおり返却しました。
龍山の字母帳は「名駒大鑑」で、紹介しましたが、著作権を配慮して、どの書体も一部の文字のみに止めました。
トミさんは、15年か20年近く前に亡くなりました。子息ご兄弟は健在です。
去年、弟さん(名前は明日調べて追記します)から手紙を頂戴しました。
豊島家の話に、走りすぎました。
会報に話を戻しますと、14号では「雅号の登録」を呼びかけました。
雅号は「龍山」とか「影水」とか、あの「作者銘」のことです。
雅号は思い思いに使っても構いませんが、他人とダブってもどうかと思うので、登録して公表することで、ダブりを防ぎ、皆に知ってもらうわけです。
14号の「雅号登録」リストには16人の方が登録されました。
「うるし室の工夫」を北田義之さんが投稿しています。
木製の箱に棚をつけて、小さな白熱電灯を点ける。その熱で温度を保って、漆が順調に乾きやすくするという工夫です。
小生も当時、プロになりたいなろうとした心情を述べています。
若かったころの心情です。
編集後記には、変な「水無瀬兼成書」の駒が出回り始めたことに触れています。
現在は時々見かける書体ですが、この1年前に将棋専門誌「」で、「水無瀬駒」特集をしましたが、その文字とは似ても似つかぬ駒が「水無瀬兼成書」銘の駒が、当時、出回り始めたようですね。
夜も更けました。ではまた。
駒の写真集
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