今日で8月も終わり。なんとも大変な月だった。今日は朝から晴れている。窓を開けて空気を入れ替える。気持ちがいい。玄関も掃除して、部屋のなかの扉も開けて空気を入れる。やはり、木の家は湿気がこもるようだ。溜まった書類の整理をしないと。夕方には琵琶湖へ行ってみよう などと考える。
昨日、京都駅に着くとうれしかった。やはり、勝手知ったる・・という感じでほっとする。東京から京都駅に着いたときと同じだ。地下鉄に乗り換えて四条に出ることが多かったので、地下鉄の駅の辺りは、少し変わっていても「ああ、ここはなにだったのだわ」などとよくわかる。自分の身体の中にある何かの遺伝子が京都を恋しくさせているようだ。どこかに刻印があるのかもしれない。東京で育って暮らしたのが40年近く、そのなかでも生まれた文京区の環境が刻印なのかもしれない。長浜もその様な気がする。それは理屈ではなく肌が覚えているというようなものだろう。
人間関係もそうかもしれない。脈絡がないようで、じつは同じような刻印があるのではないだろうか。小さい子供が眠るときに、このぬいぐるみがないといや、眠れない というのと同じように、「これでないといや」があるような気がする。私の場合は、わがままで妥協しなかったのだろう。でも、それでよかったのだと思っている。
少し早めに琵琶湖畔に出かけた。風が気持ちがいい!駅から10分もかからないのに、ここを訪れる人は少ない。湖を見ても仕方ないのかもしれないなぁ。琵琶湖に惹かれる遺伝子はなになのだろうか?これはまだわからない。琵琶湖哀歌が琵琶湖周航のうたの元歌だと言う。旧制第四高等学校のボート部の生徒が強風で練習中に遭難したのを悼んでできたのが哀歌とかいう話だった。その中に三校の学生(京大生)が含まれていたので、三校の寮歌になって残ったとか。歌を口ずさみながら、琵琶湖の懐に抱かれているように感じた。