第10章 夕陽を眺める時は、バーボン・ウィスキー
リゾート・ホテルのバルコニーには、簡素なテーブル、椅子があり、
6連泊の早朝、昼過ぎ、夜のひととき、深夜に海を眺めたりしていた。
雨の日もあれば、どんよりとした曇り、風の強い日もあり、或いは快晴に恵まれた日もあった。
日常生活の私は、日本酒の山形県の純米酒を呑み、ときにはビールを呑んでいる。
今回の沖縄本島の8泊9日は、
地酒の泡盛が呑めない私は、オリオン・ビールに徹し、夕陽の時にはバーボン・ウィスキーと秘かに希望していた。
那覇市内に於いては、泡盛ばかり目立つが、
肝心のバーボンは宿泊先の最寄のコンビニで小瓶の200mlを見つけ、
その横に大手の日本酒の辛口もあり、この二品を購入した。
リゾート・ホテルに於いては、
館内のコンビニでオリオン・ビールの350mlの6セットを何度も購入し、
ときには大手の味に欠ける日本酒を呑んだりしていた。
外出、館内の食事処の場合は、やはりオリオン・ビールとしていた。
5日目の時は、風もなく陽差し弱まりかけたベランダで、
海上の夕陽を眺めながら、私はバーボン・ウィスキーの小瓶の封を切った。
グラスに氷を五つばかり入れ、バーボンをそそぐだけのオンザ・ロックである。
私は南国のサンセットの情景には、バーボンのオンザ・ロックが相応しいと、
ここ20年ばかり夢をみていたのである。
濃厚な香り、むせかえる喉越しのバーボンを呑み、煙草を喫いながら、夕陽を眺めたりした。
至福のひととき、私は鼻歌を唄ったりした・・。
♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない
【 モンゴル800の『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu 】
私は3杯ほど呑むと陶然とし、
沖縄の復帰後の激動、リゾート観光地への変貌期の住民の労苦に思いを重ね、
胸が熱くなり、4杯目を注(つ)いだ・・。
《つづく》
第9章 乙女たちのエメラルド・ビーチ
『海洋博公園』で私が散策した樹木、草花園のもう一方の反対側には、エメラルド・ビーチがある。
白いペンキの大きな休憩所が二つほど並びあり、
その先端には憩いの浜、眺めの浜、そして遊びの浜と称された浜は、
白い砂浜が拡がり、椰子(やし)の樹木、空の青さ、海は蒼く、彼方の海上は解けてしまうような光景である。
こうした中で、波が白い砂浜に押し寄せ、
数多くの白いサンデッキが並び、そして色鮮やかなパラソルがある・・。
今回の旅の初め頃から、首里の王陵、首里城、南部のひめゆりの塔、平和祈念公園、
そして玉泉洞を私たち3人は観て廻ったが、幾つかの高校の修学旅行の生徒と出会ったりした。
タクシーのドライバーの方から教えて頂いた話であるが、
生徒たちの3、4人でタクシーで好きな場所を周遊するのが昨今の傾向となっている、とのこと。
事前に先生の了解を得て、各観光の周遊プランをタクシー・ドライバーと再調整しながら、
あちらこちらに観たりしているのが多い、と教えてくれた。
エメラルド・ビーチを私は散策していると、
高校生の女学生の4人は歓声をあげて、お互いに携帯電話で写真を撮ったりしていた・・。
『よかったら・・小父さん・・みんなの記念写真・・撮ってあげるよ・・』
と私は女学生のひとりに大声で言った・・。
ひとりの女学生が、もじもじと家内と同様の簡易カメラの写ルンを取り出して、
『嬉しい・・小父さん・・お願い・・』
と私に簡易カメラを手渡した。
4人の女学生は、それぞれのポーズを取りながら、右手はVサインであり、
私は微苦笑しながら、シャッターを押した・・。
『小父さん・・有難うございました・・』
と2人の女学生が大声で言われ、私は照れた。
その後、4人の女学生は波打ち際に歩き出して行き、微風の吹く中、スカートの裾が揺れていた。
私は南国の白い砂浜と陽射しのまぶしさ、そして海の蒼さの光景は、
乙女たちの夢のひとつ、あこがれが、目の前に拡がっていることを了解できた。
《つづく》
第8章 旅先で投稿するには
私はブログの投稿文は持ち歩きできるモバイルを所有していないので、
旅先で投稿するには原則としてできない。
しかしながら宿泊している処で、バソコンなどが利用しやすい環境の場合に限り、
投稿してきたが、今回の旅のこれまでの章は、
たまたまこの宿泊しているりゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ 』の一角からであった。
私たちの宿泊しているタワーから長い通路を歩いて、
メイン・ロビー、食事処のレストランなどに向うとちゅうで、
こうした庭園、プール、結婚式の野外セレモニー場所などを観たりして歩いた。
こうした情景は、まぎれなく南国のリゾートホテルの景観かしら、と私は微笑んだりした。
そしてメインロビーの一角に、インフォーメション・センターと称された観光遊覧の相談所があり、
この片隅で私は投稿していた。
この相談所は20代の女性が3人いて、常時2名で対応している。
机上にはパソコン等があり、ある程度はお客様の相談事を笑顔で応じている。
このルームは15坪前後の広さがあり、
壁際にインターネットが対応されたパソコンが2台あった。
お客様自身が観光先などを検索されるのに設置されていると思われる。
私はこの中で1台を使わして貰い、ホテル内の滞在客の多い中、ときおり投稿したのであった。
この相談所の女性たちと、私は幾たびか談笑をした・・。
こぼれ話のひとつとしては、
モンゴル800の『あなたに』のことで、
『・・モンパチの『あなたに』に魅了され・・ベランダで鼻歌を唄ったり・・していますよ』
と私は言ったりしていた。
『好い歌ですよね・・私が中学3年の時・・大ヒットし・・私も大好きな歌のひとつです・・』
と微笑みながら答えてくれたりしていた。
私は齢を重ねた63歳のお客の身であるので、、
相手のお方は私よりは少なくとも40歳以上お若い20代の沖縄美人は、さりげなく応じてくれる。
この後、私は沖縄出身のモンパチの件で、お互いに微笑みながら話し合ったりしていた。
そして私は、お若い20代の沖縄美人を記念に写したかったが、
もとより情報プライベートの制約の風潮により自制した。
《つづく》
第7章 『美ら海(ちゅらうみ)桔梗(ききょう)』に魅了されて
その後、11月3日に私たち3人は、『海洋博公園』に行き、
家内たちは『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。
私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉に魅了されることがあるが、
植物も愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。
国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、私の目を楽しませてくれた。
そして遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。
空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。
このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。
植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。
私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。
いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。
私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と名付けた。
園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・ベンガル・ヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。
今回、本島を8泊9日で旅をしている身であるが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。
《つづく》
第6章 『あなたに』・・♪
店内からは沖縄の名曲が流れていた・・。
そして、私はひとつの歌に耳をかたむけた・・。
♪人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました
あなた疑う心恥じて 信じましょう心から
(略)
【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】
私は沖縄の歌に関しては、『さとうきび畑』を最初に知り、
『芭蕉布』、『花』、『涙そうそう』を聴いている程度であった。
たまたまモンゴル800の方達は、一ヶ月前頃に偶然テレビで、
沖縄列島の島々でコンサートしながら、南下する二時間のライブ版を観た。
この当時の私は齢ばかり重ねた63歳の身であったが、
好感できる若者である程度しか、さほど印象には残らなかったが、
この名護の付近の素朴なレストランで聴いた時、少しふるえ、そして和(なご)みを感じながら、
