のりぞうのほほんのんびりバンザイ

あわてない、あわてない。ひとやすみ、ひとやすみ。

勇気ひとつを友にして

2015年02月17日 19時04分09秒 | 日常生活
幼馴染や地元友達と集まって鍋会をしました。

幹事持ち回り制で定期的に集まっては遊んでおり、今回は私が幹事! ・・・なのですが、なにせ地元友達宅で鍋をすることは前回、遊んだ際に決めていたのです。
残った作業は、当日、みんなで集まって買い物をし、買った食材を切って鍋に放り込むぐらい。

楽ちん幹事となれたので、幹事らしく「鍋の後、みんなでトランプでもしようぜ♪」と、幼馴染にトランプ持ち込みをお願いしました。
そして、自宅を解放してくれる地元友達には「お家の隅々まで見たいんで、ありったけの勇気を持って行きます!」と宣言。

なにせ、他人様のおうちにあがりこむのが大好きなのです。友人の家に遊びに行くとついつい(でも必ず!)部屋の間取りだけでなく、本棚の本とか、並んでるCDのタイトルとか、洗面所の広さとか、お風呂場の掃除具合とか、トイレの明るさとか(以下省略。とにかく隅の隅の隅まで!)一切合財見て回る派です。(大迷惑)

自宅開放予定の地元友達からは即座に「鍋するのに勇気なんていらないから。その情熱をもっと他のところに向けなさい。鍋の準備とかがんばるところが他にあるやろ。」と冷たい返事が返ってきましたが、ふふふん♪と右から左へ聞き流しました。

というわけで、当日。
幼馴染は集合予定時刻30分前に待ち合わせ場所のスーパーへ到着。(凡ミスだそうです。)
自宅開放予定の地元友達は10分前に到着。(社会人として当然の気遣いだそうです。)
うっかり集合予定時刻に家を出てしまった地元友達は(ふと気が付いたら時間になってたんだそうです。)前々から「遅れる気がする」と言っていた幹事(私。もはや確信犯。)を拾うように指示され、わざわざ駅まで出迎えてくれました。その間に本来いるべき場所に時間通りにいた友人2名はお買いもの開始。素敵すぎる連係プレーです。

買物もそろそろ終わるよ!という頃にようやく合流できた幹事は、自宅開放予定の地元友達(もはや裏幹事)から「この役立たずめ!」と罵られたのでした。あまつさえ「もう鍋のスープの味は決めたから。おやつも買わん。」とちびっこのような脅しを受けたのでした。もう結構な大人なのに・・・。

そんなこんなで(って、ほぼすべて幹事の遅刻が原因ですが)当初の予定よりも大幅に遅れつつも裏幹事の家に到着。
歓声をあげながら部屋に入り、早速、当初の宣言通り部屋の隅の隅の隅の隅まで見て回ったのでした。それでも、一応の遠慮はきちんと発動していて、押し入れの中とかクローゼットの中とか洗濯機の中とか、そういう「わざわざ開ける」という動作が必要な場所に関してはちゃんと「見たい!」という気持ちを抑えたのです。大人としてのたしなみは携えてた!
・・にも関わらず「ホントに遠慮がまったくない・・・。」と渋い顔を崩さない裏幹事。
渋い顔をまったくもって崩さず、ぶつぶつ文句を言いながらも「鍋ができるまでに絶対、お腹がすくと思って。」と、手作りスープを温めてくれました。
・・この女子力の高いツンデレさんめ。

お腹もちょっぴり落ち着いたところで鍋の準備を開始します。
「鍋は?」と聞かれて、あわててスープを作った鍋を洗い出した裏幹事の隣で、女子力高い幼馴染はてきぱきと作業指示を出し始めます。その指示に従順に従う地元友達は、野菜を洗ったり切ったり、という作業を「奥さんの尻にしかれている新婚の旦那さん」のような雰囲気で楽しそうに(でも、幼馴染いわく危なっかしく)こなしているため、えっらくかわいらしく、私は完全に鑑賞者となってしまいました。(要するに何もしていません。台所で作業ができる人数って意外と限られているのです。) 幼馴染の的確な指示のもと、順調に鍋が仕上がりつつあるそのとき。
ふと、私の頭の中を記憶の断片がよぎりました。



