前頁の続きですが、必要なところを書き直して、最初から掲載します。
ーーー小生の返事としてーーー
例の蒔絵将棋盤について、ご質問に関して小生の知るところと考えを申し上げます。
先ず、ネット上で、色々な書き込みがあることは承知しています。
しかしその多くは、実物を見ていないまま不足した知識で分かっていないことを勝手な思い込みで書き込み、あるいは勝手な解釈による的を得ていないことをあたかも事実のごとく、更には恣意的な作り話などが、本当のごとく書き込みがなされているというのが現状です。
それに一々、反論していてもセンないことですが、直接のご質問にはそれぞれお答えしてきました。
この件に関して、ブログ上でこれまで質問が無かったのが不思議でした。
では、kimuさんの質問にお答えします。
1、まず、このような大名道具の製作に当たっては、「総合プロデューサー」の存在が欠かせません。100点以上もの婚礼道具全体をどのようなものにするかや、全体を通じて統一的なデザインを決めるのも、その人の役割です。
職人の出番は、その後です。
職人といえども、名のある総元締め(例えば「○○阿弥」)の下で、塗師・下地師・蒔絵師など多くの職人の手によって、餅屋は餅屋の技で個々の工程が進められ、作られてゆくことになります。
将棋盤以外にも、碁盤とか双六盤、あるいは「棚」やその他の道具も、どこかに残っているかもしれません。それが出てくれば、色々なことが分かると思います。
とにかく、それらが何年もかかって、当時の最高級レベルの技で作られたわけです。
ところで、もう一つ不可欠なのが「木地師」。
一口に木地師と言っても、指し物と轆轤では専門が異なります。
蒔絵の将棋盤の場合は、「盤師」が先ず木地仕上げの将棋盤を作って、「○○阿弥」に収め、そこで塗師・蒔絵師などが、最後の仕上げをします。
「駒箱」は、指し物師の領域ですから、盤とは別です。
現に、今回の場合、それぞれの品物が収められている黒塗りの「総箱」ですが、盤は「槍鉋」づくり、駒箱の方は「台鉋」づくりで、別々の環境で作られた事が分かります。
勿論、表題の御家流「村梨子地若松唐草・・」の文字は、全ての道具が出来上がった時点で、一人の手によって統一的に書かれました。
このように、何人もの職人はあくまで下職として存在していたわけで、最後の蒔絵やキリガネは別々の技術であり、何人もの専門家が分担していた訳です。
ところで、ご質問の「紋の剥落」に関してですが、それぞれの職人は、当時の最高の技術で最新の注意を払って作成した事は勿論でしょう。
しかし、それがどうして200年後の今、「浮いたり、剥がれたり」したのかという質問ですが、これは「キリガネ」という工法に原因があると思っています。
具体的には、もう少し後でご説明します。
以前のブログで「キリガネ」は、工法的に2種類があると書きました。
一つは、ごく薄い「金箔」を5枚とか8枚とかを貼り合わせて分厚くし、それを細いテープ状にしたり、模様に切りだしたものを蒔絵のバリエーションとして貼り付けて、その模様を浮きだたせる「截金」。これは、仏像の衣の線などに多く使われているようです。
もう一つは、「金の薄い延べ板」を意図する形に切りだして、蒔絵の変化の一つとして加飾する「切り金」です。こちらは、比較的高級な蒔絵で1~2ミリ角ほどの小さな金が使われているのが多く、よく見かけます。
「金平文(キンヒョウモン)」は、どちらかと後者の親戚のような工法で、「切り金」の延べ板がもう少し分厚いものが使われたものです。
これらの工法は、金そのものが露出し、そこが「ピカーッ」と光り輝くので、普通の漆でコーティングされた鈍い輝きの金蒔絵とのコントラストが生まれます。
朝日新聞の記事では「金貝(カナガイ)」という言葉が使われていますが、「金貝」は、「キリガネ」や「金平文」をひっくるめたものいを意味する大きな用語で、更に厚い板を用いた「平脱(ヘイダツ)」も含まれた言葉になります。
前提は以上の通りですが、「議論になっている盤」は、これら工法の内、一部に最初に述べた「截金」が用いられているようです。
皆さんの多くは、「家紋(盤の各側面の3つの内、左側の紋と、駒箱の天面にあるの紋)」のことしか頭にないまま議論しているようですが、この盤と駒箱には紋以外にも、この「截金」が
使われています。
それは、ハート形の「唐草の葉っぱ」の何枚かです。紋も同様ですが、他とは光り方が違うので見れば分かります。
面積も小さいので、大きな家紋ほどは痛んでおりませんが、よく見ると多少浮いたりしているものもあります。
この「唐草の葉」のことはテレビでも言っておりませんので、見落としているようです。
さらに良く見ると、その内の1枚は、既に修理済みになっています。
浮いた「キリガネ」を押さえてあるのですが、いつ頃の修理かは分かりません。ずーっと昔のことだろうと思います。
議論をするにあたっては、正確に現状認識することが大切ですので、以上の事柄を前提にご説明し、お答えします。
(ここまでで、1時間かかりました。ご返事の主文はこれからですが、まだまだ時間がかかります。この調子で行くと、1日では書ききれないかもしれません。