瞬時に魅了された・・。
私はこの時以降、リゾート・ホテルの部屋のベランダで海を見つめながら、
或いは散策をしている時、鼻歌を唄ったり、心の中で唄ったりしている。
♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない
(略)
【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】
《つづく》
第5章 風光明媚なリゾート地
10月31日
那覇市に2日滞在した後、私たちは快晴の中、風光明媚なリゾート地 を目指して、
タクシーで北上した・・。
私は周辺の情景を眺めていると、沖縄の住民の方達には申し訳ないが、
過酷な沖縄戦を忘れさせるかのような心持となった。
やがて、かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテルに到着した。
『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』であるが、
家内が中部観光には何かと利便性があり、大浴場もあり、6連泊滞在には最適と決めたホテルであった。
この後、『ブセナ海中公園』に行き、
空は青く、明るい陽射し、そしてさわやかな風を身体で受けると、
沖縄の風光明媚を心身感じ、リゾート気分を満喫できた。
遅い昼食を名護市の近くの『名護曲レストラン』で頂いたが、
素朴な沖縄料理を私たち三人は、オリオンビールを呑みながら、色々と食べ比べをしたりした。
店内からは沖縄の名曲が流れていた・・。
《つづく》
第4章 クファデーサーの樹の下で
この後、私たちは『ひめゆりの塔』に行き、
『ひめゆり平和祈念資料館』の中で私は別れ、独りで早めに庭に出て、
クファデーサーの樹木を探したり、
資料館の中で厚い一冊の本を買い求めたのをベンチで読んだりしていた。
そして私は、庭園を散策し、庭の手入れをされている年配の男性に、
『クファデーサー・・樹・・この庭園に有りましたなら・・教えて下さいますか・・』
と尋ねた・・。
男性の庭の周辺を歩きながら、
大きな樹木で空まで伸ばすかのように枝葉を広げた大木を指して、
『この樹が・・クファデーサーですよ・・』
と私に言った。
古来から沖縄に於いては、墓地の付近に植えて、さんさんと照り続ける中、
大きなクファデーサーは周囲に日陰をつくりだすので、長年人々に愛(いと)しまれている樹である。
かの沖縄戦で民衆、少年少女、そして幼児まで巻き込まれた悲惨な地上戦を思い馳せながら、
私はクファデーサーの樹の下で煙草を喫ったりした。
このクファデーサーに関しては、
両陛下が終戦50年の慰霊の旅として沖縄に訪れた時、
『平和の礎(いしじ)』をご覧になった後、
皇后陛下は平成七年にひとつの歌を詠まれた・・。
クファデーサーの苗木添ひ立つ
幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
作者・皇后陛下
この一句に導かれて、この樹木を知り、私なりに沖縄戦の過酷な戦場と思いを重ねた。
1時間半前後して、家内達がベンチに座っている私の所に来た・・。
家内の母は、
『XXさん・・ご免なさい・・遅くなってしまって・・
ひめゆり学徒の方たち・・私と同じぐらい齢なの・・』
と私に言ったりした。
私は家内の母の顔を見ると、目に涙を浮かべていた・・。
この後、私たち3人は、タクシーで『平和の礎』のある『平和祈念公園』に移動した。
そして私たちは、無名者の墓地、新潟県の墓地に花をささげ、黙祷をした。
私は敗戦の一年前に生を受けた身で、戦争を知らないひとりである。
あくまで、親族から教えて貰ったり、教科書、歴史書、小説、随筆などの書物、
そして映画などで観る限りである。
つたない身の私は、戦時で亡くなわれた数多くの墓石、
平和の礎に無数の刻まれた戦死者名を見ると、言葉を失い、呆然と戦争の残酷さを痛感させられた。
《つづく》
第3章 『ずゐせんの塔』に花をささげながら私は涙を浮かべて黙祷をして
私が『ずゐせん学徒隊』のことを初めて知ったのは、
2007〈平成19〉年10月15日であった。
購読している総合月刊誌の『文藝春秋』の読み残した記事を読みはじめた・・。
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿され、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、 副題が【沖縄の悲劇を胸に】と題されていた。
私は沖縄に関しては、高校生以来、真摯な思いで関心はあるが、
かの大戦の過酷な沖縄地上戦に於いて、看護要員として『ひめゆり学徒隊』は知識として少しは知っていたが、
恥ずかしながら『ずゐせん学徒隊』は全くの無知であった。
作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの綴られた記事を引用させて頂ければ、
《・・沖縄戦で犠牲になった沖縄県出身者は約12万人、うち軍人・軍属は約2万8000人で、
残りの10万人近くが民間人である。
すべての中学校、高等女学校で学徒隊が編成され、男子は鉄血勤皇隊、女子は看護隊として戦場に動員された。
男子は14歳から19歳、女子は15歳から19歳である。
そのうち、男子1559名、女子446名が戦場で亡くなっている。・・》
私が無知で、恥ずかしながら想像力が欠けていたのは、すべての中学校、高等女学校・・
と明記された内容であった。
作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんのこの寄稿された全文の中で、
『ずゐせん学徒隊』に関しては最初のほんの一部に過ぎないが、
長年の歳月の熱い心情で、淡々した基調で綴られている・・。
首里高等女学校の学徒隊は『ずゐせん学徒隊』と命名されて、61名で構成され、
33名の方が亡くなわれ、ずゐせんの塔として、まつった慰霊塔である。
この中で生き残られたひとりの方の証言と念願された言動を記載されている。
作家が取材で訪れた時、
『ひめゆり塔』には大きな献花台からこぼれ落ちるほどの花束が供え、
数百メートルしか離れていない『ずゐせん塔』には一輪の花もなく、と記載されている。
『ずゐせん学徒隊』の生き残られたひとりの大正15年生まれのお方が、
「・・ひめゆりばかりが有名になって、
同じように戦場で亡くなったずゐせん学徒のことは、誰も知らないし追悼もされてない。
それがずっと悲しくて、悔しくて・・」
と証言されて、
1993〈平成5)年4月、両陛下が出席する植樹祭の会場の近くに『ずゐせん塔』があるので、
両陛下に塔を見て頂きたく直訴した。
県知事に嘆願書を提出し、知事が不在だったので、副知事の前で嘆願書を読み上げた・・。
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
女性でも戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、崇(あが)められると信じて疑わず・・
衛生兵とともに奮闘致しました』
『生き証人は黙っている事が出来ません。
33名の代わりに声を大にして、「ずゐせん隊はかく戦えり」と叫びたいのであります』
この後、副知事から宮内庁を通し、陛下に伝えられた。
そして陛下のご希望に寄り、植樹祭の前に、両陛下から、ずゐせん塔に供える花束を託され、
『・・天皇陛下が私に、戦争の時はこのあたりにも来ましたか、とおっしゃった。
・・
このあたりは、飛び交う弾の中をさまよい歩いたところです。
たくさんの友達が死にました・・。
陛下は、苦労なされましたね、と言ってくださった』
そして、両陛下に自作の琉歌を披露され、
沖縄の文化に造詣が深く、みずからも琉歌をつくる天皇はご理解され、
翌日、所望された陛下に清書され届けられた。
そして、両陛下の車は、ずゐせんの塔の前を、ほとんど停止に近い最徐行でゆっくりと進み、
お2人は窓を開けて、じっと瞑目(めいもく)された。
このような概要であるが、かの大戦で日本本土で沖縄諸島だけが地上の戦場となり果て、
民間人の老幼婦女子、そして若き学生まで巻き込まれ悲惨と過酷を思い浮かべる時、
敗戦の一年前に生を受けた私さえ、胸は熱くなり、やがて深夜ひとり涙を流した。
私たち3人は、那覇市のビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊した日中、
私たち夫婦は15年前に来ていた『ひめゆりの塔』を行く前に、
『ずゐせんの塔』に花をささげたいと、私は家内たちに言った・・。
家内たちには、ずゐせん学徒隊に関しては、旅行の合間に話していたのである。
そして『アパホテル』からタクシーで『ずゐせんの塔』の近くで下り立った。
『ずゐせんの塔』は、主要道路から脇道を少し奥まった地にあり、
午前の陽射しを受け、さわやかな風が吹き、静寂な墓地であった。
私は『ずゐせんの塔』に花をささげながら私は涙を浮かべて黙祷をしたり、
家内たちも花をささげて、両手を合わした後、しばらく黙祷をした・・。
《つづく》
第2章 琉球文化の一端として
那覇市のビジネスホテル風の『アパホテル』にチェックイン後、最初には玉陵を観て廻った。
その後は、首里城を観て廻った。
私たち夫婦は15年前に来ていたので、
