■もののけ姫/1997年日本
■監督・脚本:宮崎駿
■音楽:久石譲
■声の出演:
松田洋治、石田ゆり子、田中裕子、小林薫、美輪明宏、森繁久彌、西村雅彦、上條恒彦、島本須美
■感想 ☆☆☆☆
久々に「もののけ姫」を鑑賞。
久々も何もおそらく2回目の鑑賞です。
決して嫌いな作品ではないし、好きか嫌いかと問われると「とても好き」なのですが、「好き」と言い切るには、作品のラストが私にとって哀し過ぎて、見返したい、という気持ちにはなれずにいたのです。今回、満を持しての2回目の鑑賞です。
あれからもう10年も経ったし・・・と書き出したところで「ん?10年?」と思い、うぃきぺでぃあ大先生に「本当に10年でしたっけ?」と確認したところ、「ばーか。そんなわけないだろ。もう17年前の作品だぜ?」と嘲笑われました。じゅ、じゅうななねんっ?!と驚愕。そっかー。17年も経つのかー。・・・驚愕。(しみじみと。)
そんなわけで、あれからもう17年も経ったことだし、人の感性って、年月を経て変わるものだから、今回の鑑賞で私の「もののけ姫」に対しているイメージもがらりと変わるかもしれないなあ、と思っていたのですが。
見終えて「胸にズシンとくるこの感覚、変わりないな。」と思いました。中盤以降、話が展開すればするほどに辛く重い気持ちになり、眉間にしわを寄せながら鑑賞しました。
キツかった。すごく好きな作品なのに、見終えた時にはズシンと地に落ちていました。作品世界に随分とひっぱられてしまったなー。
キツイと思うこの感覚は、おそらく私にとってこの映画が「フィクション」とは思えないからだろうと思うのです。勿論、フィクションだとわかってはいるんだけれど、どうしても「まったくの絵空事」とは思えない。今の世の中にある様々な問題を多少デフォルメしながらもしっかり忠実に捉えているから、そして、その問題は私自身の関わり方、心の持ちようも問われるものだから、逃げ場のない気持ちになるんだろうな、と思いました。何より、私が私の軸をしっかりとどちらかに置くことができないでいるから、スタンスを定められないでいるから、だからこんなにもどっちつかずのきつい気持ちになるんだろうな、と思いました。
例えば、アシタカが懸命に森と人間が共存する道を探そうと走り回る姿や、サンが「人間はキライ」と人間に背を向ける姿、人間に追いやられ、荒れ狂い始めるおっことぬし様の姿。どのキャラクターにも一様に共感できてしまう。
その一方で今まで差別を受けていたらい病患者を迎え入れ、春をひさぐしかなかった女性たちを引き取り、仕事を与えたエボシ様の持つカリスマ性、リーダーシップにも魅力を感じてしまう。
エボシ様はラストで「私が間違っていた。これからは新しい国づくりを始めよう」と言い、今までのようながむしゃらな森林破壊、周囲の国々を利用するような取り引きは控えるのではないか、というような未来の可能性を見せて映画は終わりを迎えます。
けれど。
けれど、思うのです。きっと私は、私だったら、一度手に入れた「便利なもの」を手放すことができないだろうな、と。森を破壊してしまう、私たちより先に森に住んでいた森の住民たちを追いやってしまう、住むところを奪ってしまう、とわかっていても、きっと私はたたら場の再建のために働いてしまう。たたら場のなかった時代には戻れない。
そして、それは責められることでもないはずだ、とも思うのです。今まで虐げられていた彼らがたたら場によって「未来」を信じ、「明日」を待ち望むことができるようになったのは、喜ぶべきこと。彼らに「昔の暮らしに戻りなさい」と言う資格は私にはない。
だとしたら、アシタカの言うところの「みんなが共存し、共に生きる世界」はどこにあるんだろう、どんな世界なんだろう。今の私はまだその未来を具体的にイメージできません。だから、彼らの「これから」を思うと、やりきれない気持ちになるんだろうな、と思いました。
もうひとつ。彼らが森と共に生きることを放棄したこと。「人間じゃないもの」への敬意を放棄したこと。たくさんの「不思議」や「神秘」を内包する森や山を人が支配しようとしたこと、これらもすごく哀しかったように思います。
私は日本人の持つ、人じゃないもの、木や石や海、草に命を見出すところ、古いものに敬意を払うところ、人じゃないものに寄り添って生きるところ、そういった性質がとても好きなんだ、ということに改めて気付かされた気がします。
人間が山を、大いなる自然を、制御できるわけがないのです。そこに軸を置いて謙虚に生きれる人間でありたい、そう強く思いました。
