夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《5》

2009-05-28 17:15:42 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
       第5章

徳富蘆花の『みみずのたはこと』に於いて、最初の『故人』の第一章~第三章まで転載させてきましたが、
氏自身は、この『みみずのたはこと』の最後に『読者に』の第一章で、

【・・
私は九州肥後の葦北(あしきた)郡水俣(みなまた)という海村に生れ、
熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々(てんてん)して、22歳で東京に出で、
妻は同じ肥後の菊池郡隈府(わいふ)という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、
私が27妻が21の春東京で一緒(いっしょ)になり、
東京から逗子、また東京、それから結婚14年目の明治40年に
初めて1反5畝の土と一棟(ひとむね)のあばら家を買うて夫妻此粕谷に引越して来ました。

戸籍まで引いたは、永住の心算(つもり)でした。
然し落ち着きは中々出来ないものです。
村居7年目に出した「みみずのたはこと」は、
開巻第一に臆面(おくめん)もなく心のぐらつきを告白して居ます。
永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、
分からぬと言うて居ます。

其挙句(あげく)が前述(ぜんじゅつ)の通り十年のドウ/\廻(めぐ)りです。
・・】

このように告白している。

【・・引越した当時は、あばら屋の母屋と1反5畝の畑から生活を始め・・】、
【・・この年の秋に、浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。
そして中1年置いて、明治42年の春、8畳6畳のはなれの書院を建てた。

明治43年の夏には、8畳4畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。
明治44年の春には、25坪の書院を西の方に建てた。
そして11間と2間半の1間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。
何れも茅葺、古い所で90何年新しいのでも30年からになる古家を買ったのだが、
外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。
二三年ぶりに来て見た男が、悉皆(すっかり)別荘式になったと云うた。
御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった、
そして畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪(よつぼ)になった。
・・】

このような建物、宅地、そして畑のある『美的百姓』を求める生活の中で、
千歳村粕谷の生活風景が描かれている・・

氏は畑の作業を時々しながら、
最初は作男を雇ったが、反りが合わなく解雇し、
時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使い、
陸穂(おかぼ)の餅米が1俵程出来たので、自家で餅を舂いたり、
大麦が籾(もみ)で3俵ほど収穫でき、6円で売却も出来たのである。

そして、球葱(たまねぎ)を作ったり、
胡麻を逆につるして近所の笑草にされたり、
種苗店の目録を見て、種を買い求めて、蒔(ま)いてする。
こうした中で、秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘(つ)め、今年は新茶が可なり出来たり、
水蜜桃の収穫や苺(いちご)も実り、苺のシイロップが2合瓶(ごうびん)20余出来たりした。


そして林の散歩にぬいて来て捨植(すてうえ)にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味(やくみ)になったり、
構わずに置く孟宗竹の筍(たけのこ)が汁の実に食している。

庭の一隅へ移し植えたマテバシイの椎の実に、家族で歓喜したりする。


こうした中で都心より3里の千歳村粕谷では、都心の二百万人に依存する村でもある。
都心がガスになると、薪の需要が減り、やがて村の雑木林は麦畑に変貌する。

そして道側の並木にある櫟(クヌギ)楢(ナラ)などが消えうせ、
短冊形の荒畑(あらばた)となり、武蔵野の特色である雑木山を無惨(むざむざ)拓かるゝのは、
氏は変貌する状景に悲しみの心情を明記したりしている。

こうした中でも、周辺の人々は筍(タケノコ)が儲かるので、
麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にしたり、
養蚕(ようさん)の割が好いと云って桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
古来からの純農村は、次第に都心の人々の菜園になりつゝある、と氏は綴られている。


我が家の実家の太平洋戦争前に於いては、
櫟(クヌギ)楢(ナラ)欅(ケヤキ)が多くあり、松林と雑木林があり、
自宅用に炭にしたり、薪にしたり、と聴いている。

私の幼年期の頃には、米の収穫の終わった秋になると、
祖父、父たちが薪を作る為にケヤキの大木を倒し、
大きなノコギリで縦幅一尺ほどに細分に挽(ひ)いた後、
縦割りに斧で薪割りをしていた。
そして、陽当たりの良い場所に幾日も干した後、納戸の脇に山積みをしていた。

孟宗竹の竹林は、5月の節句前にはタケノコを掘り、青果市場に出荷したり、
秋口になると竹細工の加工業者に竹を売却していたのを鮮明に記憶がある。

そして、養蚕に関しては、戦争以前に我が家でも蚕を育成した、
と後年に私は聴いたりしている。
母屋の中二階のような所に配置し、やはり桑畑があり、
付近の旧家の多くも桑畑を保有していた、と母や叔母から教えられたりしていた。


氏は京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴し、
自身が最初買うた地所は坪40銭位であったが、
此頃は壱円以上2円も其上もする様になり、地所買いも追々入り込む、
と証言されている。

この地域の付近にある京王線は、明治43(1910)年9月設立され、
3年後の大正2(1913)年4月に笹塚~調布が開通し、
その後、大正5(1916)年10月に新宿~府中が開通し、
やがて基幹腺として、昭和元年(1926)年12月に新宿~東八王子の統一開業になった、
と京王電鉄史に記載されている。

たまたま祖父の義弟は京王に勤めていたので、
最初に住んでいたのは調布寮で、後に府中と東八王子のある駅の近くに、
一軒屋を構えることができた、
と私はお彼岸、お盆の時などで当人より教示されていた。

そして、遠い親戚の方で、
都心の私立大学に通い、京王線を利用し、千歳烏山の駅で下車した後は、
人力車で狛江村に帰宅した、
と後年に私は教えられたりしていた。

千歳村粕谷に於いては、現在は付近に小田急線があるが、
小田急線の新宿~小田原が開通したのは、昭和2(1927)年4月であった。
成城学園前の駅が現在はあるが、開通する以前は松林が広がり、
大学を誘致し、住宅街として分譲した、と遠い親戚の地主から、
私が二十歳過ぎた頃に聞いたりした。

