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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

かみさまとほとけさまに守られて

2018-12-31 12:34:02 | 日記

大晦日になってしまった。1年の終わりといってもなにかピントこない。TV番組をみるとたしかに紅白もあるし、大晦日だ。午前中は事務処理をしようと思ったが、TV番組を見たのがいけなかった。午前中に「半分 青い」の総集編がある。それは見ないと今年の後悔になる?と掃除をしながらTVを見ることにした。家具やガラスを磨くのなら、見ながらでもできる。 

ここにある家具は、運送屋さん泣かせの重い整理ダンスを除いては、離婚してから少しずつ買い足していったものだ。それは私のつまらない誇りだ。だから、大事でもある。久しぶりに家具を磨いたり、緩んだねじを締めたりした。家具がピカピカになるのは、新婚になるようで嬉しい。

家具を磨きなら、「半分 青い」を見ながら、今年を振り返る。「今年のハイライトはなんですか?」とサッカー仲間に聞かれた。「そうですね、個人的には電動車椅子サッカーでしたね。」と答えた。「生きる」ことそのものを、いや「いのち」そのものを突きつけられた。「ぼーっと 生きてんじゃないよ!」と言われたようだった。

希林さんの生き方や言葉をTVや活字を通して知ることができた。「すばらしい人だなぁ、あんな風に生き抜けたら・・・」と思った。でも、私は希林さんに会っていない。生身の希林さんを感じることはなかった。電動車椅子サッカーで、自分では食事ができない人、酸素ボンベを離せない人、胃ロウの人もいた。でも、彼らは特別ではなかった。ただ、サッカーが大好きな人にすぎなかった。それがまたショックだった。

限られた「いのち」なら、もう好きなように、やりたいことをやって生き抜こう! と思えた。私の内には神が住んでおられる。そして、不思議な感覚だが、仏さまが大きな輪で私を包んでくださっている。イエス様に叱られてしまうが、神の道を大きな輪に守られて生きられそうだ。

母が亡くなり、さびしい1年ではあったが、新しい旅立ちへのきっかけとなる年だった。静かな大晦日だ。

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くれのこころもよう

2018-12-29 23:45:50 | 日記

朝、フェイスブックを開けると、名古屋が雪景色だった。マンションの室内も13度で今年一番寒かった。それでも10度は下らない。カーテンを開けると、コーヒー豆の木をガジュマロとハイビスカスが元気がない。いままで、湘南では室内に入れずに冬を越したが、今年は無理そうだ。ごめん、ごめんと急いで室内に入れた。午後からしっかり着込んで鎌倉へ出かけた。お正月でもないのに、鎌倉は人でいっぱいだ。鎌倉も古都の風情がなくなってしまった。大宮宮の鳥居の前の梅が花をつけている。蝋梅ももう満開だ。なにか季節がおかしい。瑞泉寺に登る道になると静かな古都の風情になる。

お正月の準備がないのでなにかおかしい。いつもなら1000円の大束のお正月の花を活けるのに苦戦しているのに。母のセーターや肌着を買ったり、実家へ持っていく食材を用意しているのに・・・。気の抜けたサイダーのようでもある。これからのお正月は毎年こうなうのだろうか。いや、いや、また新しい生活が待っているだろう。

10時間くらい家を空けて戻ると、部屋は冷蔵庫のようだ。寒い部屋でなぜかインスタントラーメンを食べたくなった。まじめに夕食を作っていたので,こんな夜もいいような気もした。一人とは便利だ。それでも二人の食卓の相棒にごめんなさいね と謝る。ぬいぐるみや空間に話しかけている危ないおばさんだ。いただいてきた数の子の箱を開けてみると、立派な数の子がたくさん!皮肉なことに数の子の大好きな母はいない。この数の子をどうしよう。

1年が終わるような終わらないような、新しいことが始まっているのに、実感なく毎日がすぎていくような、こんな年末は初めてだ。年末にまとまってあった検査も特に異常はなく、健康だった。それだけでも有難いことと思う。背中がストーブでぽかぽかあたたかい。それも幸せだ。これからもずっと幸せが続いていく 、そう思えるようになった。

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ことだま

2018-12-28 18:28:26 | 日記

いよいよ年末。風はないが空気が冷えている。お布団から手が出ていて寒くて目が覚めた。どどどっと疲れが出たのか、夕食を終え、早めに入浴をして、ぶろぐを書こうとパソコンに向うと睡魔が襲ってきた。異様に眠い。画面を見るのがつらくて早々と横になった。そのうち電気をつけたまま眠ったらしい。

