熊澤良尊の将棋駒三昧

生涯2冊目の本「駒と歩む」。ペンクラブ大賞受賞。送料込み5000円。
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作品 文章 写真 販売品

龍乕争珠

2013-06-09 05:21:30 | 文章
6月9日(日)、薄曇り。

曇ってはいますが、まずまずの天気続き。
昨日は、和歌山辺りで地震続き。
その内の一つは、加茂でもかすかな揺れを感じました。

ーーーー
先日の名人戦。
森内名人が背にするのは、床ノ間の「龍乕争珠」の掛け軸。
木村義雄14世名人の筆跡です。

良い書だな。
こんなのが遺されているのだなあ。
どなたが持っているのかなあ。
週刊将棋の一面を見て、こう思いました。
しかし、この書軸のことについて、記事には何も書いてありませんでした。

それから数日後。
驚きました。
書軸の出所が、小生の極く親しい方だったのです。
以下は、その方から直接聞いた経緯。
但し、持ち主のお名前は、敢えて伏せておきます。

元々は、福井資明(すけあき)名誉九段の所持品だったそうで、近年まで同家に伝えられていました。
福井名誉九段を知る人は少ないと思いますので、福井さんのことは下に掲げておきます。
関根13世名人門下の地方棋士として青森県弘前に住まわれていました。
ある時、請われて北海道に渡り、北海道での将棋隆盛に大きく貢献。

八段の高位者でしたが、正式にプロ棋士として認められたのは、亡くなって34年後の平成18年。
この折に名誉九段が贈られました。

実は、小生はその時期に、三重県津市にお住いのご子息には2度ほどお会いしたことがあります。
この時は、将棋の会が開かれていました。
確か玄関には「将棋指南」という看板が掲げてあったように記憶してます。
尾崎さんに連れて行ってもらったのですが、ご子息とはいえ、小生より一廻り以上。
当然ながら、お父様譲りの将棋は、はるかに小生より強い。
そんな印象でした。

福井名誉九段の業績が認められたのは、周りの人々の働きかけと協力が大きかった。
その一人に、福井家からお礼として渡されたのが、この書軸だったのです。

それからおよそ6~7年経って、この書軸にふさわしい出番が与えられました。
今回の「名古屋対局」。
この名人戦に備え、Oさんの下で新しく表装がなされて、この軸が飾られました。
将に相応しい「龍乕争珠」です。

そして、後日談。
この書軸は対局後に、持ち主から日本将棋連盟に寄贈されました。
個人で眠らせているより、連盟で活用してもらう方が良いという思いです。
持ち主Oさんの素晴らしい判断ですね。

将棋ファンの一人として、喝采。
「余り書かないで」と言われていましたが、以上、書かかせて戴きました。
ということで、来年もどこかの「名人戦」で名人の背を飾ることでしょう。

ーーーー
{参考資料}
福井 資明(ふくい すけあき、1888年2月19日 - 1972年4月14日)は、日本の将棋棋士。青森県弘前市出身。関根金次郎十三世名人門下。
1931年(昭和6年)、北海道大学の教授たちからの強い要請により、関根金次郎名人の推薦を受け北海道へ移住する。
北海道における将棋の普及や、1941年(昭和16年)の将棋大成会北海道支部(現・社団法人北海道将棋連盟)の設立、1967年(昭和42年)の北海道将棋会館の建設などに尽力した。五十嵐豊一や勝浦修らのプロ棋士を輩出している。
昭和30年代の札幌で行われた名人戦では正立会人を務め、昭和40年代の将棋名鑑では「地方棋士」として掲載されている。
1950年(昭和25年)4月、八段へ昇段。
1972年(昭和47年)死去。享年84。
2006年(平成18年)11月17日付で九段を追贈。これに関して、東奥日報の当初の記事[1] では『全国初の九段位を追贈』としてアマチュア扱い、東奥日報の後の記事[2]では「プロ九段位」、社団法人北海道将棋連盟サイト[3]では『晴れて正式のプロ棋士として認められ』としてそれ以前はプロとして認められていなかった旨をそれぞれ示唆する文章になっている。









コメント (4)
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