余談であるが、亡き小説家・大岡昇平が学生時代、
成城学園に通学した時は、小田急腺が開通前であったので、
京王線の千歳烏山から徒歩で通学した、と私は何かの本で読んだりしている。


この後は前回に続き、
徳富蘆花の『みみずのたはこと』の続編を出典の『青空文庫』より転載する。


【・・
             四

儂の家族は、主人夫婦(あるじふうふ)の外明治41年の秋以来
兄の末女をもらって居る。
名を鶴(つる)と云う。
鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。3歳の年貰(もら)って来た頃は、碌々口もきけぬ脾弱(ひよわ)い児であったが、
此の頃は中々強健(きょうけん)になった。

もらい立(たて)は、儂が結(ゆ)いつけ負(おん)ぶで三軒茶屋まで二里てく/\楽(らく)に歩いたものだが、
此の頃では身長3尺5寸、体量(たいりょう)四貫余。
友達が無いが淋(さび)しいとも云わず育(そだ)って居る。
子供は全く田舎で育てることだ。
紙鳶(たこ)すら自由に飛ばされず、毬(まり)さえ思う様にはつけず、
電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車(にぐるま)、
馬と怪俄(けが)させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育(そだ)つ子供は、
本当に惨(みじめ)なものだ。

雨にぬれて跣足(はだし)で(か)けあるき、栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、
眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、
衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。

儂等(わしら)親子(おやこ)3人の外に、女中が1人。
阿爺(おやじ)が天理教に凝って資産を無くし、
母に死別れて8歳から農家の奉公に出て、今年20歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。
東郷大将(とうごうたいしょう)の名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。

明治天皇(めいじてんのう)崩御(ほうぎょ)の際、
妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込(うちこ)むべく大骨折った。
天皇陛下を知らぬ程(ほど)だから、無論皇后陛下(こうごうへいか)や皇太子殿下を知る筈が無い。
明治天皇崩御の合点(がてん)が行くと、曰(いわ)くだ、
ムスコさんでもありますかい、おかみさんが嘸(さぞ)困るでしょうねェ。

御維新後45年、帝都(ていと)を離(はな)るゝ唯3里、加之(しかも)20歳の若い女に、
まだ斯様な葛天氏(かつてんし)無懐氏の民が居ると思えば、
イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。

斯無懐氏の女の外(ほか)に、テリアル種の小さな黒(くろ)牝犬(めいぬ)が1匹。名をピンと云う。
鶴子より一月(ひとつき)前(まえ)にもらって、
最早(もう)5歳(いつつ)、顎(あご)のあたりの毛が白くなって、
大分(だいぶ)お婆(ばあ)さんになった。
毎年二度三疋四疋宛(ずつ)子を生む。ピンの子孫(しそん)が近村に蕃殖した。

近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。
徒歩でも車でも出さえすると屹度跟(つ)いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨(ほね)らしい。
一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。

今一疋デカと云うポインタァ種(しゅ)の牡犬(おいぬ)が居る。
甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。
デカダンを意味(いみ)したのでは無い。
獰猛(どうもう)な相貌をした虎毛(とらげ)の犬で、
三四疋位の聯合軍(れんごうぐん)は造作もなく噛(か)み伏せる猛犬(もうけん)だったので、
競争者を追払ってずる/\にピンの押入聟(むこ)となった訳(わけ)である。

儂も久しく考(かんが)えた末、届と税を出し、天下(てんか)晴(は)れて彼を郎等(ろうどう)にした。
郎等先生此頃では非常に柔和になった。
第一眼光が違う。尤も悪(わる)い癖(くせ)があって、今でも時々子供を追(おい)かける。
噛みはせぬが、威嚇(いかく)する。
彼が流浪(るろう)時代に子供に苛(いじ)められた復讎心(ふくしゅうしん)が消えぬのである。

子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛(かあい)がらぬのであろう。
直ぐ畜生(ちきしょう)と云っては打ったり石を投げたりする。
矢張大人の真似を子供はするのであろう。
禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格(しかく)が無い。
犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人(ちょうせんじん)台湾人(たいわんじん)をいじめる大人である。

ある犬通の話に、野犬(やけん)の牙は飼犬(かいいぬ)のそれより長くて鋭く、且外方(そっぽう)へ向(む)くものだそうだ。
生物(せいぶつ)には飢(うえ)程恐ろしいものは無い。
食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。

野武士(のぶし)のポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。
其かわり以前の強味はなくなった。
富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ち弱(よわ)くなったのも(のが)れぬ処であろう。

以上2頭の犬の外、トラと云う雄猫(おねこ)が居る。
犬好きの家は、猫まで犬化して、トラは畳(たたみ)の上より土に寝(ね)るが好きで、
儂等が出あるくと兎(うさぎ)の如(ごと)くピョン/\はねて跟(つ)いて来る。
米の飯(めし)より麦(むぎ)の飯、魚(さかな)よりも揚豆腐が好きで、
主人を見真似たか梨や甜瓜(まくわ)の喰い残りをがり/\噛(かじ)ったり、
焼いた玉蜀黍(とうもろこし)を片手で押えてわんぐり噛(か)みつき
あの鋭い牙で粒を食(く)いかいてはぼり/\噛ったり、
まさに田園(でんえん)の猫である。

来客があって、珍(めず)らしく東京から魚を買ったら、
トラ先生早速(さっそく)口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからは涎(よだれ)をたらし、
人騒(さわ)がせをしてよう/\命だけは取りとめた。

犬猫の外に鶏が十羽。
蜜蜂は2度飼(か)って2度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。
天井(てんじょう)の鼠、物置の青大将(あおだいしょう)、其他無断同居のものも多いが、
此等(これら)は眷族(けんぞく)の外である。

(著者追記。犬のデカは大正2年の2月自動車に轢(ひ)かれて死に、
猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)


猫の話で思い出したが、儂(わし)は明治42年の春、
塩釜(しおがま)の宿で牡蠣(かき)を食った時から菜食(さいしょく)を廃(よ)した。
明治38年12月から菜食をはじめて、明治39、40、41、と満3年の精進(しょうじん)、
云わば昔の我に対する3年の喪(も)をやったようなものだ。
以前はダシにも昆布(こんぶ)を使った。
今は魚鳥獣肉何でも食(く)う。猪肉や鯛は尤も好物だ。