■監督・脚本:宮崎駿
■音楽:久石譲
■声の出演:
松田洋治、石田ゆり子、田中裕子、小林薫、美輪明宏、森繁久彌、西村雅彦、上條恒彦、島本須美
■感想 ☆☆☆☆
久々に「もののけ姫」を鑑賞。
久々も何もおそらく2回目の鑑賞です。
決して嫌いな作品ではないし、好きか嫌いかと問われると「とても好き」なのですが、「好き」と言い切るには、作品のラストが私にとって哀し過ぎて、見返したい、という気持ちにはなれずにいたのです。今回、満を持しての2回目の鑑賞です。
あれからもう10年も経ったし・・・と書き出したところで「ん?10年?」と思い、うぃきぺでぃあ大先生に「本当に10年でしたっけ?」と確認したところ、「ばーか。そんなわけないだろ。もう17年前の作品だぜ?」と嘲笑われました。じゅ、じゅうななねんっ?!と驚愕。そっかー。17年も経つのかー。・・・驚愕。(しみじみと。)
そんなわけで、あれからもう17年も経ったことだし、人の感性って、年月を経て変わるものだから、今回の鑑賞で私の「もののけ姫」に対しているイメージもがらりと変わるかもしれないなあ、と思っていたのですが。
見終えて「胸にズシンとくるこの感覚、変わりないな。」と思いました。中盤以降、話が展開すればするほどに辛く重い気持ちになり、眉間にしわを寄せながら鑑賞しました。
キツかった。すごく好きな作品なのに、見終えた時にはズシンと地に落ちていました。作品世界に随分とひっぱられてしまったなー。
キツイと思うこの感覚は、おそらく私にとってこの映画が「フィクション」とは思えないからだろうと思うのです。勿論、フィクションだとわかってはいるんだけれど、どうしても「まったくの絵空事」とは思えない。今の世の中にある様々な問題を多少デフォルメしながらもしっかり忠実に捉えているから、そして、その問題は私自身の関わり方、心の持ちようも問われるものだから、逃げ場のない気持ちになるんだろうな、と思いました。何より、私が私の軸をしっかりとどちらかに置くことができないでいるから、スタンスを定められないでいるから、だからこんなにもどっちつかずのきつい気持ちになるんだろうな、と思いました。
例えば、アシタカが懸命に森と人間が共存する道を探そうと走り回る姿や、サンが「人間はキライ」と人間に背を向ける姿、人間に追いやられ、荒れ狂い始めるおっことぬし様の姿。どのキャラクターにも一様に共感できてしまう。
その一方で今まで差別を受けていたらい病患者を迎え入れ、春をひさぐしかなかった女性たちを引き取り、仕事を与えたエボシ様の持つカリスマ性、リーダーシップにも魅力を感じてしまう。
エボシ様はラストで「私が間違っていた。これからは新しい国づくりを始めよう」と言い、今までのようながむしゃらな森林破壊、周囲の国々を利用するような取り引きは控えるのではないか、というような未来の可能性を見せて映画は終わりを迎えます。
けれど。
けれど、思うのです。きっと私は、私だったら、一度手に入れた「便利なもの」を手放すことができないだろうな、と。森を破壊してしまう、私たちより先に森に住んでいた森の住民たちを追いやってしまう、住むところを奪ってしまう、とわかっていても、きっと私はたたら場の再建のために働いてしまう。たたら場のなかった時代には戻れない。
そして、それは責められることでもないはずだ、とも思うのです。今まで虐げられていた彼らがたたら場によって「未来」を信じ、「明日」を待ち望むことができるようになったのは、喜ぶべきこと。彼らに「昔の暮らしに戻りなさい」と言う資格は私にはない。
だとしたら、アシタカの言うところの「みんなが共存し、共に生きる世界」はどこにあるんだろう、どんな世界なんだろう。今の私はまだその未来を具体的にイメージできません。だから、彼らの「これから」を思うと、やりきれない気持ちになるんだろうな、と思いました。
もうひとつ。彼らが森と共に生きることを放棄したこと。「人間じゃないもの」への敬意を放棄したこと。たくさんの「不思議」や「神秘」を内包する森や山を人が支配しようとしたこと、これらもすごく哀しかったように思います。
私は日本人の持つ、人じゃないもの、木や石や海、草に命を見出すところ、古いものに敬意を払うところ、人じゃないものに寄り添って生きるところ、そういった性質がとても好きなんだ、ということに改めて気付かされた気がします。
人間が山を、大いなる自然を、制御できるわけがないのです。そこに軸を置いて謙虚に生きれる人間でありたい、そう強く思いました。