6月1日(土)、晴。
今日は、寒くもなく暑くもなく、今の時期らしい一日でした。
でも、そろそろ梅雨入りでしょうか。
本日は、再度「駒の銘」について触れてみます。
江戸時代前に始まった「水無瀬駒」はどうだったかです。
以前、「駒の銘は江戸時代、商業主義が高まって記されるようになった」と書きましたが、「銘」(作者銘)の記入は自己主張の表れでもあり、それが今日に引き継がれているわけです。
話を戻して「水無瀬駒」の場合、兼成卿が遺した双玉の玉将駒の一枚には、駒尻に「八十二才」などと年齢が記されたものと、二枚ともブランクのモノとがあります。
何故、その二種類があるのかについては、実際のところはよくわかりませんが、小生の推測では、兼成さんは、特にこだわりを持つことなく、その時その時の思いで、ある時は「今回は作ったときの年齢を入れておこう」と、年齢を記入したのではないかと考えます。
つまり、その時の心のままに年齢を入れたり入れなかったりは、自由でおおらかな気持ちの結果だと思うのです。
一方、養子・水無瀬親具(ちかとも)の駒が一組だけ残っているのですが、それには自分の号「一斎」。そしてもう一つには「六十一才」と記されています。
遺されているのはこの一組だけなので、断定は困難ではありますが、名前を記したのは、これは父親の兼成ではなく私が作ったモノであると、書き残しておきたかった。その気持ちがあったからだと思っています。
では翻って、兼成作で現在確認できるのは、およそ10組ですが、それには「作者銘」が記されたモノは一つもありません。ですので、おそらく兼成は1組として「作者銘」を記したことが無かったと思うのです。
ではなぜ、兼成は自分の駒に「作者銘」を入れなかったのでしょうか。理由は二つ。
この時代、商業主義という考えが全くなかったのと、しかも自分に伍する作者が居なかったからで、自分の名前を記す必要が無かった。
そう思うのです。
話が少々長くなりました。
今日はこの辺で。
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なお、駒の裏と駒の尻に文字を書くのとでは、難しさの格別の違いはありません。