夕方から仕事に出かける私には夕暮れが早くなるのはさみしい。遠くの山並みがくっきり寒々しく見える。「さよなら」は、別れたくはないが、あなたがそのように言うならば という愛惜の情 と教えてくれた人がいる。残酷な「さよなら」と何度も言ってきた。でも、たしかにそれは愛惜の情だった。キリスト教の入門講座を受けている時に、「関係を切らない」ということを学んだ。それは「許す」ということだった。それから絶対に自分の感情で関係を切ることはしない と心に誓った。それは別れるよりも時として苦しいこともあった。何回かそれを乗り越えて私の心はやさしくなった。そして、深く人を愛して、人に大切にされて、もう死ぬ時までは、いや死んでも魂は「さよなら」は言わない と思った。私のなかに生きるものに「さよなら」は言えない。
この時期になると、受験生の国語の指導でたくさんの文章に触れることになる。大人が読む内容の文章が出題されているのでなかなか楽しい簡易読書の時間だ。「人間は会話する動物である」という言葉がでてきた。この情報化時代のなかでなにを情報というか など難しい問題だった。認知症の母がだいぶ前向きになった。えっ!とびっくりするような発言もあるが、前向きである。デーサービスやヘルパーさんとの会話、憧れのハンサムな認知症の主治医との会話。母はうきうきするようになった。元気だと独りにしておいたことを悔やんだ。「話す」ということの大切さを感じた。一人暮らしの叔母も1日に1回は外に出て人と会話するようにしているという。なんでも便利に情報が手に入る時代。また、発することができる時代。人の心はそんなに簡単ではないのだろう。「元気?」「うん、元気よ」そんな会話にも大事なこころがある。「話す」ということは、脳のさまざまな部位を使うのだろう。お話ししましょうね。
羽生結弦選手の痛々しい帰国姿。いや、ダイジェスト版でしか見なかったけれど、応急処置での演技になんとも胸が痛んだ。彼を演技に奮い立たせたものはなになのか。同じ日にNHKで嵐の15周年記念番組をやっていた。ハワイの野外ステージでのすばらしいライブだった。その最中、アクシデントで二宮が腰を痛め動けず肉離れまで起こした。しかし、ライブにお金を出してきている人のために、調子が悪いで休む訳にはいかないと痛みをこらえて踊り歌っていた。トップをいくものとはかくも厳しいものか、と思った。NHKのプロフェショナルの主題歌を歌うスガ シカオもデビューまで凄まじい生活をしていた。4畳半くらいの風呂もないアパートでご飯しか食べ物がなく、胃薬をかけて食べていた。でも、自分には才能があると 信じていたそうだ。半端じゃいけないんだなぁ と思う。自分に甘く、甘く生きてきた。なにひとつものにならなかった自分がいる。
母が夜吐き気がひどかったのか救急車をに呼んで入院騒ぎになった。翌日、病院に母を迎えに行った。その2日間で、3通の老老介護のメールが入っていた。母は80代だが、90代の親を70代が介護するようになる。「ながらえば」という言葉を思い出した。わが身のそうだ。もうこの辺でいいなぁ・・・と思うことがある。「最期は一番心に残る人に会って、さよならを言って・・」などと言えたのは若い頃。醜い自分をさらすのは耐えられないし、まして記憶もあやしいだろう。明さんも博さんもごちゃごちゃだろうし、呼ばれた人も記憶があるか生きておられるか・・・。「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの よわりもぞする 」 忍ぶ力ではないが、お会いするならお互いに60代前半くらいがいいのかもしれない。いや、そっと耐えるよりボケるが勝ちかもしれない。なんとも「ながらえる」ことの辛い時代である。
忍ぶることの よわりもぞする 」 忍ぶ力ではないが、お会いするならお互いに60代前半くらいがいいのかもしれない。いや、そっと耐えるよりボケるが勝ちかもしれない。なんとも「ながらえる」ことの辛い時代である。
静かに雨の降る夜。母の入院騒動が終わった。単なる吐き気で大したことなく済んだ。心の疲れがじわじわと出てくる。なにかふと久世光彦が書いた「触れもせで」向田邦子との20年 を思い出した。疲れた心にあたたかい心が届く。そう、「触れもせで」なのだ。若い日の恋とは違い、この深い想いの交流はむしろ人と人との本質が触れ合うような言葉には表せないものだ。そういうお付き合いがいまの宝ものだ。ただ、日常とは違う次元になったとき、心の中に燃える火の玉のようなものを見てしまう。怖いというよりは、むしろほっとその炎を見ている自分がいる。なにも変わっていない自分をそっと抱きしめる。