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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

ちゃんとごはん食べた?なんでもない会話

2022-04-30 18:56:38 | 日記

朝からしっかりと晴れ!連休前の予定とは少し違う日常になりそうです。この時間までフルに動きました。家の中をお金をかけないで、心地よい空間にするよう昨日から動き出しました。昨日見つけだした2004年に冊子に書いた編集後記を紹介させていただきます。今日の写真は光がテーマです。スマホはやはり陰影がうまく撮れませんが。

(2004年9月のお話です)先日のNHK の番組「子供が見えない」をご覧になられた方も多いのではないでしょうか。二つほど心に残ることがありました。一つは長崎県の小学校の道徳授業でした。多くの子供たちが「人は死んでもまた戻ってくる」という死の認識を持っているということです。背筋の寒くなることです。子供のころ、あなたはどんなとき死を感じましたか?飼っていた動物が死ぬと、祖母のいた私のうちでは必ず庭の狸の置物の下に埋めました。(なぜかそこなのです)そしてお線香や花をあげました。金魚も猫もひよこも大事なものを失うという悲しみとその儀式はおそらく子供心に「死」というものを教えたのでしょう。池で取ってきたザリガニが死ぬこと、昨日まで鳴いていた鈴虫が死ぬこと、日常のなかに「死」がたくさんありました。お彼岸やお盆の行事も「死」教えてくれたものかもしれません。

もう一つ心に残ったことは、いじめにあい、友達を殺そうと包丁を盗み出しかばんに入れて学校に行こうとした子の話です。そう思い、朝の食卓についたとき、いつもと同じように弟と母親が「おはよう」といい、母親が「遅刻するわよ、早くしなさい」とか「ほら、パンくずこぼさないで」といったことでこの家族を悲しませたくない、相手の家族も悲しませたくないとも思い、殺すことを思い止まったそうです。もちろんこの子の感性もあるのでしょうが、一家ばらばらの朝だったどうでしょうか?この子は思い止まれたでしょうか。

「死」いや「いのち」というこの2 つの話の中心はなんでもない日常なのです。取り立ててえらそうな教育をすることではなく、「ご飯ちゃんと食べなさい」とか「寒いからこれ着ていきなさい」とかそのレベルのことなのです。「日常」がないのが現代なのではないでしょうか。だから体のどこかにある「魂の器」が育たない。栄養とはなんでもないむしろこうるさい「日常」なのではないでしょうか。家族の形態が変わりつつあるいま、この日常を補うもの(あくまで補う)はなんでもない「ねぇ、元気?」「ちゃんとご飯食べてる?」というような電話や、「赤ん坊に薬を飲ますときそれじゃだめよ」とか「ばかね、泣いてる暇があったら、お茶しにおいでよ。甘いケーキの3 つも買っておくわ」などという血縁なきつながりの会話なのではないでしょうか。なんでもない日常の出来事に『いのち』という魂を込めて、これからこのお便りを作り続けていきたいと思います。あなたも是非あなたの温かい『いのち』を多くの人々に分けてあげてください。

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ぬくもりをほしいのはわたしでした

2022-04-29 18:31:41 | 日記

たまっていた仕事を仕上げて、連休前夜祭?のちらし寿司等を作ると、昨日はやたらと疲れていました。これでは、明日から自宅待機かでした。夜から気温も低く、風も強かったです。

よく子供が小さい時に大事に使っていたタオルとかぬいぐるみを使い続けていることがありますね。「もう、捨てましょうよ」と言っても、イヤイヤ。なにかそれを持っていると寝るときなど安心なのではないでしょうか。暖かくなったので、毛布を綿毛布に替えたのですが、どうも肩が冷たい感じです。昨夜は冬中使っていたひざ掛けのような裏羽毛のものを再度入れて寝ました。肌を覆ってくれるこの暖かさが何とも言えません。あたたかいです。

これが「ぬくもり」なのかなと思いました。ほっとするようなあたたかさ。水曜日に陶芸教室のある生活工芸館に出かけましたが、そこの主が入り口の近くで待っていてくださいました。「お久しぶりです。お元気でしたか?」と声をかけますと、「元気ですよ。あなたは?」と手を握ってくださいました。か細い指でしっかり手をつないでくださいました。この安心感は何なのでしょう。彼女は祖母に似ています。

あまり母と一緒にいられなかった私はスキンシップが不足していたのかもしれません。ほっとするようなあたたかさ「ぬくもり」は私が欲しいもののようでした。包み込んであたためてくれるもの。

今日はどこにも出かけず書類やCDのデータの整理をしていました。18年作り続けている冊子にも「ぬくもり」という言葉が何回も出てきました。少しずつテーマは変わったいますが、日常のあたたかい生活を伝えていきたかったようです。それが今作ろうとしているホームページと同じなのです。それを大事に思って生きてきたようです。(写真は義仲寺です)

 