・・・あれ?
そういえば。
鍋会をするって決めた時に、裏幹事さんが「俺んち、割と人数入るけど、鍋がないよ。」って言ってなかったっけ。
でもって、そのとき、張り切って「大丈夫!うちに鍋あるよ!コンロも持っていくよ!」って言ってなかったっけ?私。

と、記憶の糸をたどりよせた私は思わず
「鍋、忘れてた!」
と、大声で叫んだのでした。
でもって、思わず大声で叫んだ自分に改めてびっくりしました。
まさかね。忘れ物を思い出して大声で叫ぶ、なんて、こんなベタな漫画的展開を日常生活で実演する日が来るなんてね。思いもよりませんでしたよっと。

というわけで、嫌がる裏幹事(えー?また家出るのー?面倒くさくない?と盛大に嫌がられました。が、てきぱき動く幼馴染が「鍋はもういらないけど、コンロはあったほうが絶対に便利だって!」と穏やかに説得してくれました。ええ幼馴染や。と、ほろり。)に車を出してもらい、コンロを求めて一路自宅に向かったのでした。

自宅に向かう車の中、「まさかね。案内メールを出した幹事が『持ってくるもの』の中から勇気しか持ってこないとは思わなかったよ。」と若干、「呆れる」を通り越して感嘆し始める裏幹事。

そうなのです。
今回、幹事として目一杯がんばった作業はみんなへの案内メール送付のみ。
張り切ってメールを作成した私は持ってくるものリストもちゃーんと掲載していたのです。

■持ってくるもの(当日までの準備含む)
・お部屋の片付け→裏幹事さま
・ガスコンロ→幹事
・鍋→石井さん、幹事
・トランプ→幼なじみ
・みんなで笑える写真→全員
・近況報告ネタ→全員
・美味しいおやつ→希望者
・薬味→希望者
・すべての部屋を見て廻る勇気→幹事

準備は完璧だったのに。

教訓:案内メールや準備リストは直前に見返すべし。

[映画]ランボー2 怒りの脱出/1985年米国

2015年02月11日 11時40分45秒 | 映画鑑賞
■ランボー2 怒りの脱出/1985年米国
■監督:ジョージ・P・コスマトス
■脚本:シルヴェスター・スタローン、ジェームズ・キャメロン
■出演
シルヴェスター・スタローン、リチャード・クレンナ、チャールズ・ネイピア、スティーヴン・バーコフ、ジュリア・ニクソン

■感想 ☆☆☆*
「ランボー」とセットで見た「ランボー2」。「ランボー」は油断して見てしまいましたが、「ランボー2」は「アクションといえども、それだけじゃないよ。」という心の準備をかなり気合を入れて挑みました。が、あえなくノックアウト。現実と見事にリンクをしているような人質のエピソードに、なぜ私たちは同じことを繰り返してしまうのだろう、なんでもう30年も前に公開されたこの映画の題材がまったく古びることなく、今の世の中に通用してしまうのだろう、と痛む心を抱えての鑑賞となりました。
「ランボー」はやるせない気持ちを十分に味わったけれど、心置きなく主人公、ランボーに肩入れして見ることのできる映画でした。けれど「ランボー2」はランボーの怒りが大きすぎて、そして、国に忠誠心を持っているランボーは人を殺すうこと、ベトナム兵(やその背後にいるロシア兵)と戦うことには何の疑問も抱いていなくて、躊躇なく行動に移す姿が、よりいっそう「今このとき」を象徴しているようでひたすらに哀しく、心痛い2時間でした。

元上官のトラウトマン大佐がランボーを訪れるところから映画は始まります。彼は、服役中のランボーに、ベトナムの捕虜収容所付近へ潜入し、ベトナム戦争から10年以上経過しているにも関わらず、今なお囚われている戦争捕虜の証拠写真を撮影して帰ってきてほしい、と依頼します。
実際にベトナムで戦っていたために、捕虜がいるのであれば、捕虜を助けたい、と純粋に願うトラウトマン大佐。一方で、できれば「捕虜なんていない」という証拠を押さえてほしいと願う政府は、今なお捕虜がいることが分かると、捕虜を助けるために国防費からお金を投じなければいけないし、捕虜やその家族へも莫大な補償金を支払う必要が出てくる、捕虜がいたとしても、いなかったことにしたい、と画策します。
そんな上層部の思惑の違いなどなんのその、ランボーはひたすらに自分の信じる正義のため、命令を無視して捕虜たちを助け始めます。