然し葷酒(くんしゅ)(酒はおまけ)山門(さんもん)に入るを許したばかりで、
平素の食料(しょくりょう)は野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食(にくじき)はせぬから、
折角の還俗(げんぞく)も頗る甲斐(かい)がない訳である。

甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、
都会(とかい)に溢るゝ(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、
肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。
ある時、東京式に若者が2人威勢(いせい)よく盤台を担(かつ)いで来たので、
珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節(なまりぶし)が五六本に鮪(まぐろ)の切身が少々、
それから此はと驚かされたのは血(ち)だらけの鯊(さめ)の頭だ。
鯊の頭にはギョッとした。
蒲鉾屋(かまぼこや)からでも買い出して来たのか。
誰が買うのか。ダシにするのか。煮(に)て食うのか。
儂は泣きたくなった。
一生の思出に、一度は近郷(きんごう)近在(きんざい)の衆を呼んで、
ピン/\した鯛の刺身煮附に、雪(ゆき)の様(よう)な米の飯(めし)で腹が割ける程馳走をして見たいものだ。

実際此処では魚(さかな)と云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。
近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。
酒を飲まされたのでは無い。ふるい鯖(さば)や鮪に酔(よ)うたのである。
此頃は、儂の健啖(けんたん)も大に減った。

而して平素菜食の結果、稀(まれ)に東京で西洋料理なぞ食っても、
甘(うま)いには甘いが、思う半分も喰(く)えぬ。
最早儂の腸胃も杢兵衛式(もくべえしき)になった。

       五

書(ほん)が沢山(たくさん)ある家(うち)、学を読む家、植木が好きな家、
もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。

儂を最初村に手引した石山君は、
村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村(ちとせむら)を風靡する心算(つもり)であったらしい。
然し其は石山君の失望であった。
儂は何処までも自己本位の生活をした。

ある学生は、あなたの故郷(こきょう)は此処(ここ)では無い、
大きな樹木(じゅもく)を植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。
儂は顧みなかった。
古い家ながら小人数(こにんず)には広過ぎる家(うち)を建て、
盛に果樹観賞木を植え、一切(いっさい)永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。

儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕(てんと)であらねばならぬことを知らぬでは無かった。
また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否(いな)むことは出来なかった。
従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。

だから儂は落ちつきたかった。
執着(しゅうちゃく)がして見たかった。
自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。
而して6年間孜々(しし)として吾巣を構えた。
其結果は如何である? 
儂が越して程なく要(よう)あって来訪した東京の一紳士(しんし)は、
あまり見すぼらしい家の容子(ようす)に掩い難い侮蔑を見せたが、
今年来て見た時は、眼色に争(あらそ)われぬ尊敬を現わした。

其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井(くるまい)の釣瓶なぞに随喜したが、
此頃ではつい近所に来て泊っても寄(よ)っても往(い)かなくなった。
即儂(わし)の田園生活は、或眼からは成功で、
或眼からは堕落に終ったのである。


堕落か成功か、其様(そん)な屑々(けち)な評価は如何でも構わぬ。
儂は告白する、
儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌(いや)ではない。
儂はヨリ多く田舎を好むが、都会(とかい)を捨(す)てることは出来ぬ。
儂は一切が好きである。
儂が住居(すまい)は武蔵野の一隅にある。
平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐(かい)東部の山脈が正面に見える。

3年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。
一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、
即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場(たちば)と慾望を示して居るとも云える。
斯慾望が何処まで衝突なく遂(と)げ得らるゝかは、疑問である。

此両趣味の結婚は何ものを生(う)み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。
唯儂一個人としては、6年の田舎住居(いなかずまい)の後、
いさゝか獲(え)たものは、土に対する執着の意味をやゝ解(かい)しはじめた事である。

儂は他郷から此村に入って、唯6年を過ごしたに過ぎないが、
それでも吾(わ)が樹木(じゅもく)を植え、吾が種を蒔(ま)き、
我が家を建て、吾が汗を滴(た)らし、吾(わが)不浄(ふじょう)を培(つちか)い、
而してたま/\死(し)んだ吾家の犬、猫、鶏、の幾頭(いくとう)幾羽(いくわ)を葬った一町にも足らぬ土が、
今は儂にとりて着物(きもの)の如く、寧(むしろ)皮膚(ひふ)の如く、
居れば安く、離るれば苦しく、之を失う場合を想像するに堪(た)えぬ程愛着を生じて来た。

己(おのれ)を以て人を推せば、
先祖代々土の人たる農其人の土に対する感情も、其一端(いったん)を覗(うかが)うことが出来る。
斯(この)執着(しゅうちゃく)の意味を多少とも解し得る鍵(かぎ)を得たのは、田舎住居の御蔭(おかげ)である。


然しながら己(わ)が造った型(かた)に囚(とら)われ易いのが人の弱点である。
執着は常に力であるが、執着は終に死である。
宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。
蛇が衣(から)を脱ぐ如く、人は昨日(きのう)の己が死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。
個人も、国民も、永久に生くべく日々死して新に生(うま)れねばならぬ。
儂は少くも永住の形式を取って村の生活をはじめたが、
果して此処(ここ)に永住し得るや否、疑問である。

新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。
トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。
此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。
愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、
寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。
今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。


大正元年十二月二十九日

都も鄙(ひな)も押(おし)なべて白妙(しろたえ)を被(き)る風雪の夕

武蔵野粕谷の里にて

徳冨健次郎

・・】
注)原文に対し、あえて改行を多くした。


氏の綴られたことなどの私なりに受け止めた思いは、
次回に掲載する。


                            《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《4》

2009-05-27 17:15:47 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
     第四章

徳富蘆花は、明治40年より死去するまでの20年間、
幾多の本などで氏の略歴に明記されている通り、
都心の青山高樹町より脱れて、田園生活を求め府下・千歳村粕谷356番地に移り、
『美的百姓』になろう、と記されている。