文章は短くしたいので、ページを分けて書くことにします)
ーーー小生の返事としてーーー
例の蒔絵将棋盤について、ご質問に関して小生の知るところと考えを申し上げます。
先ず、ネット上で、色々な書き込みがあることは承知しています。
しかしその多くは、実物を見ていないまま不足した知識で分かっていないことを勝手な思い込みで書き込み、あるいは勝手な解釈による的を得ていないことをあたかも事実のごとく、更には恣意的な作り話などが、本当のごとく書き込みがなされているというのが現状です。
それに一々、反論していてもセンないことですが、直接のご質問にはそれぞれお答えしてきました。
この件に関して、ブログ上でこれまで質問が無かったのが不思議でした。
では、kimuさんの質問にお答えします。
1、まず、このような大名道具の製作に当たっては、「総合プロデューサー」の存在が欠かせません。100点以上もの婚礼道具全体をどのようなものにするかや、全体を通じて統一的なデザインを決めるのも、その人の役割です。
職人の出番は、その後です。
職人といえども、名のある総元締め(例えば「○○阿弥」)の下で、塗師・下地師・蒔絵師など多くの職人の手によって、餅屋は餅屋の技で個々の工程が進められ、作られてゆくことになります。
将棋盤以外にも、碁盤とか双六盤、あるいは「棚」やその他の道具も、どこかに残っているかもしれません。それが出てくれば、色々なことが分かると思います。
とにかく、それらが何年もかかって、当時の最高級レベルの技で作られたわけです。
ところで、もう一つ不可欠なのが「木地師」。
一口に木地師と言っても、指し物と轆轤では専門が異なります。
蒔絵の将棋盤の場合は、「盤師」が先ず木地仕上げの将棋盤を作って、「○○阿弥」に収め、そこで塗師・蒔絵師などが、最後の仕上げをします。
「駒箱」は、指し物師の領域ですから、盤とは別です。
現に、今回の場合、それぞれの品物が収められている黒塗りの「総箱」ですが、盤は「槍鉋」づくり、駒箱の方は「台鉋」づくりで、別々の環境で作られた事が分かります。
勿論、表題の御家流「村梨子地若松唐草・・」の文字は、全ての道具が出来上がった時点で、一人の手によって統一的に書かれました。
このように、何人もの職人はあくまで下職として存在していたわけで、最後の蒔絵やキリガネは別々の技術であり、何人もの専門家が分担していた訳です。
ところで、ご質問の「紋の剥落」に関してですが、それぞれの職人は、当時の最高の技術で最新の注意を払って作成した事は勿論でしょう。
しかし、それがどうして200年後の今、「浮いたり、剥がれたり」したのかという質問ですが、これは「キリガネ」という工法に原因があると思っています。
具体的には、もう少し後でご説明します。
以前のブログで「キリガネ」は、工法的に2種類があると書きました。
一つは、ごく薄い「金箔」を5枚とか8枚とかを貼り合わせて分厚くし、それを細いテープ状にしたり、模様に切りだしたものを蒔絵のバリエーションとして貼り付けて、その模様を浮きだたせる「截金」。これは、仏像の衣の線などに多く使われているようです。
もう一つは、「金の薄い延べ板」を意図する形に切りだして、蒔絵の変化の一つとして加飾する「切り金」です。こちらは、比較的高級な蒔絵で1~2ミリ角ほどの小さな金が使われているのが多く、よく見かけます。
「金平文(キンヒョウモン)」は、どちらかと後者の親戚のような工法で、「切り金」の延べ板がもう少し分厚いものが使われたものです。
これらの工法は、金そのものが露出し、そこが「ピカーッ」と光り輝くので、普通の漆でコーティングされた鈍い輝きの金蒔絵とのコントラストが生まれます。
朝日新聞の記事では「金貝(カナガイ)」という言葉が使われていますが、「金貝」は、「キリガネ」や「金平文」をひっくるめたものいを意味する大きな用語で、更に厚い板を用いた「平脱(ヘイダツ)」も含まれた言葉になります。
前提は以上の通りですが、「議論になっている盤」は、これら工法の内、一部に最初に述べた「截金」が用いられているようです。
皆さんの多くは、「家紋(盤の各側面の3つの内、左側の紋と、駒箱の天面にあるの紋)」のことしか頭にないまま議論しているようですが、この盤と駒箱には紋以外にも、この「截金」が
使われています。
それは、ハート形の「唐草の葉っぱ」の何枚かです。紋も同様ですが、他とは光り方が違うので見れば分かります。
面積も小さいので、大きな家紋ほどは痛んでおりませんが、よく見ると多少浮いたりしているものもあります。
この「唐草の葉」のことはテレビでも言っておりませんので、見落としているようです。
さらに良く見ると、その内の1枚は、既に修理済みになっています。
浮いた「キリガネ」を押さえてあるのですが、いつ頃の修理かは分かりません。ずーっと昔のことだろうと思います。
議論をするにあたっては、正確に現状認識することが大切ですので、以上の事柄を前提にご説明し、お答えします。
(ここまでで、1時間かかりました。ご返事の主文はこれからですが、まだまだ時間がかかります。この調子で行くと、1日では書ききれないかもしれません。
