袴田事件再審決定の記事。なんとも恐ろしい思いです。恥ずかしい話ですが、私は袴田巌さんがあのボクサーの袴田さんとは気がつかなかったのです。一連の記事の中で、輪島功一さんの名前を聞いて、初めてボクサーの袴田さんと結びつきました。いや、ファイティング原田さんの呼びかけを過去に記事で見てはいるのです。なんとも無関心だったことか。ごく普通に暮らしている私ですら、日々の生活に(老後の生活)不安を覚えることは多い。これが死刑囚として独房で暮らす身としたら、精神がおかしくならないわけがない。あまりにも酷い話です。今日現在、全国の死刑囚は131人いるという。死刑確定から収容期間が30年以上は袴田さんを含めて4人いたという。多くの問題を含んだこの事件。死刑の存続だけでなく、死刑囚の処遇改善、取り調べの可視化など「喉元過ぎれば・・」でなく私たちもしっかり情報を見つめていかなくてはならないと思いました。無関心ほど怖いことはないと反省しました
NHKの朝ドラ「ごちそうさん」が終わった。なかなかいいラストでしたね。人生にはたった一言がその人を支えることがある。それはどんな物よりもその人にとって大切なたいせつなものだと思う。それだけを頼りに生きていけることもある。人生の前半で私を支えた言葉は「わきまえた女性になってほしい」でした。どうも私はその言葉のために頑張りすぎたようです。そんな人生に疲れた時に今度私を支えた言葉は、「そのいのちを確かに預かりました」でした。ただ無条件で受け止めてくれたその言葉に私は癒され、安心して生きていけるようになりました。どんなときでもそこにその人がいるという、どんな時でもしっかり受けとめてくれるということは、それまで心に住んでいたさびしさを追いだしました。「大丈夫、ちゃんと生きていけると」その言葉は私の大きな、大きな心のばねです。
昨日、今日と着物姿の女子大生が街で見受けられます。やはり、若いということはそれだけで華がありますね。華やかな門出です。3月は別れと旅立ちの季節です。昨日、塾の一人の教え子が旅立ちました。高2になったら予備校へ行くように と言っていたので当然のことですが、やはりさびしいものがあります。孫よりは少し大きいのですが、何かわが子の旅立ちのような感じでした。サッカー部で活躍していた彼とはよくサッカーを初めスポーツの話をしました。「○○くんは将来何になりたいの?」と聞いた時、「スポーツジャナリストです」と答えました。ごく普通の男の子、経済や経営学部に進んで普通のサラーりーマンになると思っていたので、「えっ?」という感じでした。でも、それがとても嬉しく思いました。彼が、私がボランティアでしている草サッカー支援冊子に興味を持っていてくれたからです。そして、スポーツジャナリストになりたいと思ったのは、日本代表の試合に招待した時からだということでした。(確かにいい席でした)あと10年もしたら、彼はスポーツ記事を書いているのだろうか。どこかで気持ちが変わるかもしれないけど、いまは彼に夢を託したかった。「がんばってね」と1冊の参考書をプレゼントした。その時の彼の笑顔が私の宝ものになった。私の気持ち伝わったのかな。笑顔を心に焼きつけました。
昨日のNHKドラマスペシャルで東京大空襲で消防に命をかけた若者たち~「東京が戦場になった日」を見ました。私の祖父母、父・叔母は東京で大空襲に遭いました。子どもの頃、祖母がよく大空襲の話をしてくれました。「焼夷弾がメラメラメラと・・・空は真っ赤だった・・・」でも、私はもう一つ聞いていた関東大震災の話とゴチャゴチャで、浅草の浅草寺の池に飛び込んだのは、どちらか?どちらも火事の話で記憶が混乱しています。朝ドラの「ごちそうさん」でも戦時中、戦後の大阪の様子を舞台にしています。ドラマを見ていて怖いのは、あれがドラマのことのように感じてしまうことです。祖母の口から聞かせれていなかったら本当に架空の話のように思ってしまいそうです。私が子どもの頃、上野や銀座に行くと、傷痍軍人と言われる人たちがいました。白い服を着て、義手や義足の人がいたのがまだ記憶に残っています。いまの子供たちはまったく戦争の影を見ることがないわけですから、まさにドラマの世界、ゲームの世界なのでしょうね。写真展や語り手によって語り継がれないといけないですね。戦争をしらない若い世代の国会議員さんもいるわけですから。この平和が、子どもたちのために守られますように。
久しぶりに昼間在宅している。ふと見ると、カレンダーが2月のままだ。2、3月はうるう年でなければ、曜日が同じなので気付かずにいた。早、3月12日だ。怒涛のように過ぎた2週間だった。2/28に右手をドアに挟み、それからイライラしながら毎日をすごした。1週間経っても初めの処置では傷がつかず、悲しかった。近くの医院で再度傷をテープで止めた。もう自宅で毎日テープとガーゼを換えなさい と言われた。見捨てられたような気がした。そんな顔をしたのか医師は「なにかあったいつでもくるよう」と言った。翌日の夜、普段の3倍も手を使って、くたくたで包帯を解いた。傷は付いていた。あの医師の診断と処置は正しかったんだ と思った。たった1日で・・・ついた傷を見ながら自分に治癒力に驚いた。1日1日、薄皮を剥ぐようによくなる と傷の治りについては聞いたことがあるが、1日で・・・。治る時だったのであろうか。最初に6本貼ったテープよりも1本しか貼らなかったので、傷ががんばったのか?春になった。花のつぼみが色付いている。時間はいのち なのだろう。