先の補足の続きです。
「上」は天皇を指し、その下には「旧上」があり、それらは後陽成天皇、正親町上皇へ渡された中将棋駒であることが分かります。
記録を見れば、今の将棋と同じ小将棋の愛好家は武将に多く、中将棋は天皇や公家衆に愛好されたことが読み取れます。
説明があと先になりましたが、馬日記の馬は「駒」のことです。
続いて数ページあと、「壬辰・文禄元年」の映像です。
中ほどに「家康息」とあるのは、秀忠のことでしょうか。
家康と呼び捨てで、名前すら明確に書かれてはおりません。
この時代、高位の公卿からすると、実力ある武将と言えども、呼び捨ての格下で見られていたことも分かります。因みに、同格の公卿に対しては「殿」の敬称が付けられています。
同じ年の中将棋のページには、何組かの中将棋駒に交じって駒数130枚の「大将棋駒」や、192枚の「大々将棋駒」が見られます。
しかもその渡し先の名は「当関白殿、(献上)」であり、これは秀次への上納品であることも分かります。
秀次へは、後にこのほかの古将棋駒も数組献上された記録もあり、これは興味深いことです。
なお、このページ2行目と左ページ1行目には「将棋馬削、忍斎」の名が、3か所記載されています。これは水無瀬家の下職として将棋駒の木地を制作していた人であろうと推測します。