疲れたのだ。久しぶりに、いや初めて、心をつくして文章を書いた。ぶろぐもほぼ毎日書いているが、思いを書ききることはできない。これは伝えなくてはということの8割くらいで止めているのだろう。でも、昨日は伝えきらないとならないと思った。決して、文章の構成を考えたりしたわけでなく、伝えたい想いを書ききった。

「言霊」という言葉がある。「古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力」 をいうらしい。聖書にも「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」というヨハネの福音書ある。聖書のほうは、人間という物質から言葉が生まれる と考えるのではなく、言葉が肉体になる という考え方だ。そんなふうに、言葉には力が宿っているのかもしれない。

文章を書き終わって、「力」を出し切ってしまったのではないだろうか。それは言葉が肉体になるというようなエネルギーではないだろうか。「言」という字は、上が「こころ」で下が「口」でこころが口から出るということらしい。単なるパソコンの画面の字が「こころ」となり「たましい」となる・・・。もう、そんな文章を書くことは、人生の最期くらいかもしれない。そのときに読んでくれる人はいるのだろうか。

 

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おもいやりのプレゼント

2018-12-26 19:41:24 | 日記

「お寒い中お待たせいたしました。○○行きのバスです」というアナウンスでバスが止まった。さほど寒くない日だが、こころが和んだ。バスで20分くらいかかる整形外科に出かけた。昨日も出かけたが、あまりにも混んでいたので薬だけで検査は今日にした。今日は院長先生と看護師さんが昨日の混雑のお詫びを言ってくださった。それもまた、心が和んだことだった。

今日は3つの事務的な書類を作っている。事務屋さんだから当たり前だが、ぜんぜん違う書類なので仕事が流れない。朝は、まず社会保険事務所と電話でやり取り。もともと相性がよくないところだ。でも、この年になると議論する気力もなく「はい、わかりました」だ。それから郵便局やら銀行やらへ。どこも混んでいる。年末なのだなぁ と思う。

混雑した整形外科の待合室で本を読むでもなくぼんやりしていた。あれは15年前ぐらいのことだろうか。離婚して間もなくで経済的にまだ安定していないときだった。友だちが会社の仕事をアルバイトのように出してくれた。彼の事務所で仕事をしているとき、しみじみと「本当に強いよな。どこにその力があるんだ?」と言われた。「べつに。一緒に暮らしていた相手が飲んだくれていたり、あれた生活をされるのがいやだっただけよ」と言った。私が仕事も家庭も全部捨てたことを言ったのだろう。仕事を完成させたころがクリスマスだった。食事をご馳走になった。「でも、強いということは武器だよ。哀れが武器なんだけどな」と言っていた。彼流には「つよさはあられ」らしい。

クリスマスに贈ったものが重過ぎて戻ってきた。また、中学の英語の教科書の「クリスマスプレゼント(賢者の贈りもの)」を思い出した。若い貧しい夫婦が大事な自分の髪や懐中時計を売って、相手のために時計の鎖と櫛を買ったお話だった。この季節に思い出す。相手への思いやりがプレゼントだった。それさえあれば、なにがなくてもやっていけると思う。

届いたプレゼントは2つ。「おもいやり」と自分のために買ったパソコンのスピーカだ。音楽を聴くという時間が楽しみになった。

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見送るとき ゆらぐこころ

2018-12-25 20:39:26 | 日記

朝早くから重労働をしてしまった。資源ごみの回収の日。ダンボールや本などを出せる。迷っていた放送大学の教科書を捨てた。50冊はあっただろうか。時々参考にみることがあったが、資料も古いので思い切ってすてた。他に捨てた本は活字が小さいことが理由だ。昔の本の活字は小さかった。一仕事終わって空を見ると暁の十六夜の月が残り、空は朝焼けできれいだった。きりりとした冬の空気が気持ちいい。

11時ごろからはストレッチとボール蹴りに。暖かかった。パワハラとセクハラにも負けず出かけていく。リーダーが「古矢さん、これいいね、見送る人」と「いのち」という冊子に掲載した友だちの詩をプリントアウトして見せてくれた。これはびっくり!「えっ!!Aさん、読んでいてくれるの!うれしいなぁ!」であった。NPOのサッカーの仲間におまけのように配信している。特に何も期待していなかった。そして、その近くにいた人たちも興味をもって、読んでみたいと言う。

    人生の終わりのときまで

     「もう結構」といって済ますことのできない生を

     喜んで生き続けることができるだろうか

     揺らぎ始めている生を

     今 深く受け止めている

このフレーズだろう。最近まで延命治療はしない と考えていた。だが、あの希林さんでも延命治療を拒まずに「いのちを使いきった」そうだ。その話がショックだった。「いのちを使い切るとは?」

 

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