こうした生活を6年ばかりした後、
随筆『みみずのたはこと』(大正2年、刊行)を本名の徳冨健次郎で発表されている。


出典は、『青空文庫』より転載する。


      みみずのたはこと

                            徳冨健次郎



   故人に

       一

儂(わし)の村住居(むらずまい)も、満6年になった。
暦(こよみ)の齢(とし)は45、
鏡を見ると頭髪(かみ)や満面の熊毛に白いのがふえたには今更(いまさら)の様に驚く。

元来田舎者のぼんやり者だが、
近来ます/\杢兵衛(もくべえ)太五作式になったことを自覚する。
先日上野を歩いて居たら、車夫(くるまや)が御案内しましょうか、と来た。
銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。
後(あと)でぺろり舌を出されるとは知りながら、
上等のを否(いや)極(ごく)上等(じょうとう)のをと気前を見せて言い値(ね)で
さっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。
然し店硝子(みせがらす)にうつる乃公(だいこう)の風采(ふうさい)を見てあれば、
例令(たとえ)其れが背広(せびろ)や紋付羽織袴であろうとも、
着こなしの不意気さ、薄ぎたない髯顔(ひげがお)の間抜け加減、如何に贔屓眼(ひいきめ)に見ても――
いや此では田舎者扱いさるゝが当然だと、苦笑(にがわら)いして帰って来る始末。

此程村の巡査が遊びに来た。
日清戦争の当時、出征軍人が羨ましくて、
15歳を満20歳と偽り軍夫になって澎湖島(ほうことう)に渡った経歴もある男で、
今は村の巡査をして、和歌など詠み、新年勅題の詠進などして居る。
其巡査の話に、正服(せいふく)帯剣(たいけん)で東京を歩いて居ると、
あれは田舎のお廻(まわ)りだと辻待(つじまち)の車夫がぬかす。
如何して分(わ)かるかときいたら、
眼(め)で知れますと云ったと云って、大笑した。
成程(なるほど)眼で分かる――さもありそうなことだ。
鵜(う)の目、鷹の目、掏摸(すり)の眼、新聞記者の眼、其様(そん)な眼から見たら、
鈍如(どんより)した田舎者の眼は、嘸(さぞ)馬鹿らしく見えることであろう。
実際馬鹿でなければ田舎住居は出来(でき)ぬ。
人にすれずに悧巧になる道はないから。


東京に出ては儂(わし)も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。
儂の生活状態も大分変った。
君が初めて来た頃の彼(あの)あばら家とは雲泥(うんでい)の相違だ。
尤も何方が雲か泥(どろ)かは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。

引越した年の秋、お麁末(そまつ)ながら浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。
其れから中1年置いて、明治四42年の春、8畳6畳のはなれの書院を建てた。

明治43年の夏には、8畳4畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。
明治44年の春には、25坪の書院を西の方に建てた。
而して11間と2間半の1間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。
何れも茅葺、古い所で90何年新しいのでも30年からになる古家を買ったのだが、
外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。
二三年ぶりに来て見た男が、悉皆(すっかり)別荘式になったと云うた。
御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。

畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪(よつぼ)になった。
以前は一切無門関、勝手(かって)に屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で
驚いて朝寝の眠(ねむり)をさましたもので、
乞食(こじき)物貰(ものもら)い話客千客万来であったが、
今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬(めがき)や、(かなめ)、萩ドウダンの生牆(いけがき)をめぐらし、
外から手をさし入れて明けられる様(よう)な形ばかりのものだが、
大小(だいしょう)六つの門や枝折戸が出入口を固(かた)めて居る。
己(われ)と籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑(おか)しくもある。
但花や果物を無暗に荒(あら)されたり、無遠慮なお客様に擾(わずら)わさるゝよりまだ可と思うて居る。
個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩(けんか)、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。

「後生願わん者は糂甕(じんたがめ)一つも持つまじきもの」とは実際だ。
物の所有は隔ての原(もと)で、物の執着(しゅうちゃく)は争の根(ね)である。
儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了うた。
まさか忍び返えしのソギ竹を黒板塀の上に列べたり、
煉瓦塀(れんがべい)上(うえ)に硝子の破片を剣の山と植(う)えたりはせぬつもりだが、
何、程度(ていど)の問題だ、
これで金でも出来たら案外其様(そん)な事もやるであろうよ。

       二

畑の物は可なり出来る。
昨年は陸穂(おかぼ)の餅米が1俵程出来たので、自家で餅を舂いた。
今年は大麦3俵籾(もみ)で6円なにがしに売った。

田園生活をはじめてこゝに6年、自家の作物が金になったのは、此れが皮切だ。
去年は月に10日宛(ずつ)きまった作男を入れたが、
美的百姓と真物(ほんもの)の百姓とは反(そ)りが合わぬ所から半歳足らずで解雇(かいこ)してしまい、
時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使って居る。

自分も時々やる。
少し労働をやめて居ると、手が直ぐ綺麗(きれい)になり、
稀に肥桶を担(かつ)ぐと直ぐ肩が腫(は)れる。
元来物事に極不熱心な男だが、其れでも年の功だね、畑仕事も少しは上手になった。
最早(もう)地味(ちみ)に合わぬ球葱(たまねぎ)を無理に作ろうともせぬ。
最早胡麻を逆につるして近所の笑草にもならぬ。
甘藷苗の竪植(たてうえ)もせぬ。
心(しん)をとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減(かげん)も、
兎やら角やら先生なしにやって行ける。

毎年儂(わし)は蔬菜(そさい)花卉(かき)の種(たね)を何円(なんえん)と云う程買う。
無論其れ程の地積(ちせき)がある訳(わけ)でも必要がある訳でも無いが、
種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。
蒔(ま)いてしまうのも中々骨だから、育(そだ)ったら事だが、
幸か不幸か種の大部分は地に入(はい)って消えて了う。

其度毎(そのたびごと)に種苗店の不徳義、種子の劣悪(れつあく)を罵(ののし)るが、
春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。
馬鹿な事さ。
然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果(けっか)には活きぬ。
馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。


