のりぞうのほほんのんびりバンザイ

あわてない、あわてない。ひとやすみ、ひとやすみ。

求む。優しさ。

2012年05月04日 20時49分03秒 | 日常生活
1日から私の体温は上がったり下がったり、下がったかと思えば上がったり。
まったくもって落ち着きを見せません。
あまりのうろうろ具合にいい加減、いらっと来て

えーい!少しは落ち着きを見せんかーい!
私がちっさい頃から追い求めてきたのは「安定」と「平穏」がもたらす幸せですよー!

と、気合いを入れたところ、夕方から見事な高止まりを見せました。



・・・しまった。
また願い方を間違えた。

明日は甥っ子くんの初節句。
高止まりしてる場合じゃないのです。
半分は優しさでできているという何やらを服んで寝ます。
なにせ、私の中には皆目見当たらない成分なので
外部から取り入れるしかないのです。

愛を巡る旅(新にほん紀行)

2012年05月04日 00時02分44秒 | テレビ鑑賞
「愛を巡る旅(新にほん紀行)」を鑑賞。
死後3年経っても未だにコメントが寄せ続けられている飯島愛さんのブログと、
そのブログにコメントを寄せ続ける女性たちの「今」が30分で
コンパクトに紹介されていました。

見ながら。見終えた後も。
さびしくてさびしくて、やりきれない気持ちになりました。

「自分の周りの人には話せない」
「知っている人だから話せない」
そんなふうに抱え込んでいる気持ちを話せる場があってよかったね、と思うべきなのか。
抱え込んでいる辛い悲しい気持ちを「返事が返って来るわけではない場所」でしか
素直に発散させることができないのはなお一層つらいだろうな、と思うべきなのか。
どちらの感情も等しく私の中にあって
何が何だかよくわからなくなってしまったのが
「やりきれない気持ち」の正体なのかな、ということに
見終えた後、自分を冷静に顧みようと試みてたどり着きました。

「知っている人だから話せない」ということもあるだろうな、と思うのです。
答えとか返事とかは求めてないんだよ。
ただ自分の気持ちを話せればいいんだよ、という気持ちのとき。
でも「わかるよ」と強く思う気持ちとは裏腹に
やっぱり、ここ(愛さんのブログ)でしかつらいっていう気持ちを
吐き出せないのはすごく辛いんじゃないのかな、
愛さんのブログ以外に弱音が吐ける場所、
その弱音を実際に聴いてくれる人の姿って
何も解決してくれなくても大きな力になるんじゃないかな、とも思う自分もいて。

そういう場所があるからなんとか踏ん張れるっていう幸せもあるし
そういう場所があるから、そこで代用できてしまうっていう寂しさもあるうだろうな
と、そういうことをつらつらと思いました。

未だに。
未だに私は自分が何に対して「さびしい」と感じたのかつかめていません。
そもそも私のブログだって似たようなもんだと思うし。
誰かに見せるため、とか読ませるため、ではなく
好き勝手にこの場所で文章を綴っている私と
愛さんのブログにコメントを寄せるために集まる女性たちと
いったい何が違うって言うんだろうと考えると、あまり変わらないと思うのです。
私はこの場所で言葉を紡ぐことでいろんなことを昇華したり消化したりしている。
それはきっと彼女たちも同じなんだろうな、と思いました。

でも、そう考えると
私にとって、教会ってなんだろう、と思ったり。
やっぱりよくわかりません。
きっとしばらくの間は、
この番組のことを思い返すたびにもやもやし続けると思います。
何に対してもやもやしているのか、そこからよく分かっていないままに
なぜか淋しい、もの悲しい、いたたまれない気持ちを味わうと思います。