歴史館、陸墓は彼方の時代の時の再現を確認する為であり、
沖縄の明治以前の歴史を書物で学んできたが、王朝の興亡には私は余り興味がなく、
ただ中国、朝鮮、薩摩との交流は、改めて考えたりしいた。
琉球の置かれた状況をそれぞれの時代には、どのような形態であったのかしら、と思いを馳せたりした。
この後、牧志市場で魚介類を1階で買い求め、
2階が食堂風で食べさせてくれる所で、ヤシ蟹(カニ)とイカサミ等の周辺で獲れるのを賞味した。
家内たちは色々と賞味していたが、
私はオリオンビールを呑みながら、ヤシ蟹の味噌を味わえば、充分である。
《つづく》
序章 ささやかな旅路の前の思い
過ぎし2007〈平成19〉年の夏が過ぎた頃の夜、
家内はいつものように夜の7時過ぎに、独り住まいの家内の母と電話連絡を終えた後、
『お母さん・・死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したいって・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言った。
『やはりお義母(かあさん)さんは・・昭和5年生まれだったし、
戦時中は(新潟県)高田の女学校で、軍事工場の支援に強制従事させられた、と聞いたことがあったし・・』
と私は家内に言ったりした。
『そうなのよねぇ・・何か平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、言っていたし・・』
と家内は私に言ったりした。
この頃の私たち夫婦は、私が定年退職する直前の2004〈平成16〉年の秋、
家内の父は病死した後、独り住まいとなった家内の母を誘い、幾たびか温泉滞在旅行を重ねたり、
家内の母の要望で、初めて飛行機に乗って、初めての北海道の旅を叶(かな)えさせたりしてきた。
『お義母(かあさん)さんの・・死ぬまでに一度は・・
俺たちにとっては、何よりも弱い言葉だし・・』
と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。
結果的には、この年の2007〈平成19〉年10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦が高齢者の家内の体調を配慮して、沖縄本島の一部を訪れた・・。
私の沖縄に関しての思いは、1964(昭和39)年の秋に東京オリンピックが開催された時、
大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしていた時、
中野好夫、新崎盛輝、両氏による共著の『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読んだりした。
高校時代以来、時事に興味を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、深く悩んでいた・・。
そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。
若き私は感受性が豊かであったので、年長者の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となったのである。
それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。
私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。
この50代の時は、私の勤めていた会社が勤続25年になると、有給休暇5日間を頂ける制度があり、
私たち夫婦はJALの関係の旅行会社ジャル・ストリーズを利用して、
八重山諸島の石垣島の『ホテル日航 八重山』に連泊した後、その後は沖縄本島の恩納村の『ホテル日航 サンマリーナ』、
そして首里の『ホテル日航 首里』に宿泊して、4泊5日の観光周遊旅行をした。
いずれもジャル・ストリーズの企画した宿泊したホテルから次の宿泊するホテルの間に、
それぞれの名所など周遊できる専用バスのコースがあり、利便性のあるプランを利用した。
この時に石垣島に連泊した時、石垣島の島内を周遊したり、
西表島に船で訪れて、仲間川のマングロープの中を小舟で遡ったり、その後はカンビレーの滝まで散策したりした。
その後は隣接した由布島、そして竹富島などの八重山諸島を周遊したりしたが、
カメラを持参していなかったので、心の片隅に残っているだけである。
そして今回の沖縄の旅する10日前の頃に、総合月刊雑誌の『文藝春秋』に於いて、
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿文で、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、副題は『沖縄の悲劇を胸に』と題され、
『ずゐせん学徒隊』のことを学び、多々教示を受けたりした。
第1章 機中、ひとり涙をながせば
10月29日(月)
羽田空港を20分ばかり遅れて、那覇行きの航空機は離陸した。
私は2時間半ばかりの機中の時間は、煙草も喫えず、退屈きわまりない時であったので、
過日学んだ『ずゐせん学徒隊』のことを思い浮かべてた・・。
そして、このことを私は別ブログに綴って投稿した後、
この私のコメント欄に、沖縄の男性より、『友の碑(いしぶみ)~白梅学徒の沖縄戦~』のサイトを教示して下さり、
私は初めてこのことも知り、感銘を受けた後、資料として印刷した。
この資料を今回の旅に持参し、機中で再読した。
改めて、監督のメッセージ、企画制作意図を精読し、あの時代に思い馳せると、
心は高まり、そして瞼(まぶた)が熱く、やがて涙があふれてきた・・。
航空機の機長より、着陸のアナンサーがあり、機は下降し、雲の中を通り過ぎると、
眩(まぶ)しい陽射しの中、那覇空港が観えた。
《つづく》
私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
ここ6日前の頃から、日本列島の南海にある沖縄本島に、
明日の4月5日より6泊7日で滞在旅行をするので、家内と旅行の準備をしたりしている・・。
私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国のポッタム宣言を受け入れて、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。
しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、
そして8月15日の敗戦なのに『終戦記念日』称している日には皇居に向い、黙祷を重ねたりしてきた・・。
こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、ここ50数年、黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。
そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。
沖縄に関して、恥ずかしきことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている中、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読んだりした。
そして高校時代以来、何かと時事に関心を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、深く悩んでいた・・。
そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。
若き私は感受性が豊かな時であったので、知識人の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この本の言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となった・・。
これ以降、やがて社会人となり、そして定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに、後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。
私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れることが出来なくなり、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。
もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、沖縄戦は事実上集結した日である。
そして沖縄県は『慰霊の日』として、戦没者追悼式が毎年行われている。
何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
せめて『慰霊の日』は、沖縄に向って黙祷を重ねたりしてきた。
私よりご年配の方はともかく、私より若き世代の人たちの一部に、
『沖縄慰霊の日』の由来を誰でも解り易く、簡潔に記した書物は、
