動きをつくり出しているのは何なのだろう。
意識が動かしているものは何なのだろう。
先生や他の練習生の動きをみているとき
自分が注意してみているのは
おそらく重心の動きなんだろうなぁ。
重心は重りのように揺れる。
心静と体松が保たれていれば
重りの揺れは小さくなる。
動作が流れていくには
微小な揺れで動き続けていることが
重心の安定にもつながること。
安定と不安定が
つねに隣り合わせで存在するのを
感知していれば
相互間の平衡感覚は多様になる。
不安定を怖れることはない。
不安定は安定の前兆でもあることを覚れば
怖れは減る。
つまり不安定な状況のときこそ
すぐ近くに安定がある。
それが見えていないだけ、感じられないだけのこと。
ここにもまた心静体松が求められる理由がある。
動き続けているからこそ
安定、不安定の揺らぎがうまれる。
揺らぎがあるから平衡を求めようとする。
こうした平衡感覚は
生命活動そのものの感覚なんじゃないのかな。
だからこそ心静体松には
限界がないってことなのかもしれない。
意識が動かしているものは何なのだろう。
先生や他の練習生の動きをみているとき
自分が注意してみているのは
おそらく重心の動きなんだろうなぁ。
重心は重りのように揺れる。
心静と体松が保たれていれば
重りの揺れは小さくなる。
動作が流れていくには
微小な揺れで動き続けていることが
重心の安定にもつながること。
安定と不安定が
つねに隣り合わせで存在するのを
感知していれば
相互間の平衡感覚は多様になる。
不安定を怖れることはない。
不安定は安定の前兆でもあることを覚れば
怖れは減る。
つまり不安定な状況のときこそ
すぐ近くに安定がある。
それが見えていないだけ、感じられないだけのこと。
ここにもまた心静体松が求められる理由がある。
動き続けているからこそ
安定、不安定の揺らぎがうまれる。
揺らぎがあるから平衡を求めようとする。
こうした平衡感覚は
生命活動そのものの感覚なんじゃないのかな。
だからこそ心静体松には
限界がないってことなのかもしれない。
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