第5章
徳富蘆花の『みみずのたはこと』に於いて、最初の『故人』の第一章~第三章まで転載させてきましたが、
氏自身は、この『みみずのたはこと』の最後に『読者に』の第一章で、
【・・
私は九州肥後の葦北(あしきた)郡水俣(みなまた)という海村に生れ、
熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々(てんてん)して、22歳で東京に出で、
妻は同じ肥後の菊池郡隈府(わいふ)という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、
私が27妻が21の春東京で一緒(いっしょ)になり、
東京から逗子、また東京、それから結婚14年目の明治40年に
初めて1反5畝の土と一棟(ひとむね)のあばら家を買うて夫妻此粕谷に引越して来ました。
戸籍まで引いたは、永住の心算(つもり)でした。
然し落ち着きは中々出来ないものです。
村居7年目に出した「みみずのたはこと」は、
開巻第一に臆面(おくめん)もなく心のぐらつきを告白して居ます。
永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、
分からぬと言うて居ます。
其挙句(あげく)が前述(ぜんじゅつ)の通り十年のドウ/\廻(めぐ)りです。
・・】
このように告白している。
【・・引越した当時は、あばら屋の母屋と1反5畝の畑から生活を始め・・】、
【・・この年の秋に、浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。
そして中1年置いて、明治42年の春、8畳6畳のはなれの書院を建てた。
明治43年の夏には、8畳4畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。
明治44年の春には、25坪の書院を西の方に建てた。
そして11間と2間半の1間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。
何れも茅葺、古い所で90何年新しいのでも30年からになる古家を買ったのだが、
外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。
二三年ぶりに来て見た男が、悉皆(すっかり)別荘式になったと云うた。
御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった、
そして畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪(よつぼ)になった。
・・】
このような建物、宅地、そして畑のある『美的百姓』を求める生活の中で、
千歳村粕谷の生活風景が描かれている・・
氏は畑の作業を時々しながら、
最初は作男を雇ったが、反りが合わなく解雇し、
時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使い、
陸穂(おかぼ)の餅米が1俵程出来たので、自家で餅を舂いたり、
大麦が籾(もみ)で3俵ほど収穫でき、6円で売却も出来たのである。
そして、球葱(たまねぎ)を作ったり、
胡麻を逆につるして近所の笑草にされたり、
種苗店の目録を見て、種を買い求めて、蒔(ま)いてする。
こうした中で、秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘(つ)め、今年は新茶が可なり出来たり、
水蜜桃の収穫や苺(いちご)も実り、苺のシイロップが2合瓶(ごうびん)20余出来たりした。
そして林の散歩にぬいて来て捨植(すてうえ)にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味(やくみ)になったり、
構わずに置く孟宗竹の筍(たけのこ)が汁の実に食している。
庭の一隅へ移し植えたマテバシイの椎の実に、家族で歓喜したりする。
こうした中で都心より3里の千歳村粕谷では、都心の二百万人に依存する村でもある。
都心がガスになると、薪の需要が減り、やがて村の雑木林は麦畑に変貌する。
そして道側の並木にある櫟(クヌギ)楢(ナラ)などが消えうせ、
短冊形の荒畑(あらばた)となり、武蔵野の特色である雑木山を無惨(むざむざ)拓かるゝのは、
氏は変貌する状景に悲しみの心情を明記したりしている。
こうした中でも、周辺の人々は筍(タケノコ)が儲かるので、
麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にしたり、
養蚕(ようさん)の割が好いと云って桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
古来からの純農村は、次第に都心の人々の菜園になりつゝある、と氏は綴られている。
我が家の実家の太平洋戦争前に於いては、
櫟(クヌギ)楢(ナラ)欅(ケヤキ)が多くあり、松林と雑木林があり、
自宅用に炭にしたり、薪にしたり、と聴いている。
私の幼年期の頃には、米の収穫の終わった秋になると、
祖父、父たちが薪を作る為にケヤキの大木を倒し、
大きなノコギリで縦幅一尺ほどに細分に挽(ひ)いた後、
縦割りに斧で薪割りをしていた。
そして、陽当たりの良い場所に幾日も干した後、納戸の脇に山積みをしていた。
孟宗竹の竹林は、5月の節句前にはタケノコを掘り、青果市場に出荷したり、
秋口になると竹細工の加工業者に竹を売却していたのを鮮明に記憶がある。
そして、養蚕に関しては、戦争以前に我が家でも蚕を育成した、
と後年に私は聴いたりしている。
母屋の中二階のような所に配置し、やはり桑畑があり、
付近の旧家の多くも桑畑を保有していた、と母や叔母から教えられたりしていた。
氏は京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴し、
自身が最初買うた地所は坪40銭位であったが、
此頃は壱円以上2円も其上もする様になり、地所買いも追々入り込む、
と証言されている。
この地域の付近にある京王線は、明治43(1910)年9月設立され、
3年後の大正2(1913)年4月に笹塚~調布が開通し、
その後、大正5(1916)年10月に新宿~府中が開通し、
やがて基幹腺として、昭和元年(1926)年12月に新宿~東八王子の統一開業になった、
