「方」の成り立ち(解字)を調べてみたら
象形文字とのこと。
2艘の舟を並べ、舳先(へさき)を結んだ形から
並べる、比べるの意味を表す
一説には
すきの刃の先端を表した象形文字で
他の字を仮借して比べる、四方などの意味を表す
また、すきの刃のような物の両がわに
ピンと張ったものがある形であり
左右を表すともいう
意味としては
1.ならべる
2.くらべる
3.四角。ましかく
4.ただしい→品行方正の「方」かな
5.四方
6.むき。ほうがく。時節
7.法則。方法。道理
8.わざ。技術。医術
9.まさにちょうどいま
などがある
「向(嚮)」は会意文字。
向は外側は家をなかの口はまどの形で
家の北側にある小さい窓を表す。
南側の入り口から入って向こうに見えるもの
あるいは通風口として風の向かう方向ということから
「むかう」という意味をあらわす。
意味としては
1.むく。むかう。対する。近寄る。行く。
2.むくようにする
3.おもむき
4.適応する。方向。
などがある
ちなみに旧字の嚮は
響にも通じており、ひびく。ひびきの意味もある。
(引用:『新選漢和辞典』小学館)
こうしてみてみると
「方」には向かう先を決めるまでの
概念的な思考要素が多いような気がする。
時空間を意識したなかで
むかうべき方を決めるというのかな。
そして「向」は実践。実行。
決めた「方」を目に見える形で
動きでそれを表現してみせるというか。
方と向との関係性は密接で
双方が即影響しあうような関係だ。
声と響きの関係や日向と日陰の存在も
同様なのかもしれない。
たとえば散歩のような
とくに目的地があるわけでもなく
気ままにそぞろ歩くような状況においても
運動(体の動き)としては
そのときどきの「方」を気ままに特定し
そちらへと向かって(歩いて)いく状況に
変わりはないわけで。
要は意識レベルの状態が
動きの印象を変えているのであって
方向に対する意識感覚は本来あるもの
ということになるのかな。
導引練習は内へと意識を向ける練習をしている。
この場合、意識の起点は
目標地点よりも外にあることになる。
つまり観察する視点は
外から内へと向かっている。
その目指す所は内なる極み(中心)か。
とすれば観察の視点を中心におけば
中心から外への意識がはたらくことになる。
外から内への意識が導く感覚が方を定める情報となり
内から外への意識が向を実現するのかも。
体を動かしながら外から内、内から外というふうに
意識が巡っていく。
内外という両極があることで
最終的に意識の循環(周流)を味わえるのかもしれない。
象形文字とのこと。
2艘の舟を並べ、舳先(へさき)を結んだ形から
並べる、比べるの意味を表す
一説には
すきの刃の先端を表した象形文字で
他の字を仮借して比べる、四方などの意味を表す
また、すきの刃のような物の両がわに
ピンと張ったものがある形であり
左右を表すともいう
意味としては
1.ならべる
2.くらべる
3.四角。ましかく
4.ただしい→品行方正の「方」かな
5.四方
6.むき。ほうがく。時節
7.法則。方法。道理
8.わざ。技術。医術
9.まさにちょうどいま
などがある
「向(嚮)」は会意文字。
向は外側は家をなかの口はまどの形で
家の北側にある小さい窓を表す。
南側の入り口から入って向こうに見えるもの
あるいは通風口として風の向かう方向ということから
「むかう」という意味をあらわす。
意味としては
1.むく。むかう。対する。近寄る。行く。
2.むくようにする
3.おもむき
4.適応する。方向。
などがある
ちなみに旧字の嚮は
響にも通じており、ひびく。ひびきの意味もある。
(引用:『新選漢和辞典』小学館)
こうしてみてみると
「方」には向かう先を決めるまでの
概念的な思考要素が多いような気がする。
時空間を意識したなかで
むかうべき方を決めるというのかな。
そして「向」は実践。実行。
決めた「方」を目に見える形で
動きでそれを表現してみせるというか。
方と向との関係性は密接で
双方が即影響しあうような関係だ。
声と響きの関係や日向と日陰の存在も
同様なのかもしれない。
たとえば散歩のような
とくに目的地があるわけでもなく
気ままにそぞろ歩くような状況においても
運動(体の動き)としては
そのときどきの「方」を気ままに特定し
そちらへと向かって(歩いて)いく状況に
変わりはないわけで。
要は意識レベルの状態が
動きの印象を変えているのであって
方向に対する意識感覚は本来あるもの
ということになるのかな。
導引練習は内へと意識を向ける練習をしている。
この場合、意識の起点は
目標地点よりも外にあることになる。
つまり観察する視点は
外から内へと向かっている。
その目指す所は内なる極み(中心)か。
とすれば観察の視点を中心におけば
中心から外への意識がはたらくことになる。
外から内への意識が導く感覚が方を定める情報となり
内から外への意識が向を実現するのかも。
体を動かしながら外から内、内から外というふうに
意識が巡っていく。
内外という両極があることで
最終的に意識の循環(周流)を味わえるのかもしれない。