私が知る限り、知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の書かれた『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この中で、この『沖縄慰霊の日』を明記されている。
そして私は若き人たちと共有致したく、今回もあえて転記させて頂く。
《・・ 太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。
そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。
この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、その3の1は、前記のような補充兵だった。
これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。
兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。
このアメリカ軍が、1945(昭和20年)年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。
彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。
日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。
この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。
残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。
勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。
更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
県民達の凄惨な事件が続発した。
そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。
しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。
この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。
軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。
沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、1951年(昭和26年)から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。 ・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。
私は転記しながら、改めて再確認しながら、戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。
私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
この中のある時、海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私はガイドさんから教えて頂いた。
そして私は、前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土が被弾する状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして涙があふれていた・・。
私は『沖縄慰霊の日』、そして原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
そして 敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方たち、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
毎年この日に黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
そして今回、掲載した数々の写真は、過ぎし2007年〈平成19年〉10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母と共に、沖縄本島の一部を訪れた時に撮ったものである。
家内の母は、1930年〈昭和5年〉生まれであり、
この数か月前に、死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい、と家内に言ったりした。
家内の母は、戦時中は(新潟県)高田の女学校時代に於いて、
軍事工場の支援に強制従事させられた体験を含めて、
何か平和祈念公園の中で、沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地にも花をささげたい、
このような慰霊の旅路を、この沖縄の前半の時に私たち3人は巡礼した。
この後、佐野眞一・著作の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(2008年、集英社インターナショナル)、
『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(2013年、集英社インターナショナル)を読み、
沖縄の光と影を学んだりしてきた。
或いは福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(2014年、中公新書)、
改めて敗戦後の怜悧な国益に基づいた実態史を多々教示されたりしてきた。
そして大久保潤、篠原章・共著作の『沖縄の不都合な真実』(2015年、新潮新書)、
ロバート・D・エルドリッヂ著作の『オキナワ論』(2015年、新潮新書)、
高良倉吉・編著作の『沖縄問題 ~リアリズムの視点から~』(2017年、中公新書)、
篠原章・著作の『外連の島・沖縄 ~基地と補助金のタブー~』(2017年、飛鳥社)、
沖縄の現実の難題を多々学び、無力な私は憂いたりしている。
この間、改めて沖縄戦の過酷な実態は、ユージン・B・スレッジ・著作(訳・伊藤 真、曽田和子)の
『ペリリュー・沖縄戦記』(講談社学術新書)を読み、戦地でそれぞれ置かれた人が、
狂気のふるまいに、映像では表現しずらい多くのことに、震撼させられてきた。
今回、沖縄本島の北部地方の本部(モトブ)にあるリゾートホテルに
4月5日より6泊7日で滞在旅行をする。
そして私は波打ち際を散策したり、朝夕の海上のうつろう情景、
家内は日頃の家内の母の介護の疲れを癒す為、
私たち夫婦はゆったりと過ごす予定としている。
この間は過ぎし年に、沖縄に訪れ、こうした中で私がどのような思いで旅をしたのか、
予約投稿をしますので、お読み頂き、ご笑話頂ければ幸いです。
※コメント欄、しばらく閉鎖させて頂きます。
こうした体験があったので、2013年1月下旬、やはりクラブツーリズムのフリー滞在プランを利用して、
帯広の郊外の十勝幕別温泉の中のひとつのリゾートホテルに、5連泊ばかり滞在し、周辺を散策したりした。
この地域は、この厳冬期はマイナス10度前後、烈風か寒気団が襲来すればマイナス25度前後と予測して、
防寒着で身を固めて、周辺を歩き廻ったりした。
20日の冬晴れの中、東京の羽田空港で、11時30分発のとかち帯広空港行きを待合所で待機していると、
たまたま冬富士の情景が観えて、
『羽田空港から、富士山を見たのは初めてだょ・・』
と私は微笑みながら家内に言ったりして、これからの旅路は何かしら幸運があるのかしら、
と余計なことを思ったりした。
とかち帯広空港に予定通り午後一時に着陸した後、私たち夫婦は帯広市の駅前をめざして、
40分ばかり空港連絡バスに乗車した。
そして指定された『ルートイン帯広駅前』で待機していると、宿泊する送迎車のマイクロバスに乗り込み、
帯広市内の街中を通り、隣接した札内町の街中を走行し、やがて小高い丘を登りきった所に、
私たち夫婦が滞在するホテルが観えた。
そして館内に入り、チエックインする前に、私は思わず微笑んだりした。
私たちが5泊ばかり滞在するレゾートホテルは、『十勝幕別温泉 グランヴィリオホテル』である。
そして私たち夫婦は、指定された10階の一室に入り、宅配便で送付した大きめの旅行ケースを確認したり、
室内を見たりした後、ベランダからの情景を観たりした。
十勝幕別温泉のリゾートホテルに滞在している中で、
優先的に緑ヶ丘公園にある『百年記念館』を訪れたかったのであるが、
21日の月曜日は休館日と旅立つ前に知っていたので、やむなく帯広競馬場の『ばんえい』競馬を観る為に、
9時過ぎに訪れた。
私は競馬場に関しても無知であり、わずかながら東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃に、
長兄の友人が来宅していた時に、教えを受けて中央競馬の府中競馬場に於いて、数回ぐらいレース券を購入して程度であり、
まったくの素人であり、ここ50年弱は競馬のレースから遠ざかっている。