と京王電鉄史に記載されている。
たまたま祖父の義弟は京王に勤めていたので、
最初に住んでいたのは調布寮で、後に府中と東八王子のある駅の近くに、
一軒屋を構えることができた、
と私はお彼岸、お盆の時などで当人より教示されていた。
そして、遠い親戚の方で、
都心の私立大学に通い、京王線を利用し、千歳烏山の駅で下車した後は、
人力車で狛江村に帰宅した、
と後年に私は教えられたりしていた。
千歳村粕谷に於いては、現在は付近に小田急線があるが、
小田急線の新宿~小田原が開通したのは、昭和2(1927)年4月であった。
成城学園前の駅が現在はあるが、開通する以前は松林が広がり、
大学を誘致し、住宅街として分譲した、と遠い親戚の地主から、
私が二十歳過ぎた頃に聞いたりした。
余談であるが、亡き小説家・大岡昇平が学生時代、
成城学園に通学した時は、小田急腺が開通前であったので、
京王線の千歳烏山から徒歩で通学した、と私は何かの本で読んだりしている。
この後は前回に続き、
徳富蘆花の『みみずのたはこと』の続編を出典の『青空文庫』より転載する。
【・・
四
儂の家族は、主人夫婦(あるじふうふ)の外明治41年の秋以来
兄の末女をもらって居る。
名を鶴(つる)と云う。
鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。3歳の年貰(もら)って来た頃は、碌々口もきけぬ脾弱(ひよわ)い児であったが、
此の頃は中々強健(きょうけん)になった。
もらい立(たて)は、儂が結(ゆ)いつけ負(おん)ぶで三軒茶屋まで二里てく/\楽(らく)に歩いたものだが、
此の頃では身長3尺5寸、体量(たいりょう)四貫余。
友達が無いが淋(さび)しいとも云わず育(そだ)って居る。
子供は全く田舎で育てることだ。
紙鳶(たこ)すら自由に飛ばされず、毬(まり)さえ思う様にはつけず、
電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車(にぐるま)、
馬と怪俄(けが)させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育(そだ)つ子供は、
本当に惨(みじめ)なものだ。
雨にぬれて跣足(はだし)で(か)けあるき、栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、
眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、
衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。
儂等(わしら)親子(おやこ)3人の外に、女中が1人。
阿爺(おやじ)が天理教に凝って資産を無くし、
母に死別れて8歳から農家の奉公に出て、今年20歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。
東郷大将(とうごうたいしょう)の名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。
明治天皇(めいじてんのう)崩御(ほうぎょ)の際、
妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込(うちこ)むべく大骨折った。
天皇陛下を知らぬ程(ほど)だから、無論皇后陛下(こうごうへいか)や皇太子殿下を知る筈が無い。
明治天皇崩御の合点(がてん)が行くと、曰(いわ)くだ、
ムスコさんでもありますかい、おかみさんが嘸(さぞ)困るでしょうねェ。
御維新後45年、帝都(ていと)を離(はな)るゝ唯3里、加之(しかも)20歳の若い女に、
まだ斯様な葛天氏(かつてんし)無懐氏の民が居ると思えば、
イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。
斯無懐氏の女の外(ほか)に、テリアル種の小さな黒(くろ)牝犬(めいぬ)が1匹。名をピンと云う。
鶴子より一月(ひとつき)前(まえ)にもらって、
最早(もう)5歳(いつつ)、顎(あご)のあたりの毛が白くなって、
大分(だいぶ)お婆(ばあ)さんになった。
毎年二度三疋四疋宛(ずつ)子を生む。ピンの子孫(しそん)が近村に蕃殖した。
近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。
徒歩でも車でも出さえすると屹度跟(つ)いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨(ほね)らしい。
一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。
今一疋デカと云うポインタァ種(しゅ)の牡犬(おいぬ)が居る。
甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。
デカダンを意味(いみ)したのでは無い。
獰猛(どうもう)な相貌をした虎毛(とらげ)の犬で、
三四疋位の聯合軍(れんごうぐん)は造作もなく噛(か)み伏せる猛犬(もうけん)だったので、
競争者を追払ってずる/\にピンの押入聟(むこ)となった訳(わけ)である。
儂も久しく考(かんが)えた末、届と税を出し、天下(てんか)晴(は)れて彼を郎等(ろうどう)にした。
郎等先生此頃では非常に柔和になった。
第一眼光が違う。尤も悪(わる)い癖(くせ)があって、今でも時々子供を追(おい)かける。
噛みはせぬが、威嚇(いかく)する。
彼が流浪(るろう)時代に子供に苛(いじ)められた復讎心(ふくしゅうしん)が消えぬのである。
子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛(かあい)がらぬのであろう。
直ぐ畜生(ちきしょう)と云っては打ったり石を投げたりする。
矢張大人の真似を子供はするのであろう。
禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格(しかく)が無い。
犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人(ちょうせんじん)台湾人(たいわんじん)をいじめる大人である。
ある犬通の話に、野犬(やけん)の牙は飼犬(かいいぬ)のそれより長くて鋭く、且外方(そっぽう)へ向(む)くものだそうだ。