しかし、無敵のランボーといえども、助けてくれると想定していた自国の軍から見捨てられた状態ではベトナムから脱出することかなわず、一度は捕虜を助けだしたものの、捕まってしまいます。捕まったランボーが虐待を受けながら「国に助けを求めろ。」と命じられる場面は、今このときに見ると、フィクションと分かっていても、つい現実と重ねざるをえない迫力で、正面から見ることができませんでした。
どんなに痛めつけられても、決して屈しようとしないランボーを見て、ターゲットを捕虜に変更するロシア軍兵士。自分の命ではなく、仲間の命を人質にとられ、初めて動揺を外に出すランボー。この映画が公開されて30年も経つのに、この場面が今とリンクしている、というその事実が私を打ちのめした気がします。

絶体絶命のピンチを乗り越え、すべての人質と共に脱出するランボーは、躊躇することなく、ベトナム兵を壊滅し、すぐ近くの村でも殺戮を繰り返し、一見ベトナム兵とは関係なさそうに思える普通の村人たちをも巻き込み、大脱走を繰り広げます。逃げ出すためには手段を択ばない。やられないために、やられる前にやりかえす。10年以上も捕虜として劣悪な環境で過ごしてきたアメリカ兵をアメリカに連れ帰りたいと願うランボーの気持ちはよく分かる。彼らを実際に虐待し続けていたベトナム兵とロシア兵に怒りを覚える気持ちもわかる。何より、彼らを「なかったこと」にし、見捨てた国や政府に大きな怒りを覚えているランボーの気持ちもすごくよく分かる。
けれど、怒りを原動力にして、目の前の敵をすべてなぎ倒して道を作り出すランボーの姿にはどうしても共感できず、だからといって、ここでは「話し合えばわかる」というような理想論は絶対に通用しないことも容易に想像できて、じゃあ、一体、私たちはどうすればいいんだろう、どうすればよかったんだろう、ということをひたすらに考えさせられる、後半部(おそらくクライマックス)でした。

映画のラストで国に絶望し、勲章を断るランボーにトラウトマン大佐は「何が望みだ?」と尋ねます。
「俺たちが国を愛しているように、国にも俺たちを愛してほしい。」というランボーの言葉に、私はおなじぐらいの大きさの共感と反感を覚えました。確かに国には(政府にも)国民を愛してほしい。「自己責任」という言葉で国民を切り捨てないでほしい。
けれど「国を愛する」という言葉にはどうしてもひっかかりを覚えてしまいました。大事な人たちがたくさんいて、生まれ育った大切な思い出があって、なじみ深い文化がある、その結果、この国を大事に思う気持ちは分かる。けれど、私たちはきっと「国」という漠然としたものではなく、具体的に思い浮かべることのできる家族や友達、すぐ近くに生きている隣人を愛するべきなんじゃないのかな。そして、遠くの国で、同じように愛されながら生きて生活しているその国の人たちがいることを忘れちゃいけないんじゃないのかな、と思うのです。

応援したよ!北九州マラソン2015

2015年02月09日 23時31分50秒 | 100キロウォーク
今年も北九州マラソンが無事に終わりました。
・・・無事に、だったのかな?
海風がとんでもない強風で雪もちらつく中のマラソン・・・。
無事とは到底言い難い。でも、参加者みんなとても楽しそうな(でも、やっぱりもっっっっっのすごくっきつそうでもある)マラソンでした。

昨年から始まった北九州マラソンを私は昨年、我が家の前にて楽しみました。
1万人という数の多さと迫力を大いに楽しみ、そして1万人という数を具体的にこの目で見て、人数を具体的に実感しました。ニュースや新聞で目にする数字を、私はついつい「統計」としてさらっと受け止めてしまいがちなのですが、1万人を数字を実際にこの目で確認すると、いろんなことを改めて考えさせられるというか、1万人って本当に多いんだな、と感慨にふけさせられたというか。

