私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
一昨日、家内といつものように1時間ばかり談笑しながら、夕食を頂いた。
そして、料理をするのは家内の責務であるので、せめて私は後片付けをし、
この後はいつものように茶坊主の私は、家内にコーヒーを淹れたりした。
家内は居間を視聴しているので、食卓テーブルの片隅にそぉーとマグカップを置いた・・。
このように私の定年後の夕食後の情景である。
私は煎茶を淹れた後、居間の庭に面した処にパソコンを置いた机の前で、
椅子に座りながら、ネットでニュースを見たりした。
こうしている時、テレビからあどけない幼児の声が聴こえた・・。
そして何かしら幼児が買物をしているような声が聴こえ、
まもなく私はテレビの画面を向かい、
『この番組・・何なの?・・』
と私はテレビを視聴している家内に私は訊(き)いたりした・・。
『小さな子供が、初めて買物を体験する特集番組・・
この特集・・人気があるみたい・・』
と家内は私に教えてくれた。
この後、私もテレビを視聴したのであるが、
幼児が母親から買物を依頼されて、のこのこと買物先に行き、
あどけない表情としぐさで、何とか品を買い求めて、帰宅に向うシーンであったが、
私は圧倒的な感動を頂いたのである・・。
今朝、ぼんやりとテラスに下り立ち、朝の陽射しを受けながら、
冬枯れの落葉樹を眺めていた時、この番組の情景が思いだされたのである。
そして微笑しながら、私の幼年期に初めて買物をしたことなどを思い馳せたりした・・。
私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
私が地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。
託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。
幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。
私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。
こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。
私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
実家の周辺には、この店しかなかったのである。
私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。
そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と云ったりした。
店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。
この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。
この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。
『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。
そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。
そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。
後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたのである。
昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。
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一昨日、家内といつものように1時間ばかり談笑しながら、夕食を頂いた。
そして、料理をするのは家内の責務であるので、せめて私は後片付けをし、
この後はいつものように茶坊主の私は、家内にコーヒーを淹れたりした。
家内は居間を視聴しているので、食卓テーブルの片隅にそぉーとマグカップを置いた・・。
このように私の定年後の夕食後の情景である。
私は煎茶を淹れた後、居間の庭に面した処にパソコンを置いた机の前で、
椅子に座りながら、ネットでニュースを見たりした。
こうしている時、テレビからあどけない幼児の声が聴こえた・・。
そして何かしら幼児が買物をしているような声が聴こえ、
まもなく私はテレビの画面を向かい、
『この番組・・何なの?・・』
と私はテレビを視聴している家内に私は訊(き)いたりした・・。
『小さな子供が、初めて買物を体験する特集番組・・
この特集・・人気があるみたい・・』
と家内は私に教えてくれた。
この後、私もテレビを視聴したのであるが、
幼児が母親から買物を依頼されて、のこのこと買物先に行き、
あどけない表情としぐさで、何とか品を買い求めて、帰宅に向うシーンであったが、
私は圧倒的な感動を頂いたのである・・。
今朝、ぼんやりとテラスに下り立ち、朝の陽射しを受けながら、
冬枯れの落葉樹を眺めていた時、この番組の情景が思いだされたのである。
そして微笑しながら、私の幼年期に初めて買物をしたことなどを思い馳せたりした・・。
私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
私が地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。
託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。
幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。
私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。
こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。
私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
実家の周辺には、この店しかなかったのである。
私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。
そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と云ったりした。
店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。
この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。
この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。
『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。
そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。
そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。
後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたのである。
昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。
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