朝からしっかりと晴れ!連休前の予定とは少し違う日常になりそうです。この時間までフルに動きました。家の中をお金をかけないで、心地よい空間にするよう昨日から動き出しました。昨日見つけだした2004年に冊子に書いた編集後記を紹介させていただきます。今日の写真は光がテーマです。スマホはやはり陰影がうまく撮れませんが。
(2004年9月のお話です)先日のNHK の番組「子供が見えない」をご覧になられた方も多いのではないでしょうか。二つほど心に残ることがありました。一つは長崎県の小学校の道徳授業でした。多くの子供たちが「人は死んでもまた戻ってくる」という死の認識を持っているということです。背筋の寒くなることです。子供のころ、あなたはどんなとき死を感じましたか?飼っていた動物が死ぬと、祖母のいた私のうちでは必ず庭の狸の置物の下に埋めました。(なぜかそこなのです)そしてお線香や花をあげました。金魚も猫もひよこも大事なものを失うという悲しみとその儀式はおそらく子供心に「死」というものを教えたのでしょう。池で取ってきたザリガニが死ぬこと、昨日まで鳴いていた鈴虫が死ぬこと、日常のなかに「死」がたくさんありました。お彼岸やお盆の行事も「死」教えてくれたものかもしれません。
もう一つ心に残ったことは、いじめにあい、友達を殺そうと包丁を盗み出しかばんに入れて学校に行こうとした子の話です。そう思い、朝の食卓についたとき、いつもと同じように弟と母親が「おはよう」といい、母親が「遅刻するわよ、早くしなさい」とか「ほら、パンくずこぼさないで」といったことでこの家族を悲しませたくない、相手の家族も悲しませたくないとも思い、殺すことを思い止まったそうです。もちろんこの子の感性もあるのでしょうが、一家ばらばらの朝だったどうでしょうか?この子は思い止まれたでしょうか。
「死」いや「いのち」というこの2 つの話の中心はなんでもない日常なのです。取り立ててえらそうな教育をすることではなく、「ご飯ちゃんと食べなさい」とか「寒いからこれ着ていきなさい」とかそのレベルのことなのです。「日常」がないのが現代なのではないでしょうか。だから体のどこかにある「魂の器」が育たない。栄養とはなんでもないむしろこうるさい「日常」なのではないでしょうか。家族の形態が変わりつつあるいま、この日常を補うもの(あくまで補う)はなんでもない「ねぇ、元気?」「ちゃんとご飯食べてる?」というような電話や、「赤ん坊に薬を飲ますときそれじゃだめよ」とか「ばかね、泣いてる暇があったら、お茶しにおいでよ。甘いケーキの3 つも買っておくわ」などという血縁なきつながりの会話なのではないでしょうか。なんでもない日常の出来事に『いのち』という魂を込めて、これからこのお便りを作り続けていきたいと思います。あなたも是非あなたの温かい『いのち』を多くの人々に分けてあげてください。