生物(せいぶつ)には飢(うえ)程恐ろしいものは無い。
食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。
野武士(のぶし)のポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。
其かわり以前の強味はなくなった。
富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ち弱(よわ)くなったのも(のが)れぬ処であろう。
以上2頭の犬の外、トラと云う雄猫(おねこ)が居る。
犬好きの家は、猫まで犬化して、トラは畳(たたみ)の上より土に寝(ね)るが好きで、
儂等が出あるくと兎(うさぎ)の如(ごと)くピョン/\はねて跟(つ)いて来る。
米の飯(めし)より麦(むぎ)の飯、魚(さかな)よりも揚豆腐が好きで、
主人を見真似たか梨や甜瓜(まくわ)の喰い残りをがり/\噛(かじ)ったり、
焼いた玉蜀黍(とうもろこし)を片手で押えてわんぐり噛(か)みつき
あの鋭い牙で粒を食(く)いかいてはぼり/\噛ったり、
まさに田園(でんえん)の猫である。
来客があって、珍(めず)らしく東京から魚を買ったら、
トラ先生早速(さっそく)口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからは涎(よだれ)をたらし、
人騒(さわ)がせをしてよう/\命だけは取りとめた。
犬猫の外に鶏が十羽。
蜜蜂は2度飼(か)って2度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。
天井(てんじょう)の鼠、物置の青大将(あおだいしょう)、其他無断同居のものも多いが、
此等(これら)は眷族(けんぞく)の外である。
(著者追記。犬のデカは大正2年の2月自動車に轢(ひ)かれて死に、
猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)
猫の話で思い出したが、儂(わし)は明治42年の春、
塩釜(しおがま)の宿で牡蠣(かき)を食った時から菜食(さいしょく)を廃(よ)した。
明治38年12月から菜食をはじめて、明治39、40、41、と満3年の精進(しょうじん)、
云わば昔の我に対する3年の喪(も)をやったようなものだ。
以前はダシにも昆布(こんぶ)を使った。
今は魚鳥獣肉何でも食(く)う。猪肉や鯛は尤も好物だ。
然し葷酒(くんしゅ)(酒はおまけ)山門(さんもん)に入るを許したばかりで、
平素の食料(しょくりょう)は野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食(にくじき)はせぬから、
折角の還俗(げんぞく)も頗る甲斐(かい)がない訳である。
甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、
都会(とかい)に溢るゝ(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、
肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。
ある時、東京式に若者が2人威勢(いせい)よく盤台を担(かつ)いで来たので、
珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節(なまりぶし)が五六本に鮪(まぐろ)の切身が少々、
それから此はと驚かされたのは血(ち)だらけの鯊(さめ)の頭だ。
鯊の頭にはギョッとした。
蒲鉾屋(かまぼこや)からでも買い出して来たのか。
誰が買うのか。ダシにするのか。煮(に)て食うのか。
儂は泣きたくなった。
一生の思出に、一度は近郷(きんごう)近在(きんざい)の衆を呼んで、
ピン/\した鯛の刺身煮附に、雪(ゆき)の様(よう)な米の飯(めし)で腹が割ける程馳走をして見たいものだ。
実際此処では魚(さかな)と云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。
近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。
酒を飲まされたのでは無い。ふるい鯖(さば)や鮪に酔(よ)うたのである。
此頃は、儂の健啖(けんたん)も大に減った。
而して平素菜食の結果、稀(まれ)に東京で西洋料理なぞ食っても、
甘(うま)いには甘いが、思う半分も喰(く)えぬ。
最早儂の腸胃も杢兵衛式(もくべえしき)になった。
五
書(ほん)が沢山(たくさん)ある家(うち)、学を読む家、植木が好きな家、
もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。
儂を最初村に手引した石山君は、
村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村(ちとせむら)を風靡する心算(つもり)であったらしい。
然し其は石山君の失望であった。
儂は何処までも自己本位の生活をした。
ある学生は、あなたの故郷(こきょう)は此処(ここ)では無い、
大きな樹木(じゅもく)を植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。
儂は顧みなかった。
古い家ながら小人数(こにんず)には広過ぎる家(うち)を建て、
盛に果樹観賞木を植え、一切(いっさい)永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。
儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕(てんと)であらねばならぬことを知らぬでは無かった。
また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否(いな)むことは出来なかった。
従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。
だから儂は落ちつきたかった。
執着(しゅうちゃく)がして見たかった。
自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。
而して6年間孜々(しし)として吾巣を構えた。
其結果は如何である?
