私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
午前中のひととき、『節分の日』であったので、
【 『節分の日』、つたない私なりの現役サラリーン時代の頃を思い馳せれば・・。 】
と題して、私の現役のサラリーマンだった時代の『節分の日』の思いでの投稿文を綴った。
この後、私の幼年期の頃は、どうだったのかしら、と思いを馳せたりした・・。
私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
そして私の後に妹がふたり生まれ、
祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。
父からは、こうした私に対しては、ふたりの兄と同様に、
激しく叱咤されたりした。
祖父は幼児の私を不憫と思ったのが、私を可愛がってくれたた数々を私は鮮明に記憶している。
そして、私の生を受けた時、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
こうした中で、私が少学校に入学する1951(昭和26)年の春の前、
『節分の日』の情景は、私なりに鮮烈に心の片隅に今でも残っている・・。
この当時、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。
神社といっても、歴史ばかりは由緒ある処であるが、村の住民で維持管理されている程ほどの大きさの神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。
そして、この日の『節分の日』に関して、それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を三割方ぐらい入れ、
夕暮れになると、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。
私の住んでいた家から、少なくとも300メートルは離れていたが、
家の中で居ても充分に聴こえたのである。
『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。
『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に云ったりしていた。
我家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は戸締りが終わっていた。
夜の7時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって云ったりしていた。
そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。
そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と父の妹の叔母が私達に云った。
私は、6つだけかょ、と云いながら、
次兄の手には、もとより私より多くあったので、
おまけと云いながら、こっそりとふたつばかり余計にとった。
そして私は、自分だけ取ったのが何かしら恥ずかしかったので、
2人の妹にそれぞれ1粒づつ手にのせたりたりした。
このような祖父、父達に囲まれて、楽しげなひとときであったが、
私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、我家は没落をしはじめた・・。
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午前中のひととき、『節分の日』であったので、
【 『節分の日』、つたない私なりの現役サラリーン時代の頃を思い馳せれば・・。 】
と題して、私の現役のサラリーマンだった時代の『節分の日』の思いでの投稿文を綴った。
この後、私の幼年期の頃は、どうだったのかしら、と思いを馳せたりした・・。
私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
そして私の後に妹がふたり生まれ、
祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。
父からは、こうした私に対しては、ふたりの兄と同様に、
激しく叱咤されたりした。
祖父は幼児の私を不憫と思ったのが、私を可愛がってくれたた数々を私は鮮明に記憶している。
そして、私の生を受けた時、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
こうした中で、私が少学校に入学する1951(昭和26)年の春の前、
『節分の日』の情景は、私なりに鮮烈に心の片隅に今でも残っている・・。
この当時、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。
神社といっても、歴史ばかりは由緒ある処であるが、村の住民で維持管理されている程ほどの大きさの神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。
そして、この日の『節分の日』に関して、それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を三割方ぐらい入れ、
夕暮れになると、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。
私の住んでいた家から、少なくとも300メートルは離れていたが、
家の中で居ても充分に聴こえたのである。
『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。
『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に云ったりしていた。
我家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は戸締りが終わっていた。
夜の7時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって云ったりしていた。
そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。
そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と父の妹の叔母が私達に云った。
私は、6つだけかょ、と云いながら、
次兄の手には、もとより私より多くあったので、
おまけと云いながら、こっそりとふたつばかり余計にとった。
そして私は、自分だけ取ったのが何かしら恥ずかしかったので、
2人の妹にそれぞれ1粒づつ手にのせたりたりした。
このような祖父、父達に囲まれて、楽しげなひとときであったが、
私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
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