閑話休題。
北九州市を大いに愛する地元民として、久々に北九州を元気に賑やかに彩ってくれたイベントを大歓迎したし、当日も楽しそうに走るランナーの姿をきゃあきゃあ言いながら楽しんだのですが、ひとつだけ心残りがありました。
それが知り合いが大勢ランナーとして出場したにも関わらず、ひとりも見つけられなかったぜ・・・というもの。

そうなのです。割に多くの知り合いが北九州マラソンに挑戦したというのに、1万人という数の迫力はものすごくて、ひとりたりとも見つけることはできなかったのです。
今年こそ!今年こそはちゃんとみんなを見つけて直接、声をかけるのです。
応援している私の姿をちゃんと見てもらうのです。

というわけで。
今年はマラソン前々日に出場者の面々へ「ここで応援してますよ!」というアピールをきちんと告知。
準備万端で当日に臨みました。
(なんなら、わくわくしすぎて朝、早起きもしました。出場するわけでもないのに、5時半に目覚ましをセット。でもって、母上が言うには、あまりに早い目覚まし時計のアラームに寝ぼけまなこの私は朝から激怒してたんだとか。でも、私には6時過ぎにすっきり目覚めた記憶しかないんだけど。おかしいなぁ。)

9時には寒さなんてなんのその、北九州マラソンスタートです。
スタート地点から2キロ弱地点の我が家付近には9時5分過ぎに先頭集団が到着しました。早っ!
今年も色とりどりのランナーたち。おしゃれな人、本気で走ってそうな人、楽しさを追求している人、にこにこしている人、コスプレしている人。
ランナーたちはそれぞれいろんなスタンスでマラソンに参加していることが分かる恰好で、でも、みな一様にすごく楽しそうという共通点があって。
なんだか羨ましくなりました。

とはいえ、羨ましがっている場合ではないのです。
次々にやってくる(やって来ているに違いない)ウオーキング仲間を見つけなければ!







・・・無理だわー。
ランナー1万人が次々にやって来るのに、これっぽっちも「知り合い」っぽい人に遭遇できない。
所詮1万人分の10を探そうっていうほうが土台無理だったのです。
今年も誰も見つけられないかもしれない、と心折れかけていたそのとき。
「のんちゃん!」と声をかけられました。
ウォーキング仲間のキャップが!軽やかに私を見つけてくれたー!!

と、歓喜している間にランナーが次から次へと通過。
みんな律儀に私を探してくれてました。私を見つけては、笑顔で声をかけてくれました。
なんだろなー。走っているみんなを見るだけであんなに嬉しくなるなんて。
すっごく不思議ですが、とにかくすっごく楽しかった!応援場所を宣言していて、本当によかった!と、心から思いました。

そして、なぜか私の隣では、私以上に母上がランナーに声をかけられて大喜びをしていました。
初めて顔を合わせる人がほとんどだというのに、「のんちゃん!」と声をかけてくれるランナーを見つけるやいなや、「きゃー!」と喜びながら「がんばって!」と熱烈に応援。・・・会ったことなかったよね?と、思わず確認しました。
「うん。あの人、誰?」と問い直されました。
なぜに知らないのに、そこまで興奮できるの?と無邪気な母上に心の底から感心。なんでこんなに素直な人が私の母上なんだろう?
とはいえ、ウォーキング仲間のみんなをほぼ全員、私より早く母上が認識して反応していたため、おそらく声をかけてくれたみんなはきょとんとしてたはず。
そんなこんなで、今年も大いに北九州マラソンを楽しみました。

今年は自宅前だけでなく、小倉駅周辺にも出向いて応援できたし。
スタート地点間近の我が家とはまったく異なるランナーたちの姿はマラソンの過酷さを物語るもので、運動と言うものに縁がない故に、ランナーがどんな言葉を(応援を)欲しているのか、これっぽっちも見当がつかない私は、「がんばれ」とすら声をかけることができずにいました。
なにせみんな、これ以上がんばれないぐらいがんばっているのが分かりすぎるぐらいわかる表情、姿なのです。
とても「がんばれ」なんて言えない・・・。