儂が越して程なく要(よう)あって来訪した東京の一紳士(しんし)は、
あまり見すぼらしい家の容子(ようす)に掩い難い侮蔑を見せたが、
今年来て見た時は、眼色に争(あらそ)われぬ尊敬を現わした。
其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井(くるまい)の釣瓶なぞに随喜したが、
此頃ではつい近所に来て泊っても寄(よ)っても往(い)かなくなった。
即儂(わし)の田園生活は、或眼からは成功で、
或眼からは堕落に終ったのである。
堕落か成功か、其様(そん)な屑々(けち)な評価は如何でも構わぬ。
儂は告白する、
儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌(いや)ではない。
儂はヨリ多く田舎を好むが、都会(とかい)を捨(す)てることは出来ぬ。
儂は一切が好きである。
儂が住居(すまい)は武蔵野の一隅にある。
平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐(かい)東部の山脈が正面に見える。
3年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。
一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、
即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場(たちば)と慾望を示して居るとも云える。
斯慾望が何処まで衝突なく遂(と)げ得らるゝかは、疑問である。
此両趣味の結婚は何ものを生(う)み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。
唯儂一個人としては、6年の田舎住居(いなかずまい)の後、
いさゝか獲(え)たものは、土に対する執着の意味をやゝ解(かい)しはじめた事である。
儂は他郷から此村に入って、唯6年を過ごしたに過ぎないが、
それでも吾(わ)が樹木(じゅもく)を植え、吾が種を蒔(ま)き、
我が家を建て、吾が汗を滴(た)らし、吾(わが)不浄(ふじょう)を培(つちか)い、
而してたま/\死(し)んだ吾家の犬、猫、鶏、の幾頭(いくとう)幾羽(いくわ)を葬った一町にも足らぬ土が、
今は儂にとりて着物(きもの)の如く、寧(むしろ)皮膚(ひふ)の如く、
居れば安く、離るれば苦しく、之を失う場合を想像するに堪(た)えぬ程愛着を生じて来た。
己(おのれ)を以て人を推せば、
先祖代々土の人たる農其人の土に対する感情も、其一端(いったん)を覗(うかが)うことが出来る。
斯(この)執着(しゅうちゃく)の意味を多少とも解し得る鍵(かぎ)を得たのは、田舎住居の御蔭(おかげ)である。
然しながら己(わ)が造った型(かた)に囚(とら)われ易いのが人の弱点である。
執着は常に力であるが、執着は終に死である。
宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。
蛇が衣(から)を脱ぐ如く、人は昨日(きのう)の己が死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。
個人も、国民も、永久に生くべく日々死して新に生(うま)れねばならぬ。
儂は少くも永住の形式を取って村の生活をはじめたが、
果して此処(ここ)に永住し得るや否、疑問である。
新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。
トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。
此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。
愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、
寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。
今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。
大正元年十二月二十九日
都も鄙(ひな)も押(おし)なべて白妙(しろたえ)を被(き)る風雪の夕
武蔵野粕谷の里にて
徳冨健次郎
・・】
注)原文に対し、あえて改行を多くした。
氏の綴られたことなどの私なりに受け止めた思いは、
次回に掲載する。
《つづく》
a href="http://www.blogmura.com/">
徳富蘆花の『みみずのたはこと』に於いて、最初の『故人』の第一章~第三章まで転載させてきましたが、
氏自身は、この『みみずのたはこと』の最後に『読者に』の第一章で、
【・・
私は九州肥後の葦北(あしきた)郡水俣(みなまた)という海村に生れ、
熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々(てんてん)して、22歳で東京に出で、
妻は同じ肥後の菊池郡隈府(わいふ)という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、
私が27妻が21の春東京で一緒(いっしょ)になり、
東京から逗子、また東京、それから結婚14年目の明治40年に
初めて1反5畝の土と一棟(ひとむね)のあばら家を買うて夫妻此粕谷に引越して来ました。
戸籍まで引いたは、永住の心算(つもり)でした。
然し落ち着きは中々出来ないものです。
村居7年目に出した「みみずのたはこと」は、
開巻第一に臆面(おくめん)もなく心のぐらつきを告白して居ます。
永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、
分からぬと言うて居ます。
其挙句(あげく)が前述(ぜんじゅつ)の通り十年のドウ/\廻(めぐ)りです。