しかしながら帯広競馬場は、世界で唯一『ばんえい』競馬を通年開催されている、
と知り、たまたま私たち夫婦は訪れたのである。
そしてレースが開催前であったので、競馬場の正門近くにある『とかちむら』で、
《 たくましい十勝の大地が育んだ新鮮野菜や色鮮やかな花々が並ぶ『産直市場』。
食材の宝庫ならではの味覚が味わえる『キッチン』。
豊かな気候と風土から生まれたスイーツやオリジナルグッズが揃う『スイーツ&セレクト』。
3つのゾーンで四季折々の十勝の魅力をお楽しみいただけます。 》
と解説書に明記されていたので、コーヒーを飲んだり、家内はお菓子を食べたりした。
その後の昼食も、この『とかちむら』の食事処で、私は士別産のヒレステーキを食べ、
特選されたステーキだ、と家内に話しながら絶賛した。
競馬場の館内からレース場の近くで、私たち夫婦は見たりした。
その後、『ばんえい』競馬の開催中の裏舞台が見られるバックヤードが、
たった100円で見ることができるので、私たち夫婦と60代の女性は解説員の説明を受けながら、
競馬に関する施設、レース場の状況などを観たりした。
やがて隣接してある7頭ぐらいの馬、そしてポニー、ヤギ、ウサギなどがいる『動物ふれあい広場』で、
動物好きな家内は、盛んにニンジンを与えたりした。
結果として、家内は日本酒の高級な吟醸酒が買い求めることができる費用、
それぞれの馬にくまなくニンジンを与え、私は微苦笑しながら見たりしていた。
この後、競馬場の前よりタクシーで駅前の近くに出て、
この周辺で一番大きな『長崎屋』で防寒靴などを観たりした。
そして私は何よりも驚いたのは、エスカレータが階段状でなく、動く歩道が上昇しているような状態であった。
私はデジカメを取りだして、見知らぬ女性が乗っていたけれど、記念に一葉だけ撮ったりした。
今回の旅路のひとつには、十勝地方を開拓された人を学ぶこともひとつであり、
緑ヶ丘公園にある『百年記念館』を訪れて学ぶことであった。
幾たびか北海道を旅行し、2008(平成20)年12月21日より4泊5日で札幌に訪れ、
冬の時節としては三度目の冬であったが、初めて『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、
市内の各地をゆっくり散策したりした・・。
こうした中で吉田武三(よしだ・たけぞう)・著作の『武四郎つれづれ ~北の風土記』(北海道新聞社)を購読し、
遅ればせながら北海道の名付け親と称せられる松浦武四郎の道内をくまなく踏査の偉業を学んだりした。
そして一昨年の2011〈平成22〉年の12月中旬に、初めての冬の時節に帯広の観光温泉ホテルに滞在し、
十勝地方を開拓に貢献した晩成社を学んだりした。
今回、旅立つ前には、下記の【帯広市 公式サイト】から、改めて多々学んだりした。
http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/seisakusuisinbu/kouhoukouchouka/shishi_01.html
☆【帯広市 公式サイト】<==帯広市史<==第一章 自然環境☆
このような思いを秘めて23日の朝の10時過ぎに『百年記念館』を訪れた。
そして館内の展示品を見たりした。
こうした中、映像装置で『帯広の森』関係のビデオがあったので、
私たち夫婦は指定して30分ばかり視聴し、
過ぎし50年前の当時の帯広市第5代市長の吉村博からの提唱、そして輪郭で、
『帯広の森』が出来、やがて多くの市民の植林~剪定~再利用などの好意の結晶で、
数年前に30周年を迎えて、大きな森となり維持管理されている、と初めて学び感銘されたのである。
ビデオとほぼ同一内容が下記のサイトに明示されている。
http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/toshikensetsubu/midorinoka/d070202obimori.data/obihironoima.pdf
☆【帯広市 公式サイト】<==帯広市史<==第一章 自然環境☆
やがて退館後、緑ヶ丘公園の園内を歩き、市民の植林された結晶かしら、と樹木を見ながら歩いた。
そして私たち夫婦は、緑ヶ丘公園に別れを告げて、街の雪が残る歩道を20分ぐらい歩き、駅前に出た。
やがて宿泊している『十勝幕別温泉 グランヴィリオホテル』に帰館して、
私たち夫婦は、指定された10階の一室からのベランダからの情景を観たり、
12階の展望風呂から街並みを観たり、ときおり私はグランヴィリオホテルの周囲を歩き廻ったりした。
どんよりとした曇り空の日もあり、或いは澄み切った冬晴れの日もあったりした。
快晴の日の出の情景をベランダから撮ったり、ホテルの周囲からホテルを撮ったりした。
どんよりとした曇り空の中、ホテルの前の積雪の中のふるさと公園を撮ったりし、
この右手の小さな建物は公衆電話がある可愛らしい建物である。
そして快晴の夕暮れ時、夕陽が射し込む光景をペランダから観て、思わず見惚れながら撮ったりした。
そして旅の前日の絹糸のような霧状の雪雲が低地を覆(おお)いはじめて、やがて雪が舞い降り始めた・・。
十勝平野は幾千の川が流れ、ほぼ中央に位置する帯広市は、十勝川、そして札内(さつない)川の大河が流れている。
そして札内川は、十勝川にそそぐ近くに十勝中央大橋があり、この大橋の下流の近くに十勝温泉がある。
この十勝温泉の川沿いに白鳥などの野鳥が飛来する、と書物にも明記され、
或いは川沿いの情景が旅人、写真の愛好家から賞賛されている、と私は学んできたので、
野鳥好きな家内、私は川沿いの情景に魅せられて、この地に向った。
駅前より路線バスに乗り、十勝温泉のあるホテル前で降り、
その後は適当に散策した時、十勝川のはずれの小さな川で、私には川霧のように見えたので、
私たち夫婦は川岸に下り立った。
気温がマイナス3度前後と私は感じたりしていたので、もしかしたらホテルの温泉が注(そそ)がれているのかしら、
とも思ったりした。
そして残り雪のある河原を歩いた行くと、野鳥の声が聴こえてきた・・。
この右手にある看板の野鳥の説明図の近くにネットで囲まれた中で、
白鳥、カモなどが50数羽見られ、近くには餌台が置かれて、家内は盛んに餌を野鳥に与えたりしていた。
その後、観光温泉のホテル群の小道を歩いたりした後、
路線バスは2時間近く間があったので、駅の近くまで歩こう、と私たちは決意して歩きだした。
やがて十勝中央大橋の積雪ある歩道を歩きながら、札内川が十勝川にそそぐ地帯かしらと思いながら、
デジカメで撮ったりした。
そして十勝中央大橋を渡りきった時、記念に歩いてきた大橋の歩道を撮ったりした。
ほぼ直線の道路は業務用のトラックなどの輸送車は疾走し、私たちは歩道をひたすら歩き、
ときおり周辺の情景を観たりした。
その後、路線バスの標識が見えて、時刻表を見たら一時間ばかりあったので、
周囲を見渡すと幸運にも食事処があったので、昼食代わりに入店した。
そして想像したよりも美味であったので、このお店の情景を記念に撮ったりした。
その後は無事に路線バスに乗車でき、やがて帯広駅の隣接した札内駅の近くで下車した後、
札内駅の駅前よりタクシーに乗り、宿泊しているホテルに帰館した。
私たち夫婦は24日の快晴の中、十勝川の川沿い、十勝温泉の街並みを散策したり、
そして札内(さつない)川が十勝川の大河にそそぐ近くに十勝中央大橋の歩道を歩いて渡ったりし、
数時間ばかり魅せられて彷徨(さまよう)ようにひたすら歩き廻ったりした。
そして3時少し前に滞在しているホテルに帰館した後、
部屋のベランダから山里の情景を観たりしていると冬場晴れから曇り空に変貌し、
まもなく右側からは絹糸のような霧状の雪雲が低地を覆(おお)いはじめて、やがて雪が舞い降り始めた・・。
何かしら札幌の郊外、十勝平野の奥地の糠平(ぬかぴら)温泉地で見てきた雪質と違い、
霧状のような雪が舞い降り、私たちは長らく見惚(みと)れたりした。
翌日の25日は旅の最終日であったが、ベランダから稀な雪質に魅了されて、
二葉ばかり撮ったりした。
その後、私はホテルの正面にある小公園の情景を記念に撮ったりした。
この後、私はホテルの正面入り口を撮ったりした。
早朝からホテルの方たちが除雪車で、くまなく歩道や周囲の道路を除雪し奮戦していたが、
霧状のような雪が舞い降っている。
まもなくホテルのひとりが、正面入り口で除雪され、やがて一段落していた時、
私は声を掛けたりした。
『除雪されるのは重労働で大変ですねぇ・・
しかし私たち旅人にとっては、待ち焦(こが)れた雪舞う情景でして・・
何かしら昨年に札幌で見たスノー・パウダーのような雪質と違い、やはり寒さの関係なのですか』
と私は言ったりした。
確かに帯広のこの時節は、日高山脈などの山なみに囲まれて、
積雪は少ないが、朝夕の気温はマイナス15度前後の厳冬であり、この寒さが雪質に関係しているのかしら、
このような意味合いの言葉を私は交わした。
そして私は、
『雪が降りますと、気温が高くなり、たぶんマイナス3度ぐらいの暖かい朝ですねぇ』
と言ったりして、ホテルのひとりに微苦笑されたりした。
私たちはチエックアウト後、ホテルのご厚意でマイクロバスで帯広駅前まで乗車した後、
雪は止み、昨夕から今朝までの新たな雪積15センチぐらい中、街並みは変貌して、
私は見惚れたりした。