時の経(た)つは速いものだ。
越(こ)した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘(つ)め、今年は新茶が可なり出来た。
砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。
苺(いちご)は毎年移してばかり居たが、
今年は毎日喫飽(くいあき)をした上に、苺のシイロップが2合瓶(ごうびん)20余出来た。

生籬の萩が葉を見て花を見てあとは苅(か)られて萩籬の料になったり、
林の散歩にぬいて来て捨植(すてうえ)にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味(やくみ)になったり、
構わずに置く孟宗竹の筍(たけのこ)が汁の実になったり、
杉籬の剪(はさ)みすてが焚附(たきつけ)になり、
落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物(たまもの)である。

追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。
移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植(いしょく)し、
中1年を置いて
また庭の一隅(いちぐう)へ移(うつ)し植えた2尺8寸廻(まわ)りの全手葉椎(マテバシイ)が、
此頃では梢の枝葉も蕃茂(はんも)して、何時花が咲いたか、つい此程内(うち)の女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。
と見て、妻が更に五六粒(つぶ)拾った。
「椎が実(な)った! 椎が実った!」驩喜(かんき)の声が家に盈(み)ちた。

田舎住居は斯様な事が大(たい)した喜の原になる。
一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。
儂が植えた樹木は、大抵(たいてい)根づいた。
儂自身も少しは村に根を下(おろ)したかと思う。

       三

少しはと儂は云うた。
実は6年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。
固有の背水癖で、最初戸籍(こせき)までひいて村の者になったが、
過る6年の成績を省(かえりみ)ると、
儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。

吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。
村のポリチックスには無論超然主義を執る。

燈台下暗くして、東京近くの此村では、
青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。
儂は唯傍観して居る。
郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。

村の小さな耶蘇教会にすらも殆(ほとん)ど往(い)かぬ。
昨年まで年に1回の月番役を勤めたが、
月番の提灯を預(あずか)ったきりで、一切の事務は相番(あいばん)の肩に投げかけるので、
皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。

儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ
植木屋の亭主、位なもので、
村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。

遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女子供の相手になって遊ぶ位が落である。
儂は最初一の非望(ひぼう)を懐いて居た。
其は吾家の燈火(あかり)が見る人の喜悦になれかしと謂(い)うのであった。

多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥(きはず)かしくなって、
儂(わし)は一切(いっさい)説法(せっぽう)をよした。
而して吾儘一ぱいの生活をして居る。

儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。
此は儂の性分である。
東京に居ても、田舎に居ても、
何処までも旅(たび)の人、宿れる人、見物人なのである。

然しながら生年百に満たぬ人(ひと)の生(いのち)の6年は、決して短い月日では無い。
儂は其6年を已に村に過して居る。
儂が村の人になり切れぬのは事実である。
然し儂が少しも村を愛(あい)しないと云うのは嘘(うそ)である。

ちと長い旅行でもして帰って来る姿(すがた)を見かけた近所の子供に
「何処(どけ)へ往ったンだよゥ」と云われると、
油然(ゆうぜん)とした嬉しさが心の底(そこ)からこみあげて来る。


東京が大分(だいぶ)攻め寄せて来た。
東京を西に距(さ)る唯3里、東京に依って生活する村だ。
二百万の人の海にさす潮(しお)ひく汐(しお)の余波が村に響いて来るのは自然である。
東京で瓦斯を使う様(よう)になって、薪の需用が減った結果か、
村の雑木山が大分拓(ひら)かれて麦畑(むぎばたけ)になった。

道側の並木の櫟(くぬぎ)楢(なら)なぞ伐られ掘られて、
短冊形の荒畑(あらばた)が続々出来る。
武蔵野の特色なる雑木山を無惨(むざむざ)拓かるゝのは、
儂にとっては肉を削(そ)がるゝ思(おもい)だが、
生活がさすわざだ、詮方(せんかた)は無い。

筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にしたり、
養蚕(ようさん)の割が好いと云って桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
要するに曩時(むかし)の純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。

京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。
儂が最初買うた地所は坪40銭位であったが、此頃は壱円以上2円も其上もする様になった。
地所買いも追々入り込む。
儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込(こ)まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。
洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見(わきみ)する毎に、
儂は眉を顰(ひそ)めて居る。

要するに東京が日々攻め寄せる。
以前聞かなかった工場(こうば)の汽笛なぞが、近来(きんらい)明け方の夢を驚かす様になった。
村人も寝(ね)ては居られぬ。

10年前の此村を識って居る人は、
皆が稼ぎ様の猛烈(もうれつ)になったに驚いて居る。
政党騒(せいとうさわ)ぎと賭博は昔から三多摩の名物(めいぶつ)であった。
此頃では、選挙争に人死(ひとじに)はなくなった。

儂が越して来た当座(とうざ)は、
まだ田圃向うの雑木山に夜灯(よるあかり)をとぼして賭博をやったりして居た。
村の旧家の某が賭博に負(ま)けて所有地一切勧業銀行の抵当(ていとう)に入れたの、
小農の某々が宅地(たくち)までなくしたの、と云う噂をよく聞いた。
然し此の数年来(すうねんらい)賭博風(とばくかぜ)は吹き過ぎて、
遊人と云う者も東京に往ったり、比較的(ひかくてき)堅気(かたぎ)になったりして、
今は村民一同真面目(まじめ)に稼いで居る。
其筋の手入れが届くせいもあるが、第一遊(あそ)んで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである。

・・】

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

こうして美的百姓をめざして、徳富蘆花はこの地の千歳村粕谷で生活をはじめた。
そして、この随筆の最後には、

【・・
大正元年十二月二十九日

都も鄙(ひな)も押(おし)なべて白妙(しろたえ)を被(き)る風雪の夕

武蔵野粕谷の里にて

徳冨健次郎
・・】
と明記している。



私の実家のある地域は、蘆花が住まわれた千歳村粕谷からは、
給田、そして祖師谷の集落を通して、神代村入間であった。

私は昭和19年に農家の三男坊として生を受けた。
この当時は、戸主の明治20年代に生まれた祖父、
明治40年代に生まれた跡取り長兄の父、大正九年の母、
そして父の嫁ぐ前の妹の3人、夜間大学に通学しながら農業を手伝った弟ひとりがいて、
私の長兄、次兄の家族構成であった。