と、せつない気持ちになりましたが、夜の打ち上げで出会った勇者の方々は、みな一様に晴れやかな顔で「応援が嬉しかった!」「がんばってって言われると、すっごくきついのに、ほんの少し加速できるんよ。」と口々に話されていました。なるほど・・・。
あまり深く考えすぎず、来年は素直に応援しようと思います。

そうです。来年は今年以上に熱烈に応援する予定。
まさか実際に出場する、なんてことあるわけがないのです。
なぜかウォーキング仲間のみなさんは、根拠なく明るく「のんちゃんなら絶対に走れるって!」「楽しいよ、絶対☆」「応援するより実際に出るほうがずっとずっと楽しいから!」などと、と誘ってくれるのですが、自分が42キロも走っている姿なんて、今の私にはこれっぽっちも想像できないのです。

打ち上げのみんなはすごくすごく楽しそうだったけれど、その口から語られる経験談は、ものすごくものすごくきつそうなものばかりだったし。何より2月のこんな過酷な環境で走るなんて、そんなこと、へなちょこの私の引き出しを片っ端からひっくり返しても出てきそうにないのです。

元来、体育というものをずっと苦手にしてきた私が、その中でもマラソンは別格で苦手だった私が、一年で一番嫌いな季節が冬で、その理由の何割かを「体育の授業がマラソンになるから」を占めて来ている私がフルマラソンだなんて・・・無理無理無理っ!
と、言いながらも、どこかでほんのちょっぴり走っているみんなをかっこいいなぁ、と思っている自分もいて。
無謀な自分にちらりと恐怖を感じる今日この頃です。

[映画]ランボー/1982年米国

2015年02月06日 18時07分09秒 | 映画鑑賞
■ランボー/1982年米国
■監督:テッド・コッチェフ
■出演者
シルヴェスター・スタローン、リチャード・クレンナ、ブライアン・デネヒー

■感想 ☆☆☆☆
アクション映画というものをほとんど見たことない私に、地元友達が勢い込んでそのジャンルでは「名作」と名高い作品を複数借りてきてくれました。見たことない私ですらタイトルは知っているような有名作ばかり。そして、見たことある人からすると、おそらく「なぜに今頃?」と首をかしげるに違いない昔の作品ばかりです。(しかし、私同様、アクション映画に疎い妹さんや母上はタイトルを伝えても「あ。聞いたことあるー。」という反応でした。この反応からも私がいかにアクション映画と縁なく育ったのかが分かるってもんです。)

というわけで、「アクション映画ね。おっきい音させてどんぱちしたり、人の生き死にに関わる場面が多かったりするんでしょ?覚悟して見ますよー。」ぐらいの心の準備で見た「ランボー」。「アクション映画見るよ。」ぐらいの心の準備じゃ全然足りませんでした。主人公、ランボーの抱える虚無感、孤独、痛みの大きさに胸が張り裂けそうになりながら見終えることになりました。ホント、生半可な気持ちで見る映画じゃなかった!もっと真剣に心の準備をする必要があった!思わず、見終わった後、地元友達に「最初にちゃんと言ってよ!」と八つ当たりしてしまいました。

戦友を訪ね、山間の田舎町にやってきたベトナム帰還兵ジョン・ランボーが、ようやく探し当てた友人の家族から息子の死を告げられるところから映画は始まります。とぼとぼと寒そうにさびしそうに来た道を引き返すランボー。そんな彼を巡回中の町の保安官ティーズルが見つけます。彼はランボーの貧相な格好や流れ者のような雰囲気を忌み嫌い、「この街から出ていけ」と高圧的な態度で告げますが、なぜか異様に反抗的なランボーはその勧告に応じず、結局、拘置所に連れて行かれることに。よそ者に対して閉鎖的、かつ居丈高な保安官たちから拘置所で拷問を受けた彼は、ベトナムでの出来事をフラッシュバックで思いだし、保安官を暴力で振り払います。そのまま山へ逃げ込んだランボーはいつしか保安官たちと戦うことに・・・というのが大まかなあらすじ。