・・】
このように告白している。
【・・引越した当時は、あばら屋の母屋と1反5畝の畑から生活を始め・・】、
【・・この年の秋に、浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。
そして中1年置いて、明治42年の春、8畳6畳のはなれの書院を建てた。
明治43年の夏には、8畳4畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。
明治44年の春には、25坪の書院を西の方に建てた。
そして11間と2間半の1間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。
何れも茅葺、古い所で90何年新しいのでも30年からになる古家を買ったのだが、
外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。
二三年ぶりに来て見た男が、悉皆(すっかり)別荘式になったと云うた。
御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった、
そして畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪(よつぼ)になった。
・・】
このような建物、宅地、そして畑のある『美的百姓』を求める生活の中で、
千歳村粕谷の生活風景が描かれている・・
氏は畑の作業を時々しながら、
最初は作男を雇ったが、反りが合わなく解雇し、
時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使い、
陸穂(おかぼ)の餅米が1俵程出来たので、自家で餅を舂いたり、
大麦が籾(もみ)で3俵ほど収穫でき、6円で売却も出来たのである。
そして、球葱(たまねぎ)を作ったり、
胡麻を逆につるして近所の笑草にされたり、
種苗店の目録を見て、種を買い求めて、蒔(ま)いてする。
こうした中で、秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘(つ)め、今年は新茶が可なり出来たり、
水蜜桃の収穫や苺(いちご)も実り、苺のシイロップが2合瓶(ごうびん)20余出来たりした。
そして林の散歩にぬいて来て捨植(すてうえ)にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味(やくみ)になったり、
構わずに置く孟宗竹の筍(たけのこ)が汁の実に食している。
庭の一隅へ移し植えたマテバシイの椎の実に、家族で歓喜したりする。
こうした中で都心より3里の千歳村粕谷では、都心の二百万人に依存する村でもある。
都心がガスになると、薪の需要が減り、やがて村の雑木林は麦畑に変貌する。
そして道側の並木にある櫟(クヌギ)楢(ナラ)などが消えうせ、
短冊形の荒畑(あらばた)となり、武蔵野の特色である雑木山を無惨(むざむざ)拓かるゝのは、
氏は変貌する状景に悲しみの心情を明記したりしている。
こうした中でも、周辺の人々は筍(タケノコ)が儲かるので、
麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にしたり、
養蚕(ようさん)の割が好いと云って桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
古来からの純農村は、次第に都心の人々の菜園になりつゝある、と氏は綴られている。
我が家の実家の太平洋戦争前に於いては、
櫟(クヌギ)楢(ナラ)欅(ケヤキ)が多くあり、松林と雑木林があり、
自宅用に炭にしたり、薪にしたり、と聴いている。
私の幼年期の頃には、米の収穫の終わった秋になると、
祖父、父たちが薪を作る為にケヤキの大木を倒し、
大きなノコギリで縦幅一尺ほどに細分に挽(ひ)いた後、
縦割りに斧で薪割りをしていた。
そして、陽当たりの良い場所に幾日も干した後、納戸の脇に山積みをしていた。
孟宗竹の竹林は、5月の節句前にはタケノコを掘り、青果市場に出荷したり、
秋口になると竹細工の加工業者に竹を売却していたのを鮮明に記憶がある。
そして、養蚕に関しては、戦争以前に我が家でも蚕を育成した、
と後年に私は聴いたりしている。
母屋の中二階のような所に配置し、やはり桑畑があり、
付近の旧家の多くも桑畑を保有していた、と母や叔母から教えられたりしていた。
氏は京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴し、
自身が最初買うた地所は坪40銭位であったが、
此頃は壱円以上2円も其上もする様になり、地所買いも追々入り込む、
と証言されている。
この地域の付近にある京王線は、明治43(1910)年9月設立され、
3年後の大正2(1913)年4月に笹塚~調布が開通し、
その後、大正5(1916)年10月に新宿~府中が開通し、
やがて基幹腺として、昭和元年(1926)年12月に新宿~東八王子の統一開業になった、
と京王電鉄史に記載されている。
たまたま祖父の義弟は京王に勤めていたので、
最初に住んでいたのは調布寮で、後に府中と東八王子のある駅の近くに、
一軒屋を構えることができた、
と私はお彼岸、お盆の時などで当人より教示されていた。
そして、遠い親戚の方で、
都心の私立大学に通い、京王線を利用し、千歳烏山の駅で下車した後は、
人力車で狛江村に帰宅した、
と後年に私は教えられたりしていた。
千歳村粕谷に於いては、現在は付近に小田急線があるが、
小田急線の新宿~小田原が開通したのは、昭和2(1927)年4月であった。
成城学園前の駅が現在はあるが、開通する以前は松林が広がり、
大学を誘致し、住宅街として分譲した、と遠い親戚の地主から、
私が二十歳過ぎた頃に聞いたりした。
余談であるが、亡き小説家・大岡昇平が学生時代、
成城学園に通学した時は、小田急腺が開通前であったので、