そして、小作人、農業大学の研修生の手助けを借りて、
田畑を耕し、竹林、雑木林を維持管理していた。

宅地には母屋少なくとも50数坪あり、
その周囲に、土蔵、納戸小屋がふたつ、そして物置小屋が点在していた。
これらの状景は、私が小学校に入学する昭和26年の春にも、
子供なりに記憶がある。

我が家も農家で生計をしていたので、収穫作物は給田にあった青果市場に、
父らがリヤカーの乗せて出荷していた。

早春にウド、ハクサイ等、春に於いてはタケノコ、キャベツ等
夏になればキュウリ、ナス、トマト、ウリ、スイカ、カボチャ等、
秋になればサツマイモ、ジャガイモ、里芋、ヤツガシラ、ゴマ、
ハス(レイコン)、柿、そして小麦、米、もち米などが、
今こうして思い浮かべても、このときの状景が浮かんでくる。

私が小学三年になるまで、父、そして祖父に死去されたので、
我が家は、大黒柱を失ったので、没落しはじめた。


私が小学校を卒業する頃、近所の70歳を越えた小父さん、
祖父の弟の叔父さんなどから、我が家の祖先の話を聞いたりしていた。

鎌倉時代の末期、上州の新田義貞が鎌倉幕府討伐の為に挙兵し、
鎌倉街道を南下し、幕府軍と小手指原の戦い後、
分倍河原の戦いで新田軍は一度大敗する。
この時に新田軍の下級武士か末端の一員か解からないが、
一部が敗残兵として、各地に散らばり生き延びた。
そして、それぞれがその地に住みはじめた。

徳川の時代には、農民を維持管理する為に地主を選定し、その下に小作人が置かれた、
そして地主は六人組で構成されて互いに監視しながら相互に共同行事を行ったり、
この地の幕府の役人の管理下に置かれ、安定した田畑の収穫が義務づけられていた。


私の幼年期に於いても、六人組の一軒として、
冠婚葬祭はもとより、初午から年末の餅つきまで、互いに助け合いをしていた。
そして、この六人組は結束が深かった。


このようなことを思い出しながら、
徳富蘆花の住まわれた千歳村の出来事を重ね合わせながら、
『みみずのたはこと』を読んだりしていた。

尚、周辺の生活実態、風習、作物の時代による変貌、
そして昭和2年に電車の京王線の開通などで周辺の変貌、影響などは、
次回から記載する。


                            《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《3》

2009-05-26 08:36:46 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。

     第3章

前章に続き、徳富蘆花の軌跡を『新潮 日本文学小辞典』(新潮社)に於ける
執筆者・文芸評論家・荒 正人の綴りを転記する。


【・・
蘆花は、明治27年5月5日、赤坂氷川町の両親の家で、
原田愛子(本名、藍子)と結婚式をあげた。

原田家は、熊本県隈府の酒造家で、愛子は次女であり、
東京高等師範をその年の3月に卒業していた。

蘆花は何かと引け目をおぼえ、
妻が自分の持たぬ時計を持っているのをとがめて、庭に投げつけたりしていた。

蘆花は、結婚にあたり、
父・一敬から、田畑一町歩、紡績株千円を分けて貰った。
蘆花夫妻は、勝海舟邸に借家したが、家賃は4円50銭であった。

翌年、愛子の両親が腸チフスで急死し、
愛子も感染し、その看護で、隈府に滞在した。
勉強と執筆は続いた。


日清戦争が終わって、明治29年5月、
兄の蘇峰は外遊におもむいていたが、
蘆花は神経衰弱がはなはだしくなり、父・一敬の書や横井小楠の掛け軸を裂いたりしていた。
新聞社にも殆ど顔をみせない。
静養のため、伊豆、房総、相州の各地を遊び、利根川下流を探勝し、
『刀禰河上の一昼夜』、『水国の秋』(のちに、二編を合して、『水国の秋』)を発表した。


明治31年3月、最初の文藝作品集『青山白雲』を刊行した。
過去10年の旧稿を整理したものである。
なお、前年から、逗子の柳屋に居を移した。

5月には、結婚五周年を記念して、初めて上州・伊香保に遊び、
千明仁和亭に二週間ほど滞在した。
夏は、逗子の柳屋で過ごした。
同宿していた福家安子から大山信子の実話を聞いて、
『不如帰(ほととぎす)』の構想ができあがった。

明治31年、『不如帰』を発表、ついで『思出の記』(明治33年~34年)を連載し、
8月、『自然と人生』をまとめて、刊行した。

これを機会に、月給を貰う生活をやめ、
逗子から、東京郊外の原宿に移った。
民友社との関係は自由契約になった。

兄・蘇峰との間が不和になったのは、明治32年頃からであった。

『思出の記』は、明治34年5月に刊行された。
蘆花の名声は、『不如帰』で最も高くなったが、
『自然と人生』は、文学的な質も高く、日本人の感情教育に役立った。

『思出の記』は、自伝的要素もつよいが、
キリスト教が明治の人たちの心の糧として、いかに役立ったかを知ることができる。


明治35年、兄・蘇峰への反抗は頂点に達し、
民友社との関係を立つ決心をしたが、蘇峰の前ではそれがいえない。
蘆花は、依然として、負け犬から抜けだせない。

明治36年1月、『告別の辞』を、『国民新聞』によせて、
掲載が拒否された。
1月下旬、原宿に、黒潮社を設け、『黒潮』第一編を自費出版した。
『黒潮』は、明治35年、蘇峰の勧めで、『国民新聞』に連載していたが、
意見の食い違いで、掲載を中止していた。

