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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

盆梅展と百恵ちゃん

2021-01-31 19:42:43 | 日記

空気がどことなく春らしいやわらかさがある。教会のお友達が長浜盆梅展を見に来るので会えることになった。盆栽はあまり好きではないので見に行かなかったが、今年は切り絵とコラボというので興味を持って出かけた。「春を届けて70年」という歴史ある盆梅展だ。会場の慶雲館は、明治20年に明治天皇の行幸の際の休憩所として建てられた木造2階建ての和風建物だ。造りはどちらかというと地味だが庭園はダイナミックですばらしい。

昨日は、NHKの山口百恵の引退コンサートを見てから、何もしたくなくなった。最後の真っ白なドレスと真っ白なマイクを置いた白いハンカチをしっかり思えていた。#山口百恵 がSNS上に溢れたらいい。40年経って色褪せない百恵ちゃんだった。うまく言えないが、作られた感じを与えないうつくしさだ。歌もそうだ。今の若い歌手はなにか人工的だ。歌も容姿もマナーも。おそらく、歌は百恵ちゃんのためにていねいに作られたのだろう。

「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉を思い出した。さくらの盆栽は出来にくいのだろうな。百恵ちゃんは桜のようだ。のびのびと伸びて毎年花を咲かせていったのだろう。その伸びやかさが好きだ。毎年、枝を切られて整えられた梅の盆栽が好きでないのは、自由が利かないからかもしれない。

お友達二人は盆栽の梅を求めて帰った。楚々とした白梅だった。白梅は私には少しさびしかった。でも、深紅の紅梅は買えなかったなぁ。

 

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一隅を照らす

2021-01-30 14:26:35 | 日記

大家さんの屋根の雪は10センチ以上積もっている。窓を開けておくと明るい。今は気温が高いのか降っても積もらない淡雪がむなしく降っている。鳥たちは餌が見つからないのか声を掛け合ってるようだ。

手芸用品を買いに出かけた。途中の八幡様の境内を通ると、燈明が見える。雪が舞い散るなかの、その灯りは比叡山延暦寺の「一隅を照らす」という言葉を思い出させた。「一隅を照らすもの、 これ、国の宝なり」は最澄の言葉だった。根本中堂で見る不滅の法灯を静かに見た時間を思い出す。今、このような言葉が必要なのではないだろうか。

確かに、生活保護は最後のセフティーネットかもしれない。それを受けずに済むならと最後のプライドで生きている人に安易に「最終的には生活保護がある」と言っていいものだろうか。受ける権利があるのですからそれを遠慮なく受けてください というのではないだろうか。昨夜、大阪のNPOが路上の寒さの中で野宿している人を何回も訪ね、住まいの確保、そして生活の安定を勧めていた。頑なにそれを拒む人を何回も訪ねてまわる。「一緒にやっていきましょう」というスタンスだ。胸が痛んだ。

病気にならば、もう生活保護しかない と言ってぎりぎりの生活をしている女性を知っている。そのほうが楽ではないか と言われても、いや、まだ生活はできる という。

だれがこのコロナ禍を予測しただろうか。医療現場や介護現場の過酷さ。突然仕事をなくし、生活が困窮すると予測しただろうか。「自他同心」今年の比叡山からの言葉だ。「先ず他人を思いやり、身体は近づかなくても、心と心を近づけて「心を同じくす」「同心」を心がけましょう。」だった。

他人を思いやったと言えない言動が多すぎる気がする。今日の淡雪のようにむなしい。

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われは雪の子

2021-01-29 18:20:09 | 日記

夜中に風の音で目が覚めた。一か所だけ高窓がサッシでないので音がする。唸るような風の音も不気味だ。山奥の小屋に取り残されたような心細さだ。毛布を被ったが眠れない。明日は雪だろうか。

午前中、陶芸教室に出かけると、小雪が舞っていた。そして、夕方からは止みそうにない雪になった。てくてくと美容室に出かけた。美容室の鏡に大きな窓の外に雪の降るのが映る。ボーっとその雪を見ていた。あの人が昔、「実況中継です」と雪の降る様子をメールで送ってくれた。車から撮ったのかフロントガラスの前に雪が降っている風景だったと記憶している。そのメールはないので、私の思い違いかもしれないが、雪が降ると思い出す。それはとても意外なうれしいメールだったからだろう。