ランボーひとりに対して町の保安官、ひいては州警察、と大がかりな組織が対抗に乗り出すものの、驚異的な体力、かつ鍛え抜かれた軍事センスの持ち主であるランボーの前に次々と犠牲者が出てなす術もない、という話です。
アクション映画の金字塔と言われているだけあって(言われている、と勝手に思っています。だって、私ですら知ってる作品だもの。)アクション場面は見事。びっくりするほど若いシルベスタ・スターローンが体を張って手に汗握るアクションを次々とこなします。

けれど、この映画が描いているのは派手なアクションで大活躍する無敵のヒーローではなく、あくまでも戦争で傷つき、未だに悲しみから立ち直れないベトナム帰還兵。ランボーが抱える孤独と哀しみ、ランボーだけでなく、ランボーと共に戦った仲間たちを含めた「彼ら」のやりきれない思いと境遇に静かに焦点を定めた映画でした。
国のため、と信じ、命をかけて戦ってきたランボー。それなのに、戦争に負け、戻ってきた彼を待っていたのは「あの戦争は間違っていた」という国民たちの声でした。戦争に貢献し、英雄として多くの勲章をもらったにもかかわらず、国に帰って来てみれば職もなく、命を呈して守ったはずの国民からは、ベトナム帰還兵と言うことでいわれなき差別を受けます。
国のため、と信じて戦った彼が守ってきたはずの国民から反発される寂しさ。英雄だったはずなのに、職もなく生活も安定しない不安と屈辱。最も辛かった時期を共に支え合った仲間たちを襲う化学兵器の影響による死。共にあの頃を思い出したり、今を嘆きあったりする相手もいない孤独。
何もかも失ったランボーに、町の保安官ディーズルが「町を守るため」と彼を追い出そうとするのが冒頭の場面です。守ってきた「国」の一部分である「町」の保安官から「町を守るため」と追い出される理不尽さ。
 言われるままに戦ってきた末にすべてを失ったランボーだからこそ、権力の象徴のような保安官の理不尽な命令に反抗的になったんだろうな、と納得しました。

 最も印象に残ったのは、山に立てこもったランボーがかつての上司トラウトマン大佐と無線越しに会話する場面でした。戦場で助け合い、信頼し合った父親のような上司からの呼びかけに迷った末に応じるランボー。おそらく彼はこの無線が逆探知されていることも分かっていたからこそ、迷った上で呼びかけに応じていて、その長い逡巡にトラウトマン大佐への信頼の大きさが伺えました。冒頭からほとんどセリフがなかったランボーはここでも言葉少なく、トラウトマン大佐の呼びかけに必要最低限の言葉で応じます。そんな彼が絞り出すように発した「みんな死んでしまった。」という報告に、彼の悲しみの大きさが伝わってきました。
映画ラスト間近、クライマックスでのランボーの独白場面も十分に胸迫るものがありましたが、私は声高に理不尽を訴えるこの場面よりも、暗い狭い山中の洞窟の中から言葉少なく語る彼の声と暗い画面の中、何度もクローズアップされる彼の伏し目がちの黒目のほうが彼の孤独と虚無感を強く伝えてくれていたように思いました。

 ラストに向けてどんどん破壊行動を続けるランボーは、きっと未来を生きることも明日を迎えることも望んでいなかったのだと思います。望むどころか、きっと彼は明日が来ることを想像すらできなかったのだろうと思うのです。あまりに孤独が大きくて、彼には「今」しかなかったし、自分が抱えるやりきれない思いを、理不尽な現実に対する怒りを、今、吐き出さずにはいられなかった。そして、吐き出せば吐き出すほど、その怒りも虚無感も増幅してしまったんだろうな、と思いました。

 私は歴史に疎い人間なので、ベトナム戦争がどうやって起こったのか、なぜ間違った戦争だったといわれているのか、どうやって終息したのか、アメリカがベトナムで何をしたのか、すべてをふんわりとしか知りません。でも、結局のところ、戦争に正しいも間違いもないんだな、ということを改めて強く思いました。正しい戦争なんて絶対にない。戦争に正義なんてない。どの戦争も哀しい結末しか生まない。そして、最も傷つき、痛むのは、ランボーのように何も知らず、行かされた人、国を信じて行動した人たちなんだろうな、と思いました。