翌年、愛子と共に各地を旅行した。
『不如帰』は、英訳され、着者としての名声ますまあがった。

明治38年8月、愛子と姪を連れて、富士に登り、
頂上近くで暴風雨に遭い、五日間人事不省に陥った。
その模様は、『富士』(四巻、大正14年~昭和3年、刊行)に詳しく述べられている。

この年の12月5日、兄・蘇峰を訪ね、
3年間の疎隔を詫び、不和は一応解消した。
年末、蘆花は一切を整理し、逗子に移った。

翌年、伊香保におもむき、3月まで滞在したが、トルストイを深く読んだ。
その結果、トルストイを訪問することを思い立った。

一方、愛子は、精神の一致が得られぬからと、別居を主張したが、
3月、群馬県・安中教会で受洗した。

蘆花は、4月4日、横浜を出帆、聖地パレスチナを順礼し、
ヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ねて、帰国した。
『順礼紀行』(明治39年、刊行)はその時の見聞を集めたもの。

東京・青山高樹町に移った翌年、
府下・千歳村粕谷356番地に移り、『美的百姓』になろうとした。
都会生活から脱れて、田園生活を営んだということは、
自然詩人として理想の境地を求めたものである。

『みみずのたはごと』(大正2年、刊行)は、過去6年間の記録である。

なお、兄・蘇峰との関係は、
明治41年、末女・鶴子を養女に迎えたり、
大正2年、国民新聞社が襲われたりした時は、兄を助ける意味で、
『国民新聞』に、『十年』を連載しはじめたが、わずか11回で、中断した。

愛子や鶴子と共に各地を旅行し、京城(ソウル)で、兄・蘇峰に逢ってから、
蘆花はその後死ぬまで会わなかった。
鶴子は、大正3年に実家に帰してしまった。
その間、蘆花は、たえず兄・蘇峰を重苦しく意識をしていたのである。

・・】
出典・『新潮 日本文学小辞典』(新潮社) 執筆者・文芸評論家・荒 正人

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


私は小説家・徳富蘆花が私が住んでいる近くの地域に明治40年より死去するまでの20年間過ごされ、
この間の随筆として『みみずのたはこと』を遺されている。

私は大正、明治時代の我が故郷の実態である情景、生活など知りたくなり、
本名の徳冨健次郎で発表された『みみずのたはこと』を読みはじめていたのであるが、
徳富蘆花がなぜこの地に住まわれるようになったかも知りたくなった。


私は徳冨蘆花に関しては殆ど無知なので、
私の付近に置いている数冊の本、
ネットで フリー百科事典と知られている『ウィキペディア(Wikipedia)』などを読んだのであるが、
徳冨蘆花の作品の解説と略歴であり、氏の実像に近い真情がなく、
たとえ随筆の『みみずのたはこと』を読んでも、
その当人の心情まで不明なのである。

こうした中で、私の本棚にあった『新潮 日本文学小辞典』(新潮社)を取り出して、
結果として 執筆者・文芸評論家・荒 正人の解説と評論文にすがり、
無断であるが長々と転載をしてきた。

このように徳富蘆花の幼年期から、私の目的とした府下・千歳村粕谷に移られるまでの時代を転載してきたが、
父・一敬、兄・蘇峰との負い目、劣等感に苦悶し、
その果てに兄・蘇峰に対して確執の心情になるまでを荒 正人に導かれて、
私はすこしづづ明確になった。

この後は、本題の『みみずのたはこと』に描かれた明治40年からの千歳村粕谷の情景、
そして付近の生活実態を転載させて頂きながら、
現在、激しく変貌し跡形もなくなったこの地域と対話ができればと思い、
次章から記したい。




                          《つづく》




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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《2》

2009-05-25 12:33:27 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
     第2章

私の読書歴は遅ればせながら高校時代からで、新潮文庫を中核に濫読していた。

私は東京オリンピックが開催された後に、
確か中央公論社が創業80周年を記念して出版した『日本の文学』の全80巻を次兄が購入していたので、
明治から昭和の時代までの作品が選定されたのを殆ど読んだりしていた。

そして、当然のことながら徳冨蘆花の小説『不如帰』は収録されていたが、
あとの作品は忘れてしまったが、
日本文学に関しては、この『日本の文学』が基盤となり、
この中で魅せられた作家から、単行本、文庫本を買い求めたり、
月刊文芸誌の『新潮』、『文学界』、『群像』を読んだりしていた。


このような状態であったので、私は徳冨蘆花に関しては殆ど無知なので、
私の付近に置いている数冊の本、
ネットで フリー百科事典と知られている『ウィキペディア(Wikipedia)』などを読んだのであるが、
徳冨蘆花の作品の解説と略歴であり、氏の実像に近い真情がなく、
たとえ随筆の『みみずのたはこと』を読んでも、
その当人の心情まで不明なのである。

そして私は、何かないかしらと思いながら、
書棚から一冊の本を取り出したのである・・。
『新潮 日本文学小辞典』(新潮社)であり、昭和43年1月下旬に買い求めた文学辞典である。

そして、昨日の徳冨蘆花の軌跡を読みながら、
驚いたり、ため息をしたのである。

無念ながら私には徳冨蘆花氏に関して、殆ど無知であり、
この辞書に執筆された文芸評論家・荒 正人の解説文にすがり、転載させて頂く。

【徳富蘆花(とくとみ ろか)
明治元(1868)年10月25日~昭和2(1927)年9月18日
小説家。
本名・徳富健次郎。
肥後・葦北郡水俣に生まれた。
徳富猪一郎(蘇峰)の弟。
徳富家は、水俣の郷士で惣庄屋(そうしょうや)兼代官であった。

父・一敬は、明治維新の後、
白川県(のちに熊本県)七等出仕となったが、辞任してからは、
政治、産業、教育に従い、大正3年まで存命していた。

(略)

蘆花は、熊本・本山小で優秀な成績を示していたが、
ジェーンズ大尉が基礎を築いた熊本洋学校に入学した。
明治9年の『熊本神風連の乱』を家内より覗き見した。
明治11年6月、兄・猪一郎に伴われて、京都・同志社に入学し、新島 襄に認められた。
やがて文学書に親しんだ。