その後、帯広のホテルを巡回している経路のとかち帯広空港行きのバスを待っている間は、
駅前の『ホテル日航 ノースランド帯広』のコーヒーラウンジで過ごそう、
と私たちは話し合っていた。
そして駅ビル内で土産品を『六花亭』で買い求めた後、再び雪が降ってきた・・。
私たちは『ホテル日航 ノースランド帯広』に向う途中、私は大きな『長崎屋』ビルに本屋の表示が見えた。
この後、私たちは『ホテル日航 ノースランド帯広』のコーヒーラウンジに入り、
家内がコーヒーを飲んでいる間、
私は札幌で見たスノー・パウダーのような雪が舞降る中、『長崎屋』ビルにある本屋をめざした・・。
私は23日に緑ヶ丘公園の園内にある『百年記念館』を訪れ、
改めて十勝地方を開拓に貢献した人々の苦難が多かった人々を学んだりした。
そして何かしら思い込みの強い私は、この夜の夢の中で開拓に貢献した人々が出てきたのである。
このような思いで、何かしら書物で改めて学ぼうと思ったりしていたので、
本屋にかけ参じたりした。
許された短時間で選定した一冊の本は、
松山善三・著作の『依田勉三の生涯』(ハースト婦人画報社)であり、
本書は1979〈昭和54〉年に潮出版社より刊行され、その後の復刻本である。
私は十勝地方を開拓に多大に貢献した晩成社を率いた依田勉三(よだ・べんぞう)氏を、
私が長年敬愛している映画脚本家、作家である松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏が、
御存じで、しかも書物に著作され上梓していたことに、私は驚きながら買い求めた一冊となった。
そして私はスノー・パウダーのような雪が舞降る中、小躍(こおど)りしながら、
家内が待っている『ホテル日航 ノースランド帯広』のコーヒーラウンジに戻った。
そして私たち夫婦は、窓辺から雪が舞降る情景をコーヒーを飲みながら談笑した。
こうした中、2011年12月に糠平温泉に連泊した後、
『糠平館 観光ホテル』のご厚意で、送迎バスで、とかち帯広空港まで送って頂けた中の状況、
私は家内に思い浮かべながら話したりした。
ホテルの前を午後1時少し前に送迎バスは出発し、雪道の中を上士幌、士幌を通り過ぎると、
路面は除雪した雪は消え、周辺は大雪原の中、小雪も止み、まばゆい晴れ間と変貌した。
ときおり微風が吹くと、大雪原の粉雪が吹き飛ばされて、道路に吹雪のような情景となり、
以前に観た道路際の風雪避けが、こうした時に大いに威力を発揮するが、
広い北海道の大地では限りある、とも感じさせられたりした。
やがて帯広市の郊外、やがて高速道路を疾走し、空港までは送迎バスは走ったが、
100キロぐらいの道のり、1時間半ばかりであったが、
改めて殆ど周辺の情景は大雪原であったので、やはり広い十勝平野を実感させられたりした・・。
このようなことを私は家内に言ったりした後、とかち帯広空港発の午後4時の便であったので、
それまでの待ち時間は家内がお土産を購入した
やがて私たちは、とかち帯広空港行きのバスに乗車し、
雪が舞降る広大な雪原を車窓から眺め、これこそ冬の圧倒的に魅せられ北海道の情景だ、
と私は高揚しながら家内に小声で話したりした。
こうしたことをまばゆい雪景色を見て、あのようなこともあったなぁ、と微笑みを重ねたりした。
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私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む、73歳の年金生活の身で、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住み、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
たった2人だけ家庭であり、ささやかに過ごしている。
本日の午前中のひととき、いつものように家内から依頼された買物で、スーパーに行く途中、
一昨日の10時半より雪が降り、やがて4年ぶりの20センチぐらいの積雪となったりしたが、
今でも大半が残り雪があり、陽射しを受ける中、まばゆい冬麗の情景となっている。
こうした情景に私は見惚れていると、過ぎし年に北海道の『帯広』地域に冬の旅路をしたことが、
思い出されたりした・・。
私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであり、特に雪の舞い降る情景に魅せられて、
この時節になると、雪恋し、心情となり、
何故かしら北海道の風土に魅せられて、幾たびか訪れてきたが、
無念ながら十勝地方の帯広の地域は、わずかである。
最初は私が現役サラリーマンの40代の半ば、周遊観光で晩秋の時に、
道東めぐりの2泊3日の最終で十勝地方を観たりしりした・・。
その後は、年金生活を始めた翌年の5月下旬、
知床半島のオホーツク海を観光船で三時間半ばかり乗船しながら、
早朝の洋上から太陽が昇る、と惹かれて3泊4日の周遊観光をして、旅の終わりとして十勝川の筒井温泉に宿泊したが、
いずれも雪のない時節であった。
しかしながら旅人で遊学する私は、やはり北海道は冬の季節が最も魅了されると思っているので、
いつの日にか、雄大な十勝平野の中の帯広市を冬の時節に訪れたい、と念願したりしてきた。
そして2011〈平成23〉年12月20日より北海道の十勝平野の中の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして奥地の大雪連峰の東部の糠平〈ぬかびら〉温泉に2泊して訪れる、滞在型の4泊5日の旅をした。
たまたま今回の旅の企画は、通販の旅行会社のクラブツーリズムが団体観光滞在プランとして、
11月中旬の頃に新聞に掲載されていた。
家内が見て、十勝川温泉と糠平温泉の特色ある旅程に、
この時節は交通機関のことを配慮すれば、私たち夫婦の個人型の旅としては困難さが予測され、
何よりも旅行会社まかせで、旅費も驚くほどに格安であり、
私たち夫婦は瞬時に魅了されて、この団体観光滞在プランに参加した。
私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。
私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。
この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。
そして帯広市は、シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた、
と私は25年前に学んだりした。
私は中島みゆきさんを秘かに女神のように信愛し、
このお方の幾つかの歌に支えられて、この人生の難局を乗り切ってきたひとりである。
このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたい心情があった。
この時の旅路は、十勝平野の中、帯広空港から帯広市の郊外にある十勝川温泉の筒井地域にある観光ホテルの送迎バスの乗り、
宿泊地の筒井地域を散策し、
その後は糠平温泉郷に向い、送迎バスで士幌、上士幌を通り、宿泊地の糠平〈ぬかぴら〉温泉の観光ホテル周辺を散策した後、
帰路は一路南下して帯広空港のコースであった。
20日より北海道の十勝平野の中の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして奥地の大雪連峰の東部の糠平〈ぬかびら〉温泉に2泊し訪れ、4泊5日の旅をした。
このようにわずかな旅路であったので、もとより壮大な十勝平野の中のほんの一部となる。
2000メートル級の山なみが聳える西方の日高山脈、北方の石狩山地、そして東は白糠丘陵に囲まれ、
平野の中を十勝川を中核とした札内川、戸蔦別川、岩内川、帯広川、売買川、ウツベツ川などの幾重の川が流れ、
中心地にはは帯広駅があり、明治の中期の頃から碁盤目状の大きな区画が四方に広がり、
この間には防風林が設けられている。
こうした壮大な十勝平野は、大豆、小豆、甜菜、じゃがいもなどの畑作を広い耕地、
或いは広大な酪農がされている情景が誰しも感じると思われる。
訪れたこの時節は、この農地や酪農地は30センチ前後の大雪原に変貌し、
快晴の時は、遠方の山なみが雪で光輝き、高い大空は青い空が果てしなき拡がる蒼穹(そうきゅう)となった。
そして大雪原は陽射しを受けて、まばゆい光を帯びていた。
こうした時は、朝の6時はマイナス12度前後、昼下がりはマイナス4度前後、
そして夜の6時はマイナス6度前後となった。
或いは小雪が舞い降ると、天上から地表まで、みゆきの世界に変貌し、
ときおり風が吹けば、吹雪となるが、
寒さはマイナス7度前後で、雪が降る時は暖かく、
私は未知の大陸の北中国、朝鮮半島に近い気候かしら、と微笑んだりした。
『みゆき』という表現は、もとより雪のことであり、
万葉集の頃は美由伎、私の敬愛しているシンガーソングライターの中島みゆきさんの本名は、
美雪だったかしら、と思いながら、私の好きな言葉のひとつである。
20日の午後3時20分に予定通り『とかち帯広空港』に着陸した私たち一行は、
宿泊先の帯広市の郊外にある十勝川温泉の筒井地域にある観光ホテルの送迎バスの乗り込んだ。
ここで初めて私は、今回の旅を共にする方たちのメンバーを知った。