京王線の千歳烏山から徒歩で通学した、と私は何かの本で読んだりしている。
この後は前回に続き、
徳富蘆花の『みみずのたはこと』の続編を出典の『青空文庫』より転載する。
【・・
四
儂の家族は、主人夫婦(あるじふうふ)の外明治41年の秋以来
兄の末女をもらって居る。
名を鶴(つる)と云う。
鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。3歳の年貰(もら)って来た頃は、碌々口もきけぬ脾弱(ひよわ)い児であったが、
此の頃は中々強健(きょうけん)になった。
もらい立(たて)は、儂が結(ゆ)いつけ負(おん)ぶで三軒茶屋まで二里てく/\楽(らく)に歩いたものだが、
此の頃では身長3尺5寸、体量(たいりょう)四貫余。
友達が無いが淋(さび)しいとも云わず育(そだ)って居る。
子供は全く田舎で育てることだ。
紙鳶(たこ)すら自由に飛ばされず、毬(まり)さえ思う様にはつけず、
電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車(にぐるま)、
馬と怪俄(けが)させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育(そだ)つ子供は、
本当に惨(みじめ)なものだ。
雨にぬれて跣足(はだし)で(か)けあるき、栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、
眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、
衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。
儂等(わしら)親子(おやこ)3人の外に、女中が1人。
阿爺(おやじ)が天理教に凝って資産を無くし、
母に死別れて8歳から農家の奉公に出て、今年20歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。
東郷大将(とうごうたいしょう)の名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。
明治天皇(めいじてんのう)崩御(ほうぎょ)の際、
妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込(うちこ)むべく大骨折った。
天皇陛下を知らぬ程(ほど)だから、無論皇后陛下(こうごうへいか)や皇太子殿下を知る筈が無い。
明治天皇崩御の合点(がてん)が行くと、曰(いわ)くだ、
ムスコさんでもありますかい、おかみさんが嘸(さぞ)困るでしょうねェ。
御維新後45年、帝都(ていと)を離(はな)るゝ唯3里、加之(しかも)20歳の若い女に、
まだ斯様な葛天氏(かつてんし)無懐氏の民が居ると思えば、
イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。
斯無懐氏の女の外(ほか)に、テリアル種の小さな黒(くろ)牝犬(めいぬ)が1匹。名をピンと云う。
鶴子より一月(ひとつき)前(まえ)にもらって、
最早(もう)5歳(いつつ)、顎(あご)のあたりの毛が白くなって、
大分(だいぶ)お婆(ばあ)さんになった。
毎年二度三疋四疋宛(ずつ)子を生む。ピンの子孫(しそん)が近村に蕃殖した。
近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。
徒歩でも車でも出さえすると屹度跟(つ)いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨(ほね)らしい。
一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。
今一疋デカと云うポインタァ種(しゅ)の牡犬(おいぬ)が居る。
甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。
デカダンを意味(いみ)したのでは無い。
獰猛(どうもう)な相貌をした虎毛(とらげ)の犬で、
三四疋位の聯合軍(れんごうぐん)は造作もなく噛(か)み伏せる猛犬(もうけん)だったので、
競争者を追払ってずる/\にピンの押入聟(むこ)となった訳(わけ)である。
儂も久しく考(かんが)えた末、届と税を出し、天下(てんか)晴(は)れて彼を郎等(ろうどう)にした。
郎等先生此頃では非常に柔和になった。
第一眼光が違う。尤も悪(わる)い癖(くせ)があって、今でも時々子供を追(おい)かける。
噛みはせぬが、威嚇(いかく)する。
彼が流浪(るろう)時代に子供に苛(いじ)められた復讎心(ふくしゅうしん)が消えぬのである。
子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛(かあい)がらぬのであろう。
直ぐ畜生(ちきしょう)と云っては打ったり石を投げたりする。
矢張大人の真似を子供はするのであろう。
禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格(しかく)が無い。
犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人(ちょうせんじん)台湾人(たいわんじん)をいじめる大人である。
ある犬通の話に、野犬(やけん)の牙は飼犬(かいいぬ)のそれより長くて鋭く、且外方(そっぽう)へ向(む)くものだそうだ。
生物(せいぶつ)には飢(うえ)程恐ろしいものは無い。
食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。
野武士(のぶし)のポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。
其かわり以前の強味はなくなった。