明治13年6月、同志社を去り、熊本に帰った。
明治14年、母・久子に連れなれて教会に通い、また、小説なども創りはじめた。
明治15年、兄・猪一郎の経営する大江義塾に移った。

この頃・父・一敬へ反逆した。
父への反感は、生涯を通じて激しく、のちに、父の死に際しては、
葬儀におもむかったばかりか、赤飯をたいて祝った。

蘆花は、兄・猪一郎に対しては、死の床に至るまで、負け犬の立場に、
自分を於き、みずから苦しみぬいた。

蘆花は、妻・あいにも劣等感をいたいたが、これはやがて消え去った。


『新春』(大正7年・刊行)には、
蘆花が幼年時代に母・久子に悪戯をしようと試み、
叱られたことが、罪の意識の根源になっていることを回想している。
蘆花は、疵松だと思いこんだ。
劣等感も、兄からの抑圧だけが原因でなく、
みずから蒔いた種子にほかならぬと考えていた。

母・久子は、受洗した。
蘆花もキリスト教に近づいた。

明治18年、熊本のメソジスト教会で、受洗し、
今治におもむいて伝道をはじめた。
父から独立したかったのである。

明治19年、同志社に復学し、新島 襄の義姪・山本久栄と恋愛したが、
周囲から反対され、夢遊病者のように鹿児島に走った。
その間の事情は、『黒い眼と茶色の目』(大正3年・刊行)に告白されている。

明治21年2月、放浪も終わり、熊本英学校の教師となった。
蘆花の青春の嵐は、この時やっと落ちついたらしい。
つぎに、下積みの生活が始まる。


明治22年5月、上京して、兄・蘇峰の経営する民友社で、
校正係になり、翻訳その他雑文を書いた。
『如温(ジョン)・武雷士(ブライド)』や『理査士(リチヤルド)・格士電(コブデン)』(明治22年・刊行)などを、
民友社から刊行した。

民友社からは、『国民之友』、『国民新聞』、『家庭雑誌』などが刊行されていたので、
蘆花はいろんな文章を書いていた。
下積みの生活は、10年も続いていた。

キリスト教の信仰は次第にさめたが、
トルストイやゲーテに興味を覚えるようになった。
『ヴィルヘルム・マイスター』を読んだ時など、感激の余り三晩も眠れなかった。

この時期に、『グラッドストーン伝』(明治25・刊行)、
『近世欧米 歴史之片影』』(明治26・刊行)のほか、
『水郷の夢』』(明治23・刊行)、『百合の花』(明治26・刊行)、
『碓氷の紅葉』(明治26・刊行、のちに、『両毛の秋』)を書いた。
これは、蘆花の自然詩人としての一面を示している。

・・】
出典・『新潮 日本文学小辞典』(新潮社) 執筆者・文芸評論家・荒 正人

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


徳富蘆花の幼年期から青年時代まで、そして作家としての下積み時代の軌跡であるが、
この時代に於いては平民より遥かに恵まれた家柄で育ち、
この人なりに複雑に苦悶しながらも成人を迎え、
やがて確固たる創作者の道へとたどるのである。

しかし、当人が暗黙に伝承される茶道、華道、歌舞伎などの世界と違い、
もとより創作者はみずから独創性ある作品を提示しなければならない世界であり、
この後の徳富蘆花も苦難の軌跡が待っている。


                          《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《1》

2009-05-24 17:33:20 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
     第1章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昭和19年9月に今住んでいる近くの実家で、
農家の三男坊として生を受けた。

私はこのサイトに於いては、私の幼年期から昨今まで、数多く綴ったりしているが
ここ数年、私の生まれる以前の昭和時代はもとより、
大正、明治時代の我が故郷の実態である情景、生活など知りたくなったりしている・・。


父は昭和28年に病死され、そして祖父も後を追うように昭和29年に死去し、
私としては小学生であったので、
この頃の情景はある程度は鮮明に残っている。

母は無念ながら10年前に他界したが、
私は敗戦前の昭和時代の頃の我が家の出来事はもとより、
周辺の移ろう情景なども聞いたり、教えられたりした。

この間も、親戚の叔父、叔母、近所の小父、小母さんなどに訊(たず)ねたり、
教示されたりしてきた。

そして、図書館などに行き、『郷土史』などを読んだりしてきたが、
つたない私は、この時代を鮮明に整理を出来なかったのである。


こうした思いでいると、私は数キロ近くに『蘆花公園』があることにに気づき、
思わず微笑んだのである。

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index007.html

正式名所は『蘆花恒春園』であるが、このサイトの公園概要に明記されている通り、

【・・
「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られる明治・大正期の文豪、徳富蘆花(健次郎)と愛子夫人が、
後半生を過ごした住まいと庭、それに蘆花夫妻の墓地を中心とした旧邸地部分と
その周辺を買収してつくられました。

蘆花は明治40年2月まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていましたが、
土に親しむ生活を営むため、当時まだ草深かった千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、「恒春園」と称し、
昭和2年9月18日に逝去するまでの約20年間、晴耕雨読の生活を送りました。
・・】
と解説される。

そして作家の徳冨蘆花氏は数多くの随筆を遺されているが、
千歳村の粕谷(現在:世田谷区粕谷)の地に約20年間生活されていたので、
遅ればせながら、何かこの地域に関する随筆はと探した結果、
『みみずのたはこと』の作品を知ったのである。

私はこの後、数店の本屋で徳冨蘆花の『みみずのたはこと』を探し求めたのであるが、
無念ながらなく、気落ちして帰宅したのである。

そして、ネツトで色々と検索した結果、
著作権の消滅した小説、詩、評論等を収録された無料公開の電子図書館で知られている【青空文庫】で
この作品にめぐり逢えたのである。


http
://www.aozora.gr.jp/cards/000279/files/1704_6917.html

そして私は、この三日間ほど、本名の徳冨健次郎で発表された『みみずのたはこと』を読みはじめ、
あの頃の時代は、私の住む近く地域に於いては、このようなことがあった、
と深くうなずいたりし、多々教示を受けている。


                             《つづく》


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