基本練習の見直し効果が出てきたのか、
ほんの数日前から
股関節の意識のポイントが変わってきている。
今までの股関節の状態は
ちょっと不自然なところもあったかもしれない
と思い始めるようになったからだ。
先生から頻繁に指摘されている骨盤の巻き上げ。
これを励行しようとすると
緊張感があったのだが、
ようやく姿勢を維持しようとすることが
自然に意識できるようになってきたらしく、
力みの方も抜けてくる気配をみせたりしている。
すると自然に下腹部も適度にゆるみ、
呼吸もいい感じになってくるようだ。
こうしてひとつの変化が
連鎖的に影響しているのが実感として
伝わってくると、ちょっとうれしい。
たとえば、股関節を開くという
言葉のイメージだけに頼りすぎると、
姿勢によっては肉体的な道理から
はずれるというか、
からだ本来の自然な動きを妨げてしまうことも
あるのかもしれない。
動きのイメージは体と連動させてこそのもの。
例えば先生にみてもらいながら
動いていて「今のはいいです」と言われても、
自分でその違いがわからないときとは、
自分の体の状態を(自分で)理解できていない
ということかと。
つまり自分の意思で(思う通りに)動いているとは
いいきれないのではないかと。
感覚を探ろうとするあまり
意識過剰になってしまい、
かえってわからなくなってしまうこともあるだろう。
つまり風船になる=適度な張りとゆるみの協調とは
精神にもあてはまるということなのかも。
ほんの数日前から
股関節の意識のポイントが変わってきている。
今までの股関節の状態は
ちょっと不自然なところもあったかもしれない
と思い始めるようになったからだ。
先生から頻繁に指摘されている骨盤の巻き上げ。
これを励行しようとすると
緊張感があったのだが、
ようやく姿勢を維持しようとすることが
自然に意識できるようになってきたらしく、
力みの方も抜けてくる気配をみせたりしている。
すると自然に下腹部も適度にゆるみ、
呼吸もいい感じになってくるようだ。
こうしてひとつの変化が
連鎖的に影響しているのが実感として
伝わってくると、ちょっとうれしい。
たとえば、股関節を開くという
言葉のイメージだけに頼りすぎると、
姿勢によっては肉体的な道理から
はずれるというか、
からだ本来の自然な動きを妨げてしまうことも
あるのかもしれない。
動きのイメージは体と連動させてこそのもの。
例えば先生にみてもらいながら
動いていて「今のはいいです」と言われても、
自分でその違いがわからないときとは、
自分の体の状態を(自分で)理解できていない
ということかと。
つまり自分の意思で(思う通りに)動いているとは
いいきれないのではないかと。
感覚を探ろうとするあまり
意識過剰になってしまい、
かえってわからなくなってしまうこともあるだろう。
つまり風船になる=適度な張りとゆるみの協調とは
精神にもあてはまるということなのかも。
特に骨盤の巻き上げは、太極姿勢では意識していたものの、それ以外では全くと言っていいほど意識の外でした。ところが、これを意識して動くと本当に股関節が滑らかに(あくまでも私のレベルでデスよ)動くのです。あんまり嬉しいので、試しに、苦手な野馬分鬃をやってみると、これがとってもスムーズ。いつもなら最初に左足を踏み出す所作がカクッ・カクッと2動作になるのですが、スムーズに股関節が開き、収まるべきところに足が着地します。かなり嬉しいです。
このあたりの微妙な違いをどのように表現すればいいのかわかりませんが、動きやすくなりますよね。自分の思いに体がついてきてくれそうな感じ。
筆で文字を書くときに似てるかな?
筆を持つ姿勢を決めてからでないと筆が自在に動かない。
筆を上に引き上げるようにすると穂先が生きてくるあたりも何となーく似てませんか?
私は骨盤が収まるべきところにおさまってくれていると
重心というか、ある重みの固まり?みたいな感じのものがストンと
そこに落ち着くような感じがします。最近気がつきました。
ちょうどカンガルーのような袋を体内に持った感じでしょうか?
想像するとなんか笑えますよね。
極端な話、体は器にすぎないのかも。
器の状態が整ってはじめて運動が始まるとか?
その意味で準備姿勢は体の状態だけでなく
陰と陽が内在する太極状態へと
静かに動き始める状態なんだろうと思います。
言葉にするとなんか大掛かりなんだけど
とても静かで落ち着いた感覚が溢れてくる感じですよね。
準備姿勢とともに起勢や收勢に対する理解も
また少し深まりそうな気がするこの頃です。