1月も終わり。もうすぐ暦の上では立春です。今日はやはり「春」を感じる日でしたね。元旦から1カ月。まだ、能登半島の被害状況はひどいままのです。輪島塗の職人さんが、仕事場と住居が一緒のビルが崩壊してしまい、避難して暮らしているそうです。1カ月たって避難先で目が覚めると、自分が今どこにいるかわらなくなると言っていました。何十年と歴史のある物が一瞬にして消えたしまった・・・。まだ、現実味がないそうです。
災害や突然の事故で誰かが亡くしてしまったときに(いやそうでなく覚悟ができていた時でも)、「ただいま」と帰ってくるような気がすると言われます。残されたものは、「どうして?どうして!」と何回も反芻するのでしょう。
今日、フェイスブックにあった記事です。ぶろぐのタイトルと同で、新聞への13歳の男の子の投稿です。一部略しながら、写していきます。
『13歳になる直前の5月、私は家族を亡くした。別れ以降、心配だった。大人になるにつれて、その人の口癖やしぐさ、愛情など忘れてしまうのではないか、と。写真を見て顔は思い出せるけれど、写真に収められないものはどうなってしまうのだろう。だが、至るところに「思い出す方法」はあふれていた。私の横顔やおちがなくくだらい話をするところは、その人に似ているらしい。(中略)その人が亡くなる時、私の口から出たのは「大好き」という言葉だった。「会いたい」と思うのは、その人と過ごした日々が幸せだったからだ。つまり、その人を思い出したいと思うことそのものが、「愛されていた」ことを思い出す方法なのだと気づいた。私に多くのことを考えさせてくれたその人。父をもう直接感じることはできないが、一生忘れることはないだろう。』
中学生の文章です。胸が熱くなりました。