私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
この時節、朱紅色、黄色に染められた錦繍を迎えているが、
何かしら住宅街の昨今のありふれた樹木の情景で、何かしら物足りないのが本音である。
私はこの調布市の外れに、結婚した5年間を除き、60年ばかり住んでいることになる。
昭和19年に農家の三男坊として生を受け、
地元の小学校に入学したのは昭和26年であった。
この当時の情景は、京王腺の各駅の商店街はあったが、5分ぐらい過ぎると、
畑の状景が広がり、そして田んぼも広く、それぞれ雑木林に囲まれた広い宅地の中に家があった。
晩秋になるこの時節は、サクラ、モミジ、ドウタンツツジ、柿などが朱色に染められ、
ケヤキ、イチョウ、ウメ、コナラ、クヌギ、ユズ等が黄色の色合いとなっていた。
小学生の私は、祖父、父の交流のあった旧家の10数軒のお宅を寄ったりしたが、
殆どこのような樹木が圧倒的に多くあったのである。
私の生まれた家の庭先でも、サクラ以外はこのような情景であった。
特に私は幼心に、コナラ、クヌギの樹木の四季のうつろいが好きで、
そしてサクラよりウメが好きであるので、
親戚の叔父さんから、変わった子だよねぇ、と父に話していたのを微(かす)かに覚えている。
確か昭和27年の頃であったと思われる。
この後、昭和30年の頃になると、都心のベットタウンに変貌しはじめて、
数年後には住宅街となり、旧家の狭くなった宅地にわずか残される状景となった。
ここ10年ぐらい、私は散策したりすると、
遊歩道の小公園、少しばかり離れた都立公園などコナラ、クヌギの樹を見かけと、
私は思わず足を止めて、しばらくたたずみ眺めてたりいる・・。
そして、旅行先で偶然にめぐり逢うと、やはり足を止めて、見つめたりしている。
この後、ときおり私は調布市の外れの農家の児として育ったことは、
まぎれなく確かなことである、と微苦笑を浮かべたりすることもある。
尚、ナナカマドの朱色、そしてダテカンバの黄色に染め上げられるのは、
限りなく美しい日本の光景のひとつであるが、
無念ながら私のふるさとにはなかったのである。
私は北国を旅する時、ため息をして、これ等の樹木のうつろいを眺めたりしている。
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この時節、朱紅色、黄色に染められた錦繍を迎えているが、
何かしら住宅街の昨今のありふれた樹木の情景で、何かしら物足りないのが本音である。
私はこの調布市の外れに、結婚した5年間を除き、60年ばかり住んでいることになる。
昭和19年に農家の三男坊として生を受け、
地元の小学校に入学したのは昭和26年であった。
この当時の情景は、京王腺の各駅の商店街はあったが、5分ぐらい過ぎると、
畑の状景が広がり、そして田んぼも広く、それぞれ雑木林に囲まれた広い宅地の中に家があった。
晩秋になるこの時節は、サクラ、モミジ、ドウタンツツジ、柿などが朱色に染められ、
ケヤキ、イチョウ、ウメ、コナラ、クヌギ、ユズ等が黄色の色合いとなっていた。
小学生の私は、祖父、父の交流のあった旧家の10数軒のお宅を寄ったりしたが、
殆どこのような樹木が圧倒的に多くあったのである。
私の生まれた家の庭先でも、サクラ以外はこのような情景であった。
特に私は幼心に、コナラ、クヌギの樹木の四季のうつろいが好きで、
そしてサクラよりウメが好きであるので、
親戚の叔父さんから、変わった子だよねぇ、と父に話していたのを微(かす)かに覚えている。
確か昭和27年の頃であったと思われる。
この後、昭和30年の頃になると、都心のベットタウンに変貌しはじめて、
数年後には住宅街となり、旧家の狭くなった宅地にわずか残される状景となった。
ここ10年ぐらい、私は散策したりすると、
遊歩道の小公園、少しばかり離れた都立公園などコナラ、クヌギの樹を見かけと、
私は思わず足を止めて、しばらくたたずみ眺めてたりいる・・。
そして、旅行先で偶然にめぐり逢うと、やはり足を止めて、見つめたりしている。
この後、ときおり私は調布市の外れの農家の児として育ったことは、
まぎれなく確かなことである、と微苦笑を浮かべたりすることもある。
尚、ナナカマドの朱色、そしてダテカンバの黄色に染め上げられるのは、
限りなく美しい日本の光景のひとつであるが、
無念ながら私のふるさとにはなかったのである。
私は北国を旅する時、ため息をして、これ等の樹木のうつろいを眺めたりしている。
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