富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ち弱(よわ)くなったのも(のが)れぬ処であろう。
以上2頭の犬の外、トラと云う雄猫(おねこ)が居る。
犬好きの家は、猫まで犬化して、トラは畳(たたみ)の上より土に寝(ね)るが好きで、
儂等が出あるくと兎(うさぎ)の如(ごと)くピョン/\はねて跟(つ)いて来る。
米の飯(めし)より麦(むぎ)の飯、魚(さかな)よりも揚豆腐が好きで、
主人を見真似たか梨や甜瓜(まくわ)の喰い残りをがり/\噛(かじ)ったり、
焼いた玉蜀黍(とうもろこし)を片手で押えてわんぐり噛(か)みつき
あの鋭い牙で粒を食(く)いかいてはぼり/\噛ったり、
まさに田園(でんえん)の猫である。
来客があって、珍(めず)らしく東京から魚を買ったら、
トラ先生早速(さっそく)口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからは涎(よだれ)をたらし、
人騒(さわ)がせをしてよう/\命だけは取りとめた。
犬猫の外に鶏が十羽。
蜜蜂は2度飼(か)って2度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。
天井(てんじょう)の鼠、物置の青大将(あおだいしょう)、其他無断同居のものも多いが、
此等(これら)は眷族(けんぞく)の外である。
(著者追記。犬のデカは大正2年の2月自動車に轢(ひ)かれて死に、
猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)
猫の話で思い出したが、儂(わし)は明治42年の春、
塩釜(しおがま)の宿で牡蠣(かき)を食った時から菜食(さいしょく)を廃(よ)した。
明治38年12月から菜食をはじめて、明治39、40、41、と満3年の精進(しょうじん)、
云わば昔の我に対する3年の喪(も)をやったようなものだ。
以前はダシにも昆布(こんぶ)を使った。
今は魚鳥獣肉何でも食(く)う。猪肉や鯛は尤も好物だ。
然し葷酒(くんしゅ)(酒はおまけ)山門(さんもん)に入るを許したばかりで、
平素の食料(しょくりょう)は野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食(にくじき)はせぬから、
折角の還俗(げんぞく)も頗る甲斐(かい)がない訳である。
甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、
都会(とかい)に溢るゝ(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、
肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。
ある時、東京式に若者が2人威勢(いせい)よく盤台を担(かつ)いで来たので、
珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節(なまりぶし)が五六本に鮪(まぐろ)の切身が少々、
それから此はと驚かされたのは血(ち)だらけの鯊(さめ)の頭だ。
鯊の頭にはギョッとした。
蒲鉾屋(かまぼこや)からでも買い出して来たのか。
誰が買うのか。ダシにするのか。煮(に)て食うのか。
儂は泣きたくなった。
一生の思出に、一度は近郷(きんごう)近在(きんざい)の衆を呼んで、
ピン/\した鯛の刺身煮附に、雪(ゆき)の様(よう)な米の飯(めし)で腹が割ける程馳走をして見たいものだ。
実際此処では魚(さかな)と云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。
近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。
酒を飲まされたのでは無い。ふるい鯖(さば)や鮪に酔(よ)うたのである。
此頃は、儂の健啖(けんたん)も大に減った。
而して平素菜食の結果、稀(まれ)に東京で西洋料理なぞ食っても、
甘(うま)いには甘いが、思う半分も喰(く)えぬ。
最早儂の腸胃も杢兵衛式(もくべえしき)になった。
五
書(ほん)が沢山(たくさん)ある家(うち)、学を読む家、植木が好きな家、
もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。
儂を最初村に手引した石山君は、
村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村(ちとせむら)を風靡する心算(つもり)であったらしい。
然し其は石山君の失望であった。
儂は何処までも自己本位の生活をした。
ある学生は、あなたの故郷(こきょう)は此処(ここ)では無い、
大きな樹木(じゅもく)を植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。
儂は顧みなかった。
古い家ながら小人数(こにんず)には広過ぎる家(うち)を建て、
盛に果樹観賞木を植え、一切(いっさい)永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。
儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕(てんと)であらねばならぬことを知らぬでは無かった。
また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否(いな)むことは出来なかった。
従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。
だから儂は落ちつきたかった。
執着(しゅうちゃく)がして見たかった。
自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。
而して6年間孜々(しし)として吾巣を構えた。
其結果は如何である?