文章は短くしたいので、ページを分けて書くことにします)
9月21日(火)、曇り。
昨日は「彼岸の入り」、そして祝日「老人の日」。
小生にとっては、いつものとおりマイペースでの仕事でした。
先ほど「Kimu]さんから長文の質問が入っているのを見つけましたので、回答致します。
質問があった、9月3日「今朝の朝日新聞」のコメント欄での質問は、次のとおりです。
ーーーkimuさんのご質問ーーー
「最近の鑑定のやり取り興味深く見ております。
TVでも鑑定人はこの件については触れないようでいまいちよくわかりません。
質問があるのですが、まず劣化の部分ですがこの部分はこの部分だけ凝った作りをしたからということでしたが、職人たるもの、そういうところこそ慎重に慎重を重ね作るものなのではないのでしょうか?
また下地まで見える部分がありますが、これも経年劣化ですか?よくわからないのはいつ劣化し始めたのか?
新聞の中では短くですが、わずか1部を直したところも確認したとありますが、これは誰が
なおしたのでしょうか?また熊沢さんはこの盤の
現所有者の前の所有者だとかこの盤の経歴というものもご存知なのでしょうか?私としては
あまりに長く論争が続いているのは情報開示が双方不十分にあると思いまして、今一度、
もっと詳しく説明していただきたいと思います。
ちなみに盤そのものは美しく、貴重なものだと思います。
だからこそ凝ったつくりをしたから剥がれたというような中途半端なものを当時の職人さんが造ったとは思いたくないのです。
よろしくおねがいします。」
ーーー小生の返事としてーーー
例の蒔絵将棋盤について、ご質問に関して小生の知るところと考えを申し上げます。
先ず、ネット上で、色々な書き込みがあることは承知しています。
しかしその多くは、実物を見ていないまま不足した知識で分かっていないことを勝手な思い込みで書き込み、あるいは勝手な解釈による的を得ていないことをあたかも事実のごとく、更には恣意的な作り話などが、本当のごとく書き込みがなされているというのが現状です。
それに一々、反論していてもセンないことですが、直接のご質問にはそれぞれお答えしてきました。
この件に関して、ブログ上でこれまで質問が無かったのが不思議でした。
では、kimuさんの質問にお答えします。
1、まず、このような大名道具の作成に当たっては、「総合プロデューサー」が100点以上ある婚礼道具全体をどのようなものにするかや、全体を通じて統一的なデザインを決めたりします。
職人の出番は、その後です。
職人といえども、名のある総元締め(例えば「○○阿弥」)の下で、家中の塗師・下地師・蒔絵師など多くの職人の手によって、餅屋は餅屋の技で個々の工程が進められ、作られてゆくことになります。
将棋盤以外にも、これと同じ碁盤とか双六盤、あるいは「棚」やその他の道具も、どこかに残っているかもしれません。それが出てくれば、色々なことが分かると思います。
とにかく、それらが何年もかかって、当時の最高級レベルの技で作られたわけです。
ところで、もう一つ不可欠なのが「木地師」。塗りものの土台を作る人ですから、縁の下の力持ち的な存在で表には現れませんし、一口に木地師と言っても、指し物と轆轤では専門が異なります。
蒔絵の将棋盤の場合は、「盤師」が先ず木地仕上げの将棋盤を作って、総元締めの「○○阿弥」に収めます。
「駒箱」は、指し物師の領域ですから、盤とは別のところで作られます。
現に、今回の場合、それぞれの品物が収められている黒塗りの「総箱」ですが、盤は「槍鉋」づくり、駒箱の方は「台鉋」づくりで、「総箱」は別々に作られた事が分かります。
勿論、黒い漆塗りの上の御家流「村梨子地若松唐草・・」の文字は、全ての道具が出来上がった時点で、一人の手によって統一的に書かれています。
このように、何人もの職人はあくまで下職として存在していたわけで、最後の蒔絵やキリガネは別々の技術であり、何人かが分担していたと考えます。
ところで、ご質問の「紋の剥落」に関してですが、それぞれの職人は、当時の最高の技術で最新の注意を払って作成した事は勿論でしょう。
それが、どうして200年後の姿として「剥落」したのかという質問ですが、これは「キリガネ」という工法に原因があると思っています。
(食事の時間が来ました。ご返事はまだまだ長くなりますので、この続きは、夜にでも書きます)
では、また」。
昨日は「彼岸の入り」、そして祝日「老人の日」。
小生にとっては、いつものとおりマイペースでの仕事でした。
先ほど「Kimu]さんから長文の質問が入っているのを見つけましたので、回答致します。
質問があった、9月3日「今朝の朝日新聞」のコメント欄での質問は、次のとおりです。
ーーーkimuさんのご質問ーーー
「最近の鑑定のやり取り興味深く見ております。
TVでも鑑定人はこの件については触れないようでいまいちよくわかりません。
質問があるのですが、まず劣化の部分ですがこの部分はこの部分だけ凝った作りをしたからということでしたが、職人たるもの、そういうところこそ慎重に慎重を重ね作るものなのではないのでしょうか?