ダウンコートをびしょびしょにして美容室から帰った。「われは雪の子」ではないが、うずうずして買い物に出かけた。2日間はおこもりかもしれないので買い出しだ。あっという間に5センチは積もっている。木に花が咲いたようできれいだ!都会では見たことのないような銀世界。(100坪近い空き地がある)子供のように長靴でびちゃびちゃ歩く。

雪はやはり心を浄化してくれる。前にも書いた「マリアのイエス」のように、仰せのようにのようなすべてを受け入れる気持ちになれる。今夜は静かに音楽でも聴こうかな。

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琵琶湖のほとりで都会を思う

2021-01-28 19:52:27 | 日記

今日は草津へNPOの用事で出かける。約1時間、本を読みながらになった。それでも、飽きると外を眺める。草津は駅の近くは都会だ。何しろ、デパートがある。帰りの電車で、米原を過ぎるとやはりほっとする。この田園風景、伊吹山、そして琵琶湖がいいのだ。今日も墨絵のようにきれいだった。

それでもこの地に来て2年、仕事は都会のほうがやりやすいと思う。お互いにWIN/WINならOKで、そこから信頼や尊敬の関係ができてくる。どうも、この地のビジネスにはほかの少しどろりとしたものが入るような気がする。それは地方都市のよさなのだろうが、さばさばした中にもある信頼というビジネスのほうが私としては好きだ。それと都会はやはり情報が多いし、早い。正しくは情報が伝わってくるスピードが違うというのだろうか。おそらく、(地方を差別するのではないが)都会から地方都市へ動いた人はそこにあるなにか土の匂いのするような根深い慣習に悩まされるのではないか と思う。

でも、私はビジネスをしていないのでこの地は大好きだ。この町は気取っていないし、職人や商人気質が強いので、人当たりもよくて親切だ。今日も茨城の92歳のおじちゃんから電話で、「本当にいいところへ行ったよなぁ」だった。おじいちゃんは琵琶湖哀歌を大きな声で、琵琶湖を見ながら歌いたい と言う。桜の咲くころに是非と返事をした。

でもねぇ、この地に来るには深い深い想いがあった。だから、安心してこの地で暮している。人生最後のあたりーだ。

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主婦見習い中

2021-01-27 17:43:11 | 日記

目が覚めると暖房を入れて、「元気ですよ~」と大家さんにわかるようにカーテンを開ける。下の部屋も暖房を入れて、ぼちぼちと朝の支度が始まる。今日は高月の図書館へ本を返却に行く日だ。雨の予想が晴れて暖かい。

忙しく朝食を食べることもなく、のんびりと1日が始まる。働いているときの朝は、トーストをコーヒーで流し込んで出かけるような日が多かった。特に用事がない時は、台所を片付けて、それから掃除や洗濯になる。忙しく働いていれば、ぎりぎりまで家の中のことをしていて、飛び出して出かけていた。だから、整理整頓が出来なかった。(という言い訳かな)台所をきれいに片付けると気持ちがいい。その延長でいようと、一つ終わったら、一つ次へと心がけている。こんなことをいまさらと思うが、たぶん今までもできたのだろうが、それ!それ!と次へ急いだ生活だった。

昨日のTVで何の話か忘れたが、今のようなコロナ禍の中で決めないほうがいいことが多い という話題があった。(法律などだろう)マイナスの感情の(状況)では判断を誤ることがおおいということだった。よく言うが、失恋した時に逢った人と結婚しないほうがいいとか と同じかもしれない。忙しい生活からも判断を誤ることが多いのかもしれない。

急げ、急げ!と生きてきた気もする。今は主婦見習いのようだ。年も取ったのだろうなぁ、「これって愛情だよね」などと感じながら主婦を楽しんでいる。このブログを書く前に開いたサッカー仲間のメールには(70歳になる少年のようなプレイヤーから)「今日サッカーができればいいだけではない何かを求めてサッカーを続けたい」 とあった。私ののんきな主婦見習いの毎日の先には、「しずかな老後のやすらぎ」があってほしいと思う。

 

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