2015年1月の読書

2015年02月04日 23時51分59秒 | 読書歴

1.隠し剣秋風抄/藤沢周平 ☆☆☆
2.隠し剣孤影抄/藤沢周平 ☆☆☆
3.花のあと/藤沢周平   ☆☆
4.蝉しぐれ/藤沢周平   ☆☆☆

→昨年末から藤沢周平さんにはまりました。
時代に、剣の力に、そして武士社会の家制度や人間関係に翻弄される主人公たちのほろ苦い人生に胸を痛めながら年末年始を過ごしました。幸せってなんだろう、と思わずにはいられないほろ苦い結末が多くて少し参ってます。次はザ・エンタメ!という感じのスカッと爽快、単純明快な作品に触れたいなー。

5.夜の光/坂木司     ☆☆☆

→藤沢先生のほろ苦い世界観に浸りすぎた反動で、優しい柔らかい世界を求め、坂木さんにたどり着きました。さくさく読みやすい。そして、登場人物たちがみな優しい。坂木さんの作品を読んでいると、自分の猛々しさを素直に反省したくなります。

6.先生と僕/坂木司    ☆*
7.切れない糸/坂木司   ☆☆

→クリーニング屋さんのお話。業界モノは、異業種交流会に参加しているような面白さが満載で大好きです。私は何の気なしに(まったく深く考えることなく)今の仕事を選んだけれど、仕事が違うと生き方もまるで異なって来るんだなぁ、ということを他業種のお話を伺っているとしみじみ思うのです。

8.三匹のおっさん ふたたび/有川浩  ☆☆*

→大好きな「三匹のおっさん」の続編。1冊目は単純明快な勧善懲悪ものですっきりする話ばかりでしたが、2冊目は今の世の中を反映しているからなのか「すっきり気持ち良い終わり方」のお話が少なかったような気がします。ちょっぴり消化不良。

9.田村はまだか/朝倉かすみ ☆☆☆☆

→一度読んだにも関わらず、そして、「あぁ。好きだな、この話。」と心を温められた記憶があるにも関わらず、話の詳細をこれっぽっちも思い出せなかったため、再読。やっぱり好きでした。何度読んでも好きな作品は好き。毎日を丁寧に地道に生きるっていうことは簡単なようで難しくて、難しいくせに軽んじられがちで、でも、それでも地道に生きれる人、大切なことや大切な人を大切にし続けられる人は強いんだな、と思いました。
地道に丁寧に、大切なものを見失わずに生きた田村も愛しいけれど、小学校卒業から(おそらく)20数年が経過しているのに、クラス会の二次会で「田村はまだか?」と田村を待ち続ける40代のかつてのちびっこたちもたいがい愛しいな、と思いました。

10.煙とサクランボ/松尾由美 ☆☆☆

→バーの片隅で生きる幽霊のお話。思っていたよりもかなりビターな雰囲気で、ドラマ化したら、面白そうだな、と思いました。主人公の幽霊は柴田恭平さいいか、もしくは水谷豊さん。ヒロインは、倉科カナちゃんかな。ちっこいかわいらしい感じがぴったりだと思うんだけどな。そして、幽霊に動じることなくすんなり受け入れちゃう(でも、かなりヒネクレモノの)バーのマスターは、ぜひ金子ノブアキさんにお願いしたいです。・・・見たいなー。

11.霧島、部活やめるってよ/朝井リョウ ☆☆☆*

→映画化までされたかつての話題作にようやく図書館で出会えたので喜び勇んで借りてきました。面白かった!そして、今を生きる若者たちがあまりにも窮屈な世界で生きているので、もの悲しい気持ちになったお話でもありました。特に1月前半、藤沢先生のお話を読んでいたので、余計に質の異なる息苦しさを感じたのかもしれません。藤沢先生が描く作品世界の時代と比較すると、私たちは格段に自由に生きられるようになったのに。みんなが目に見えない檻や空気感と言う得体のしれないものと戦って生きている。大変な時代になったなぁ、としみじみ考えさせられました。


---- 2月の読書 ---------------

12.風が強く吹いている/三浦しをん ☆☆☆*
13.王妃の館(上)(下)/浅田次郎 (読書中)