羽田空港で旅行会社の方に参加最終チエックしたが、お互いにフリーの状況であり、
ただ航空便が指定されただけであったので、参加メンバーは不明であった。
私たちは送迎バスの車内で、60代、70代前半の夫婦が多く、
後で知ったのであるが独りで参加される男性5名、女性1名で、総勢23名であった。
私たち夫婦は、この後の宿泊地の食事処、ロビーなどの館内で、
共に旅する70代前半の3組の方たちを中心に、さりげなく談笑を重ねたりした。
そして現地にお住まいの方たちとも、私は何かと教えを受けながら、
ひとときを言葉を交わし、一期一会を享受した・・。
夕暮れが山なみに染め、そして大地は雪原の広大の情景を観ながら、
一時間ばかり車窓から鑑賞し、宿泊地の『十勝川 国際ホテル筒井』に到着した。
この観光ホテルは、私が定年退職の翌年の2005年5月下旬に、
知床観光船で早朝にウトロから出航し、日の出の頃に洋上から知床岬を観る貸切クルーズに魅了され、
団体観光周遊ツアーに参加した3泊4日の中で、たまたまこの観光ホテルに宿泊した体験があったので、
6年ぶりの再訪となった。
しかしながら、忘却とは忘れる事なり、と名言されたれ菊田一夫〈きくた・かずお〉氏の通り、
《 日本随一 天然植物性 モール温泉 》で、
《 肌にしっとりとなじみ、湯上りに肌がしっとりツルツル効果を実感する美人の湯 》
と明記されたポスターを見た記憶だけが鮮明に残っている。
その当時の私は、入浴後にポスターを見ながら、家内たちの女性なら喜ばしい限りであるが、
年金生活の駆け出し私は、温まればどうでもよいわ、と苦笑したりしていた。
再訪した観光ホテルは、リニューアルされて、
《 真心美人のおもてなしの宿 》と称されて仲居さんの30数名を見かけたが、
男性の私としては、ひとりの小柄な黒髪の仲居さんに見惚〈みと〉れただけであるが、
全般としては溌剌と笑顔を浮かべながら、健気に動く感じは好感させられた。
私は早寝早起き元気な児に徹し、入浴後はビールを吞み、
持参した新書本の二冊を布団の中で読んだり、まどろみながら昼寝をしたりした。
そして、この間のひととき、この周辺をマイナス数度ぐらいの中、
5キロぐらいを歩き廻り、帯広の郊外の情景を観て、思索を重ねた・・。
シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた情景に思いを馳せたりした。
或いは亡き作家の福永武彦(ふくなが・たけひこ)の遺〈のこ〉された作品を思い浮かべたりした。
私は若き20代の前半に、文学青年の真似事をしたことがあり、氏の作品に魅了されたひとりであった。
たまたま『草の花』を読みだして、圧倒的に魅了された後、
『風土』、『夜の時間』、『冥府・深淵』、『愛の試み』、『心の中を流れる河』、『 世界の終り』、
『廃市』、『告別』、『忘却の河』、『海市』、『死の島』などを精読したりした。
氏は敗戦後の1945年、治療と疎開のため北海道帯広市に移り、
3か月ほど滞在したのち一時東京に戻るが、
翌年り1946年に再び帯広に渡り、帯広中学校(現在・柏葉高校)の英語教師として赴任する。
その年に処女作「塔」を発表された後、冬に肋膜炎を再発し、
1947年秋に手術のため上京し、清瀬の東京療養所に1953年まで入院した。
そして後年に、『心の中を流れる河』の作品は帯広を舞台に綴られている。
このようなことを思い馳せながら、
遠方の2000メートル級の山なみが雪で光輝き、高い大空は青い空が果てしなき拡がる蒼穹(そうきゅう)、
そして大雪原は陽射しを受けて、まばゆい光を帯びている中、歩いたりした。
家内と共に歩いたりした時は、頬が寒いわねぇ、と家内は言ったりしていたが、
凛とした冷気の中、私は微苦笑をしたりした。
夜のひととき、中島みゆきさんの学んだ高校は、時代こそ違うが、
福永武彦さんが一時時期に英語教師をされていた高校と同じと思われ、
中島みゆきさんも『草の花』、『心の中を流れる河』、或いは『告別』を読まれた、
と私は確信を覚えながら、ぼんやりと思ったりした。
そしてやはり私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、雪の大地は凛とし、果てしなく青空が高く観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。
こうした思いを秘めて2011〈平成23〉年の12月20日より、
帯広市の郊外にある十勝川の筒井温泉にに2泊した後、
いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地の旅路をしてきて、
私たち夫婦は魅了された。
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私の現役時代の夏季休暇の旅行は、
1996年(平成8年)の8月初旬に3泊4日で作並温泉を滞在した。
この当時、私たち夫婦は、何かとJR東日本のビューの旅行パンフレットを見たりして、
幾たびか旅路を休日とか代休を活用して、重ねていた私たちの時代であった。
こうした中、仙台市の郊外にある作並温泉は未知であったので、
夏季休暇を利用して、周辺の観光めぐりをしょうとした。
この当時も、私は現役のサラリーマンで数多くの人と同様に、多忙な時期であった・・。
春先に大幅な人事異動であり、私も異動し、ある部署に落ち着いたと感じた夏季休暇に、
家内と宮城県の作並温泉にある当時は観光ホテル『一の坊』に3泊4日で滞在した。
上野駅から新幹線に乗り、たった2時間ばかりで仙台駅に到着したのは、
私はかっての国鉄時代の『L特急』大好きだったが、新幹線の威力に改めて驚かされた。
そして在来線の仙山線に乗り継ぎ、仙台市の郊外の情景を眺めたりし、
『愛子』と名づけられた駅、街を思わず微笑んだりした後、1時間弱で、作並駅に到着した。
駅前から宿泊先の観光ホテルの迎えのマイクロバスが待機して下さり、
私たち夫婦は乗り込み、樹木の多い林の中を通り抜けると、
宿泊先の看板、そして建物が観えた。
http://www.ichinobo.com/sakunami/
☆ 作並温泉『ゆづくしSalon一の坊』 ホーム・ページ ☆
広瀬川に沿ったゆるやかな傾斜に館内の露天風呂の数々があり、
私たち夫婦は、それぞれの風呂を享受した。
そして川べりに近いところからは、広瀬川の清流に小魚が遊泳する情景も見られ、
水は清き、という言葉がぴったりだ、と私は家内に話しかけたりした。
この後、ホテルから数キロにあるラベンダーの丘陵に行ってみよう、
とロビーの外れで私たち夫婦は話し合っていると、
ホテルのご好意でワンボックス・カーで送迎して下さり、私たち夫婦はラベンダー園に行ったりした。
このラベンダー園は、ゆるやかな丘陵に数多くの品種のラベンダーを育てられ、
私達は歩き廻り観賞させて頂いた。
そして休憩所を兼ねた軽食処は、広いテラス風で木のテーブル、椅子が、
ゆったりと配置され、もとよりラベンダー畑もまじかに見えたりした。
こうした中で、家内はラベンダー入りの紅茶を飲んだり、
ラベンダー入りのアイス・クリームを食べたりしたが、
私たち夫婦はラベンダーの香りは強すぎて、苦手となり苦笑したりしていた。
そして私は、ビールを呑みながら、煙草を喫ったりし、
前方のラベンダーの丘を眺めれば、何かしら開放感があり、情景に好感を増したりした。
この後は、ホテルの周辺を散策をしたりし、のんびりと過ごしていた。
翌日、本来であったならば、館内に宿泊している方達は、仙台の七夕を観に行かれる方が多かったが、
私は平素は会社で多忙だった時代で、せっかくの休暇に、
わざわざ人の多過ぎるところは、なるべく避けていたので、論外であった。
或いは近くにある『ニッカ・ウィスキー』の仙台工場の敷地を歩いたり、
試飲させて頂いた後、私なりのお好みの品を購入する予定であったが、
仙台工場はお休みのようです、と仲居さんから教えられ、やむなく私たち夫婦は断念した。
こうした中、仙台市の駅前より、観光バスの定期周遊の半日コースで、
松島めぐりのコースがあり、私達は仙山線に乗り、駅前より私達は参加した。
そして松島で遊覧船に乗ったりし、海上の美景を楽しんだりした。
翌日のひととき、ホテルのロビーの一角に、
3メートル前後の竹に5色の短冊が飾り付けられていたことに気付いた。
私は昼の風呂上り、浴衣姿でロビーの一角を歩いていた時、
この短冊を何気なしに読んだのである・・。
数多くの短冊を読んだが、ひとつの短冊に心を惹(ひ)かれた・・。
《 らいねんも このホテルに
かぞく ぜんいんで こられますように 》
と小学生の上級生の女の子らしい綴りで書かれていた。
私は作並温泉に訪れる途中で、
仙台市内の華麗で豪壮な七夕(たなばた)を少し観えたが、
この女の子のひとつの短冊に籠(こ)められた願いが、心に沁みた・・。
そして私は華美な仙台の七夕もそれなりに良いが、遥かにこの短冊のひとつに魅了され、
この人生の微笑みを頂き、心を寄せたりした。
このようにささやかな想いでがあり、私はこうした情愛が限りなく愛(いと)おしく、
華美な飾りより、たったひとつの願いを託した尊ぶ心に、圧倒的に魅了されたりした。
そして旅の終わりは、
仙台駅から程近い伊達政宗の廟所(びょうしょ)である『瑞鳳殿』を2時間半ばかりで、
観賞して、帰京した。