儂が越して程なく要(よう)あって来訪した東京の一紳士(しんし)は、
あまり見すぼらしい家の容子(ようす)に掩い難い侮蔑を見せたが、
今年来て見た時は、眼色に争(あらそ)われぬ尊敬を現わした。
其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井(くるまい)の釣瓶なぞに随喜したが、
此頃ではつい近所に来て泊っても寄(よ)っても往(い)かなくなった。
即儂(わし)の田園生活は、或眼からは成功で、
或眼からは堕落に終ったのである。
堕落か成功か、其様(そん)な屑々(けち)な評価は如何でも構わぬ。
儂は告白する、
儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌(いや)ではない。
儂はヨリ多く田舎を好むが、都会(とかい)を捨(す)てることは出来ぬ。
儂は一切が好きである。
儂が住居(すまい)は武蔵野の一隅にある。
平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐(かい)東部の山脈が正面に見える。
3年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。
一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、
即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場(たちば)と慾望を示して居るとも云える。
斯慾望が何処まで衝突なく遂(と)げ得らるゝかは、疑問である。
此両趣味の結婚は何ものを生(う)み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。
唯儂一個人としては、6年の田舎住居(いなかずまい)の後、
いさゝか獲(え)たものは、土に対する執着の意味をやゝ解(かい)しはじめた事である。
儂は他郷から此村に入って、唯6年を過ごしたに過ぎないが、
それでも吾(わ)が樹木(じゅもく)を植え、吾が種を蒔(ま)き、
我が家を建て、吾が汗を滴(た)らし、吾(わが)不浄(ふじょう)を培(つちか)い、
而してたま/\死(し)んだ吾家の犬、猫、鶏、の幾頭(いくとう)幾羽(いくわ)を葬った一町にも足らぬ土が、
今は儂にとりて着物(きもの)の如く、寧(むしろ)皮膚(ひふ)の如く、
居れば安く、離るれば苦しく、之を失う場合を想像するに堪(た)えぬ程愛着を生じて来た。
己(おのれ)を以て人を推せば、
先祖代々土の人たる農其人の土に対する感情も、其一端(いったん)を覗(うかが)うことが出来る。
斯(この)執着(しゅうちゃく)の意味を多少とも解し得る鍵(かぎ)を得たのは、田舎住居の御蔭(おかげ)である。
然しながら己(わ)が造った型(かた)に囚(とら)われ易いのが人の弱点である。
執着は常に力であるが、執着は終に死である。
宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。
蛇が衣(から)を脱ぐ如く、人は昨日(きのう)の己が死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。
個人も、国民も、永久に生くべく日々死して新に生(うま)れねばならぬ。
儂は少くも永住の形式を取って村の生活をはじめたが、
果して此処(ここ)に永住し得るや否、疑問である。
新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。
トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。
此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。
愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、
寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。
今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。
大正元年十二月二十九日
都も鄙(ひな)も押(おし)なべて白妙(しろたえ)を被(き)る風雪の夕
武蔵野粕谷の里にて
徳冨健次郎
・・】
注)原文に対し、あえて改行を多くした。
氏の綴られたことなどの私なりに受け止めた思いは、
次回に掲載する。
《つづく》
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