また下地まで見える部分がありますが、これも経年劣化ですか?よくわからないのはいつ劣化し始めたのか?
新聞の中では短くですが、わずか1部を直したところも確認したとありますが、これは誰が
なおしたのでしょうか?また熊沢さんはこの盤の
現所有者の前の所有者だとかこの盤の経歴というものもご存知なのでしょうか?私としては
あまりに長く論争が続いているのは情報開示が双方不十分にあると思いまして、今一度、
もっと詳しく説明していただきたいと思います。
ちなみに盤そのものは美しく、貴重なものだと思います。
だからこそ凝ったつくりをしたから剥がれたというような中途半端なものを当時の職人さんが造ったとは思いたくないのです。
よろしくおねがいします。」
ーーー小生の返事としてーーー
例の蒔絵将棋盤について、ご質問に関して小生の知るところと考えを申し上げます。
先ず、ネット上で、色々な書き込みがあることは承知しています。
しかしその多くは、実物を見ていないまま不足した知識で分かっていないことを勝手な思い込みで書き込み、あるいは勝手な解釈による的を得ていないことをあたかも事実のごとく、更には恣意的な作り話などが、本当のごとく書き込みがなされているというのが現状です。
それに一々、反論していてもセンないことですが、直接のご質問にはそれぞれお答えしてきました。
この件に関して、ブログ上でこれまで質問が無かったのが不思議でした。
では、kimuさんの質問にお答えします。
1、まず、このような大名道具の作成に当たっては、「総合プロデューサー」が100点以上ある婚礼道具全体をどのようなものにするかや、全体を通じて統一的なデザインを決めたりします。
職人の出番は、その後です。
職人といえども、名のある総元締め(例えば「○○阿弥」)の下で、家中の塗師・下地師・蒔絵師など多くの職人の手によって、餅屋は餅屋の技で個々の工程が進められ、作られてゆくことになります。
将棋盤以外にも、これと同じ碁盤とか双六盤、あるいは「棚」やその他の道具も、どこかに残っているかもしれません。それが出てくれば、色々なことが分かると思います。
とにかく、それらが何年もかかって、当時の最高級レベルの技で作られたわけです。
ところで、もう一つ不可欠なのが「木地師」。塗りものの土台を作る人ですから、縁の下の力持ち的な存在で表には現れませんし、一口に木地師と言っても、指し物と轆轤では専門が異なります。
蒔絵の将棋盤の場合は、「盤師」が先ず木地仕上げの将棋盤を作って、総元締めの「○○阿弥」に収めます。
「駒箱」は、指し物師の領域ですから、盤とは別のところで作られます。
現に、今回の場合、それぞれの品物が収められている黒塗りの「総箱」ですが、盤は「槍鉋」づくり、駒箱の方は「台鉋」づくりで、「総箱」は別々に作られた事が分かります。
勿論、黒い漆塗りの上の御家流「村梨子地若松唐草・・」の文字は、全ての道具が出来上がった時点で、一人の手によって統一的に書かれています。
このように、何人もの職人はあくまで下職として存在していたわけで、最後の蒔絵やキリガネは別々の技術であり、何人かが分担していたと考えます。
ところで、ご質問の「紋の剥落」に関してですが、それぞれの職人は、当時の最高の技術で最新の注意を払って作成した事は勿論でしょう。
それが、どうして200年後の姿として「剥落」したのかという質問ですが、これは「キリガネ」という工法に原因があると思っています。
(食事の時間が来ました。ご返事はまだまだ長くなりますので、この続きは、夜にでも書きます)
では、また」。
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