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私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
そして私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、
結婚以来、国内の各地をときおり旅路を重ねてきた・・。
やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始め、
旅行の日程から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなったりした。
そして季節としては、5月の大型連休が終わった後、
或いは舞い降る雪が恋しく冬の時節に旅行をすることが、多かったりしてきた。
私たちの旅路、定年後まもなく私は自動車の免許書の更新を断念した私は、
もとより旅先でもレンタカーも利用できなく、
最寄駅の近くにある旅行代理店に私たち特有のプランを依頼して、JR、航空機、フェリーなど、
そして宿泊先を選定したりしてきた。
或いは通販のクラブツーリズムの滞在型で、魅了されたプランに参加して、
幾たびか活用したりしてきた。
いずれにしてもリゾートホテル、観光ホテル、観光旅館などに滞在して、
街中、周辺を歩き廻ったり、郊外の山里の小道を歩いたりして、遊学をしたりしてきた。
こうした中、秋の旅路も、少しばかりしてきた・・。
2011年10月16日から3泊4日で、初めて八ヶ岳の山里にある大泉高原を訪れた。
八ヶ岳の高原にあるリゾートホテル『八ヶ岳ロイヤルホテル』に三連泊するクラブツーリズムのプランがあり、
星空が観やすく、数多くの落葉樹が朱色、黄色などに染め始める錦繍(きんしゅう)の情景が展開する光景を託して、
周辺を歩き廻ったり、山里の散策路を歩いたりした。
2011年11月13日から3泊4日で、秋田県の田沢湖の高原温泉を訪れた。
田沢湖の湖畔より北上した山麓に『プラザホテル山麓』に3連泊するクラブツーリズムのプランがあり、
乳頭温泉郷に近く、何かと気になっていた乳頭温泉郷めぐりもあったりした。
この年の3月の初旬に私たち夫婦は5月中旬頃に、乳頭温泉郷の各地の温泉めぐりと散策を8泊9日間の予定をしていたが、
3月11日の東日本大震災で東北の各地が甚大な被災となり、やむなく中止したので、
敗者復活戦のような変貌したプランとなった。
そして私たちは湯めぐりしたり、付近の山里の路を歩いたりして、最終の夕べには初雪にめぐり逢えたりした。
2012年10月22日からは、北海道の洞爺湖に晩秋の時節に初めて訪れた。
洞爺湖の湖畔の近くにある観光ホテル『湖畔亭』に9連泊するクラブツーリズムのプランがあり、
私たちは周辺を歩き廻ったりして、この間、花火が連日打ち上げられて、
私たちは指定された部屋のベランダから鑑賞したり、やがて三日後には私は部屋に敷かれた布団に横たわりながら、鑑賞した。
2014年10月14日からは、八幡平の周辺に点在する温泉地を訪れたりした。
私はこの年の9月下旬に古希(こき)と称される満70歳となり、家内は12月下旬に高齢者入門の65歳となり、
お互いに介護保険を有する夫婦となったりした。
そして何かしら記念品をお互いに思案したりしたが、
結果的には、私たち夫婦の共通趣味の国内旅行をしょうと、7月下旬に決意した。
やがて幾つかの旅行プランを思案したりしたが、
やはり源泉かけ流しの温泉宿に宿泊するのが、私たちの身も心もやすらぐことができると、
いつの日にか訪れ、宿泊したい地域を選定した。
そして岩手県と秋田県の県境にある八幡平の周辺には、
藤七(とうしち)温泉、後生掛(ごしょがけ)温泉、ふけの湯温泉、玉川温泉など多彩にあり、
旅行代理店に手配を依頼した。
結果として『藤七温泉』に三連泊し、『ふけの湯温泉』に一泊、そして『後生掛温泉』二泊となり、
こうした地域の幾つかの温泉宿に宿泊して、落葉樹が朱紅色、黄色に染められた錦繍(きんしゅう)の情景を見ながら、
周辺の遊歩道、自然研究路などを散策したりした。
こうした中、八幡平の天空のような遊歩道を歩いたりしたり、圧倒的に魅了されたり、
或いは玉川温泉には宿泊している後生掛温泉より日中、路線バスで往還して訪れたりした。
このようなささやかな秋の旅路を思い馳せたりした。
この後の私たちの旅行は、春夏秋冬を含めても激少している。
昨年の2015年2月9日より、オーホッツク海に面した紋別で流氷を目的に三連泊した後、
そしてサロマ湖の厳冬期を見たく三連泊した後、やがて網走湖畔で一泊するプランを旅行代理店に依頼して、
遊学したりした。
結果的に、紋別は観光ホテルの『セントラルホテル』で、サロマ湖は東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に、
網走湖畔で観光ホテルの『網走湖荘』に予定通り宿泊できたりしたが、風雪の怖さを実感させられたりした。
我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、『要支援2』となってきた。
こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりしている。
そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。
やがて家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。
そして本年の5月より、家内の母は市の福祉課が再審査を得て、
『要支援2』から『要介護1』と認定されたりした。
こうした関係で、家内は家内の妹とお互いに日程を調節して、家内が担当した期間には家内の母宅で孤軍奮闘し、
私は我が家で『おひとりさま』の生活をしたり、私たち夫婦の旅行も少し遠ざかったりしている。
やがて家内は家内の母の介護で、疲労が増してきたので、気分転換に、疲労回復も兼ねて
伊豆半島の西海岸にある『堂ヶ島温泉ホテル』に3連泊プランが、クラブツーリズムの雑誌に掲載されていたので、
私たちは利用して、周辺を遊学したりした。
まもなく、私たち夫婦はお墓に関しては樹木葬と決めてきたが、肝要の墓地を決定する為、
伊豆七島にある大島に昨年5月19日に訪れて、三原山の中腹にある『大島温泉ホテル』に一泊だけして、
墓地の仮契約したり、三原山に登山したりした。
このように私たち夫婦の旅路は、激少してきた。
やがて私は、秋になったら旅行に行こうょ、と家内と話し合ったりして、
能登半島の和倉温泉に少しゆっくりと滞在しょうと、昨年7月中旬に旅行代理店に手配を依頼した。
そして私たち夫婦は昨年10月上旬に旅立つ予定であったが、家内の母の容体の影響で、
結果としては昨年11月7日より4泊5日で、宿泊先は、七尾湾に面して名高い観光ホテルが集結している処より、
少し離れた静寂な観光ホテルを選定した結果、『多田屋』に連泊し、周辺を遊学してきた。
そして昨年の12月初旬、駅前の旅行代理店で、ひとつのパンフレットを頂き、私たち夫婦は冬の旅路は北海道が多かったが、
久々(ひさびさ)に日本列島の南海にある沖縄本島に、滞在旅行をしょうかしら、と思案したりした。
このパンフレットは、JTBが企画された『沖縄本島・石垣島』の長期滞在型で、
《暮らすようにおトクに滞在》と称して、各リゾートホテルが掲載されていた・・。
私たち夫婦は2回ばかり沖縄本島を訪れてきたが、
那覇市内からバスで40分ぐらい北上した波打ち際に近いリゾートホテルであり、
何かしら県内最高層の23階建ての『ザ・ビーチタワー沖縄』であり、すぐ目の前がサンセットビーチ、
客室から眺望が良い、と明記されていた。
そして隣接地には華やかそうな『アメリカン・ビレッジ(村)』、そしてスーパーの『イオン』もあり、
何かと利便性に優れた地域であり、サンセットビーチとして名高い北谷(ちゃたん)町にあるリゾートホテルに
1月12日より9泊10日で、宿泊代として高齢者に優しい98,100円で滞在旅行をした。
そして私は波打ち際を散策したり、朝夕の海上のうつろう情景、この間に読書をしたりして、
家内は日頃の家内の母の介護、そして年末年始に孤軍奮闘した疲れを癒す為、
私たち夫婦はゆったりと過ごし、周辺を遊学してきた。
今年、8月下旬に秋の旅路は、どうしょうかしらと私たち夫婦は思案していた中、
作並温泉の観光ホテルで3連泊するクラブツーリズムのプランがあったりした。
過ぎし私が現役サラリーマン時代の1996年(平成8年)の8月初旬の夏季休暇の旅行として、
私たち夫婦は、JR東日本の旅行ビューのパンフレットを見たりしていた中で、
仙台市の郊外にある作並温泉は未知であったので、この当時『一の坊』に3泊4日で滞在し、
周辺を遊学したりした。
そして、今回の秋の旅路として、21年ぶりに作並温泉の観光ホテルに滞在して、
周辺を散策する予定であるが、秋雨前線の影響で、雨降る時も予測され、果たして・・と思ったりしている。
尚、私の作並温泉のささやかな想いで、予約セットし公開しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いです。
★この間、コメント欄は閉鎖させて頂きます。
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