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見捨てられの不安の正体

2022-04-27 17:39:25 | 日記

「お帰りが夕方になる方は傘をお持ちください」の天気予報通り空が怪しくなりました。昨夜はかなり降水があり、新緑が雨に濡れてさらに青々しています。今日は陶芸教室で作品仕上げでした。ほとんど土を削ることはないので、周りを整形していきます。八角のお皿が鉢になってしましましたが、いろいろな表情のつけ方を学びました。2時間かけてのんびりと仕上げました。

「急がないと。急がないと」という気持ちは昔から強かったです。根っこには置いていかれるという恐怖があるようです。カウンセリングで「恐れ」の根本には生命危機と見捨てられの恐怖があって、幼い時の体験から来ることが多いと学びました。カウンセリングをかけると、案外、つまらない出来事が原因となっていました。弟が身体が弱く、それにかかりっきりの母はほとんど私をかまうことはできませんでした。その辺で、なんでもきちんと一人でしないと母に褒められないというような気持が強かったのでしょうね。それだけでなく、記憶がない3歳以下の時に、迷子になったようなことがあったのかもしれません。それが「見捨てられ」の恐怖として残っていて、何かの折にフラッシュバックするようです。

さらに、それが大人になって例えば恋人に捨てられた時などの不安感がだんだん大きくなって、いつも誰かのそばにいないと怖かったようです。それはかなり長い間の私の戦いでした。「安心」が必要だったのですね。たまにはこころの癖としてひょっこり出てきますが、最近は安定しています。だから、焦らず待てるようになりました。成育過程で起きた出来事は、無自覚のうちに残っていて、生きにくさを形成しているかもしれません。

昨日、フジの花房が短いと書きましたが、今日、お寺のフジが見事でした!フジがあってつつじがあって、スズランが咲いていました。

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そのきもちがうれしくて

2022-04-26 18:14:32 | 日記

天気予報通り雨はそうでもないですが、風が強くなりました。朝から気候病か頭が重いようです。でも、集中力の無さは、気候病ではないようです。ぼ~っとしていると固定電話が鳴りました。さて、これはどなたからか??朝の電話はなにか用事があってのことでしょうと、電話に出ると大家さんからでした。牡丹の花が咲いたので切ったから取りに来ない?でした。昨年も見事な牡丹をいただきました。とてもうれしかったです。取りに伺うと、珍しい色の牡丹とお野菜もくださいました。

もし、うちに母がいてもうあまり長くないような体調だとします。ご近所の5軒くらいからお花などお見舞いをいただきました。ほんとうにありがたいことです。そのお礼を各家のポストに入れてきましたが、母も具合が悪くバタバタしていて1軒忘れてしまいました。何かの機会にお礼を忘れた1軒の方が自分のところにお礼がなかったと知ったとします。この方はどう思うのでしょうか?ああ、大変なときだからそれどころじゃないんだわと思ってくださるでしょうか。

自分の思いを伝えるのは、なかなか難しいですね。思いは形になるものでもないので、金額や物で判断はできません。ただ、気にかけてくださったことがうれしいのではないかと思うのです。その人の心に短い時間でも私の存在があったということは。そして、私のおかれた状況まで配慮してくださったらそれは物などいらない気がします。

藤の花の写真を撮りに行きましたが、今年のふじは花房が短くて貧弱です。冬の寒さで枝がダメージを受けたからでしょうか。昨年の藤の花です。

 

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春の宵に偲ぶ人

2022-04-25 18:10:19 | 日記

朝からなんとなく機嫌が悪い自分に手を焼いていました。こんなお天気なのに・・・。5月の連休中のお天気で曇りや雨の日も多く、お天気に恵まれる日は少ないです。今日は平日、出かけるに一番いいのに、町内のごみ当番で10時半ごろまでは自宅待機です。子供と同じで、おんもに行きたいと不機嫌なのです。

10時になるとあきらめて、仕事をし出しました。仕事もたまっています。それでも、サンドイッチを作って、ランチをしに琵琶湖に出かけました。今日は本当におだやかで、新緑の美しさは別世界へきたようです。シルバーグレーのご夫婦が湖を見つめています。車いすの奥さんを連れてみえたご夫婦も仲良くランチタイムです。おばあちゃん二人も世間話をしながらおにぎりをほおばっています。

のどかなひと時、さてお仕事と帰宅しました。ぶろぐは読む時間がないのですが、フェイスブックは見てくださいとメールが入ります。読まないといつまでも入ります。これには逆らえずページを開けます。いつもすてきな季節の記事を書いてくださる方が、「春の宵 家内を偲びつ ひとり酒」と詠んでおられました。奥さまを亡くされて1周忌だそうです。まだ、さまざまな想いが胸に詰まってこられるのでしょうね。特に、春の宵には思い出されることも多いのでは・・・。

こんなに尊いいのちがウクライナでも、日本でも失われていきます。春という季節はなんとかなしみがなおさらに押しよせてくるのでしょうか。

「生きるということはきびしいことだね」と亡くなる前に母が言いました。「そうなんだね、厳しいことなんだよ。」と悟ったように言った自分が恥ずかしいです。母の好きだったモッコウバラです。

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